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栗山英樹が語った「大谷翔平の二刀流」と「中国古典」の関係とは?〈大昔の人は、なぜこれほど分かっていたのか!〉

文春オンライン / 2024年9月5日 6時0分

栗山英樹が語った「大谷翔平の二刀流」と「中国古典」の関係とは?〈大昔の人は、なぜこれほど分かっていたのか!〉

元北海道日本ハムファイターズ監督で、WBC日本代表を優勝に導いた栗山英樹さんは、どのような本を読み、どのような影響を受けてきたのか。その読書人生に迫る。(取材・構成 稲泉連)

◆◆◆

 40歳前後で人生に迷いを感じたとき、新聞で有名な企業の経営者の方々が「座右の書」を挙げている記事を読みました。そのなかでふと手に取ってみたのが、複数の人が紹介していた渋沢栄一の『論語と算盤』でした。

『論語と算盤』を『野球と算盤』に読み換える

『論語と算盤』は以前に少し読んだことはあったものの、以前の僕の読書は「面白いから読む」というスタイルで、本を自身の「学び」にしていくような読み方はしていませんでした。しかし、ある種の本は、その人の人生の「時」を選んで、身体に沁み込んでくるものなのでしょうね。自分の人生の道を探すつもりで『論語と算盤』を懸命に読んでいると、「ああ、なるほど。こういうものを本当に読み込んで勉強し、自分の血肉に変えていかなければならないんだ」という思いを抱いたのです。

『論語と算盤』は知っての通り、「日本の資本主義の父」と言われる実業家の渋沢栄一が、「経営」と「道徳」の関係を後進の企業家のために語ったものです。「お金儲け」と「道徳」は一見すると相いれないものにも感じられますが、中国古典の『論語』の精神に適った商売を行い、ビジネスで得た利益は人々の幸せのために使うべきだ、という経営哲学が語られています。

 考えてみれば、プロ野球の世界も同じではないか、と僕は思いました。プロの世界ではたとえチームが最下位であっても、選手本人は自分だけでも成績を残せば年俸が上がっていくものです。そのなかで「チームのために働く」には、どのような考え方を持つ必要があるのか。『論語と算盤』で描かれる経営哲学は、「野球と算盤」と言い換えても読むことができるのではないか、と。

 渋沢栄一が言うように、人生においては「結果」だけではなく、いかに頑張り切ったかという「過程」も大切です。自分や社会にとって本当に大切なことに一生懸命に取り組めば、勝っても負けても僕らは何かを得ることができる。

日本ハム監督時代に選手に語ったこと

 2012年に北海道日本ハムファイターズの監督になってからも、この本のエッセンスを選手たちとのミーティングで語ることもありました。

 例えば、「和魂漢才」という言葉をもじった「士魂商才」といった言葉が、『論語と算盤』の中には出てきます。そこでこの言葉を使って「我々、ファイターズがどういう野球をやっていくのか」を、選手たちに問いかけてみる。僕が「和魂〇才」という言葉を10個くらいまずは作り、選手にも同じようにこの言葉を使ってチームのあり方を考えてもらう、という具合に工夫をしていましたね。

 そうしたやり取りを通じて選手たちに伝えてきたのは、自分のことだけを考えがちなプロ野球の世界であっても、「やはりそれだけではチームとして勝つことはできないんだよ」というメッセージです。

 あるいは、この『論語と算盤』には「親孝行とは親が子供にさせてやるものだ」という言葉が出てきます。要するに、子供が親孝行をするような関係を、親自身が作り出すことが大事、というわけです。そうした箇所を読むと、「なるほどな」と思います。

 というのも、野球における選手と監督の関係も同じだと思えるからです。こちらが選手を上から育てようとするのではなく、選手が自ら育っていくのをいかに手伝うか。そのような関係を選手たちとの間に作り上げていくという視点が、監督には必要なのだ、と。お金儲けが『論語』でできるのであれば、野球だって『論語』でやってみようじゃないか、というわけです。

 以来、『論語と算盤』は僕の「座右の書」となりました。読み返す度に発見があり、過去の自分がアンダーラインを引いていた箇所の解釈を、あらためて考えてみるような読み方もしています。なかでも、ちくま新書版の『現代語訳 論語と算盤』(守屋淳訳)が読みやすいので、常に10冊ほどを持っています。監督時代には折に触れて選手に渡すようにもしていました。これは僕がよくしているのですが、本の最初の余白にメッセージを書いて渡すのです。

 まあ、とはいっても、本を渡した後に「読みましたよ」と言ってくる選手はほとんどいません。選手たちは僕が現役だった頃と同じく、野球に必死で取り組んでいるわけですから、「本」をゆっくりと読む余裕はない。その点は仕方ありません。

 しかし、若い時は野球が人生の全てのように思えても、選手を引退してからも彼らのキャリアは続いていきます。現役を退いた後に、今度は「指導者」の立場になる場合もあるはずです。メディアから「座右の書」を聞かれる機会だって、ときにはあるかもしれません。そんなとき、僕から渡された本がふと目に留まり、読んでみよう、と思う瞬間があるかもしれない。本というものは、そのときは読まなかったとしても、傍らに置いておくことで、いつかその人の心に届く「時」があるはず――そんな思いを持っています。

なぜ大谷翔平の「二刀流」を信じたか

 そして、僕は『論語と算盤』を傍らに携えるようになったことをきっかけに、様々な中国古典を好んで読むようになりました。

 中国古典に親しんでいると言うと、「なぜ古典なのか」とよく聞かれます。答えははっきりしています。長きにわたって読み継がれてきた古典には、それだけ多くの時代、多くの人たちにとって普遍的な哲学や思想のエッセンスが、故事やエピソードとともに語られているからです。

 それこそ『易経』などは、3000年前に書かれたと言います。そのエッセンスに触れていると、「こんな大昔の人に、なぜこれほどのことが分かっていたのか」と驚かされるものがあります。

 そして、古典の面白いところは、それが普遍的な内容であるだけに、例えば『論語』でも「教養をつけよう」というつもりで何となく読んでいると、「当たり前のこと」が書かれているように思えてしまう。ところが、人生に迷いを感じたとき、僕の場合は監督という「指導者」の立場を得たとき、自分の置かれた環境に即して目的を持ちながらその言葉に身を委ねると、非常に学びが多いのです。

 例えば、大谷翔平の「二刀流」を信じたこともそうでした。周囲の「常識」というものは「その時」の常識に過ぎず、本質的には「自分が本当に正しいと思ったこと」の中に真実があるのだと、僕は中国古典を読んで学んだ。ですから、どんな一冊でもいいので、歳月を経て風化に耐え抜いた古典を選び、一生懸命に読んでみることをお勧めしたいですね。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「 僕は中国古典を読んで大谷翔平の「二刀流」を信じた 」)。

(栗山 英樹/文藝春秋 電子版オリジナル)

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