1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

“新幹線がとまる唯一の村”西郷村の「新白河」駅には何がある?

文春オンライン / 2024年9月2日 6時0分

“新幹線がとまる唯一の村”西郷村の「新白河」駅には何がある?

“新幹線がとまる唯一の村”西郷村の「新白河」駅には何がある?

 思い返せば2022年。この年の夏の甲子園で優勝したのは、宮城県代表の仙台育英だった。東北勢では初めてとなる全国制覇。仙台育英の選手たちは新幹線に乗って仙台に帰る途中、白河市内を通過したときに、記念撮影をしたらしい。いわゆる「“深紅の優勝旗”がはじめて白河の関を越えた」瞬間だった。

 何やら、その瞬間をテレビのヘリが空撮で捉えたり、白河の関跡とされている白河神社が参拝客で溢れたり、などといういろいろなできごとも付随したという。

 細かいことをあげつらうと、2004年に南北海道代表の駒大苫小牧が優勝して、深紅の優勝旗は空路で白河の関をすっ飛ばしている。ただ、それでも肝心なのは東北勢にとって初めての優勝、ということなのだろう。だから、仙台育英の選手たちが白河の関付近を通過した瞬間は、東北の人々にとっても特別な瞬間だったのだ。

 そんな白河の関のほどちかくにある新幹線の駅が、新白河駅だ。

“新幹線がとまる唯一の村”西郷村の「新白河」駅には何がある?

 東京駅から新白河駅までは、約1時間20分ほどの旅。基本的には「なすの」か「やまびこ」の各駅タイプしか停まらず、日中にやってくる列車は1時間に1本だ。だから、新幹線駅の中では小駅の部類に属するといっていい。

 この駅が取りあげられるときには、決まって語られるのが「新幹線駅で唯一村にある駅」ということだ。実際、新白河駅は福島県西白河郡西郷村にある。天下無双の大動脈のターミナルが小さな村に。そんな違和感が、ちょっとしたトリビアとして受けている向きもあるのだろうか。

 ただし、実際のところは白河市と西郷村の境界付近に駅があって、ホームの一部は白河市内に属している。そして、新白河駅もその名の通り、西郷村の玄関口というよりは実質的には白河市の玄関口だ。

「ようこそさわやか高原都市へ」

 東北新幹線新白河駅の改札を抜けて、目の前のコンコースの階段を降りて東口に出ると、そこはいかにも新幹線らしい駅前広場。大きなロータリーと、目抜き通りの入口には「ようこそさわやか高原都市へ」の看板が立つ。いちばん目立つところには松尾芭蕉の像。

 松尾芭蕉さんは、「奥の細道」で東北をあっちへこっちへと旅をしており、白河の町にももちろん訪れている。だから新白河駅前に芭蕉像があっても何の不思議でもない。が、芭蕉さんの像は旅のルートを辿るかのごとく、あちらこちらに立っている。いったい日本全国、どれくらいの松尾芭蕉像があるのでしょうか……。

 それはともかく、駅の周りは駅前広場からまっすぐ東に延びる大通りと、その北側で線路とも交差している「ゆりのき通り」という名の大通りを軸として、しっかりと区画整理された町が広がっている。ホテルが目立つのも、新幹線駅らしさといったところか。

 駅前広場のすぐ脇にあるのは東京第一ホテル新白河。白河なのに東京とはこれいかに。もともとはホテルサンルートだったところ、2017年から阪急阪神ホテルズの傘下に入り、いまの名前に改名してリブランドオープンしたのだとか。

 また、ゆりのき通りの北側にはビジネスホテルチェーンのルートイン。駅の向こうには、新幹線駅ではおなじみの東横インの看板も見える。東横インとルートイン、このふたつが揃っているということは、ただの小駅ではなくなかなかの規模の町なのだと思う。

歓楽街にマンション、妙に目立つラーメン屋群を尻目に歩く

 駅の周りを歩き進めると、居酒屋やスナックが集まるプチ歓楽ゾーンがあったり、立派なマンションがあったり。ラーメン店が目立つのは、白河ラーメンの本場だからなのだろうか。

 少し東側には国道289号が通っていて、国道沿いは金融機関からファーストフードまでが建ち並び、都市の中心とロードサイド系市街地の顔を併せ持つ。国道289号を少し南に行けば、ベイシアモールもあるようだ。クルマ通りが絶えることはない。

 そして、この国道を渡って北東へ、だいたい30分ほど歩いて行けば、白河の古くからの中心市街地だ。むろん、新白河駅から歩いて白河市街に向かう人はおらず、だいたい送迎のクルマかタクシー、またバスを使う人がほとんどだ。

 このように、新白河駅はすっかりその名に違わず白河市の玄関口になっている。

どうして「白河の関」が“東北の入口”として知られるようになった?

 白河の町のルーツは、江戸時代には松平定信ら幕閣の重鎮も輩出してきた譜代の名門・白河藩の城下町。白河よりも北、奥州に控える仙台藩伊達氏や盛岡藩南部氏といった外様雄藩に対する備えという役割もあったのだろう。

 さらにさかのぼって奈良時代から平安時代には、例の白河の関が置かれていた。白河関は、鼠ヶ関・勿来関とあわせて奥州三関と呼ばれ、白河関から北が東北、という重要な位置づけだった。もともと東北地方が朝廷の支配下に収まったのは他の地域よりも遅く、敵対する蝦夷勢へ対抗する最前線という役割もあったようだ。

 平安時代に入ると前線基地としての役割が低下し、実質的に関所の機能も失われていった。それでも、歌枕(和歌の名所)になるなど、東北の入口を意味する概念として、白河の関の存在は残り続けた。

 令和のいまも、深紅の優勝旗が越えたと話題になるのは、まさにそうした概念が引き継がれているからだ。白河という町は、歴史的にも“東北の入口”を担ってきた町なのである。

工場輸送の「信号場」だったかつての「新白河」

 ただし、新白河駅が白河市の玄関口になったのは、新幹線がやってきてからのことだ。それ以前の白河の町の玄関口は在来線の白河駅。白河駅の北には白河藩の小峰城、南側には城下町に発する市街地が広がり、構内には機関区も置かれていた要衝の地。近代以降も、白河は東北の入口として重要な存在だった。

 その頃の新白河駅はというと、新幹線が開業するまでは磐城西郷駅と名乗っていた。白河というよりは、西郷村の玄関口としての意味合いが強かったのだ。

 磐城西郷駅が開業したのは1959年のことだ。それ以前、1944年には信号場が設けられ、郡山から疎開してきた軍需工場・保土谷化学への引き込み線が分かれていた。

 その工場は終戦とともに一旦廃止されるが、1950年にはその跡地が白河製紙(白河パルプを経て三菱製紙白河工場)として再開、引き込み線も引き続き利用された。つまり、磐城西郷駅は工場への輸送を目的として生まれた信号場からはじまったというわけだ。

 それが1959年になって正式に駅に昇格する。赤字ローカル線だった白棚線のバス転換を受け入れる条件のひとつが、磐城西郷の信号場から駅への昇格だったという。

 その後も引き込み線を使ったパルプや紙製品の輸送は続き、1960年代半ばには貨物収入で高崎鉄道管理局内トップになっている。そして、この駅の存在によって、西郷村方面の開発も促されることになる。新白河駅に改称したのは、新幹線が開業した1982年のことだ。

西側に向かうとなんだか唐突な「売場」が見えてきた

 と、ならば、西郷村方面、つまり新白河駅の西側も歩かねばなるまい。

 西口は、「高原出口」と名付けられ、西郷村をずっと西に辿っていった先にある甲子高原の玄関口という役割を持つ。駅前には「村の駅」をアピールする観光看板が掲げられ、その傍らにはバス乗り場と観光案内所。

 西に延びる目抜き通りは、白河市街に通じる東側よりもいくぶん小ぶりだ。駅の周りにラーメン店が目立つのは、東口も高原出口も変わらない。

 駅前広場から線路沿いの南を見ると、ウインズ新白河、つまりJRAの場外馬券売場のゲートがあった。訪れたのが平日だったから、特に人の出入りもないし、ゲートも閉ざされていた。ただ、この東北の入口の駅前に場外馬券場とは、やや唐突な印象も否めない。どういうことなのだろうか。

 実は、白河市や西郷村の一帯は、馬との縁が深い地域だ。江戸時代、代々の白河藩主によって馬の生産が奨励され、江戸時代末期には西郷村には365軒の家があり、馬の数は1000頭以上。人よりも馬が多いという、典型的な“馬産地”だったのである。

 近代以降も西郷村内に軍馬補充部と種馬場が置かれ、軍馬の生産・育成が行われていた。毎年秋冬の馬市では白河の市街地も賑わいを見せ、白河駅の特設ホームから馬が全国各地へと運ばれていったという。そうした馬との関わりの深い歴史が、駅前の場外馬券場に繋がっているのだろう。

 なお、いまの西郷村は軍馬補充部や種馬場の一帯が家畜改良センターなどに変わっており、馬産地としての面影はほとんど消えている。

 かつては三菱製紙の工場の一部だったというウインズ新白河の間を抜け、さらに製紙工場の横を通って西に向かうと、ほどなく国道4号に出る。いわゆる一桁国道、大動脈だ。

 その道路沿いは典型的なロードサイド系市街地で、近くにはイオンもあるらしい。東にベイシア、西にイオン。二本の国道に挟まれた新白河駅には新幹線。これだけを見ても、歴史を語るまでもなくこの町がなかなか便利な町であることがよくわかる。

 さらに、国道4号を西に進むと東北自動車道白河インターチェンジもある。高速道路と新幹線。この組み合わせが、町の発展を促さない道理はない。

 1973年に白河ICが、1982年に東北新幹線新白河駅がそれぞれ開業すると、周辺には三菱製紙以外にもいくつかの工場が進出し、区画整理も進んで田園地帯から新幹線駅周辺らしい町に生まれ変わった。

 ちなみに、新幹線新白河駅設置に関しては、当初地元では望み薄の見方が大勢を占めていたという。那須塩原駅から距離が近いこと、福島県内には他に郡山・福島の2駅が置かれることが確実だったことなどが理由だ。

 それでもフタを開ければ新白河駅。東北の入口として刻んできた歴史が、新幹線駅をもたらしたのかもしれない。白河の関の存在は、やはり概念としてはいまも根強く残り続けているのである。

「白河の関を越えて東北に入りましたよ」というひと言をききたい気持ちが…

 ふだん、東北新幹線「はやぶさ」などに乗って北を目指すとき、白河の関も新白河駅も、その存在をことさら意識するようなことはないだろう。けれど、ただ通り過ぎるだけではもったいない。

 仙台育英の選手たちのように甲子園で優勝していなくても、新白河駅付近はまさしく実質的に概念的にも「東北の入口」。途中下車をしてみろとまでは言わないが、この新幹線駅では唯一の“村の駅”を通り過ぎるとき、「ここから東北」を少しでも感じてみたいものだ。

 ただ、やっぱりちょうど新白河駅のあたりは、いちばんぐっすり眠っている頃に通過する。「白河の関を越えて東北に入りましたよ」などと、車内放送か何かで教えてもらえたり、しませんかね……。

写真=鼠入昌史

(鼠入 昌史)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください