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パラリンピック直前にケガ発覚、妻に「引退しなきゃいけないかも」と…車いすテニスの絶対王者だった国枝慎吾を襲った“絶望”

文春オンライン / 2024年9月10日 11時0分

パラリンピック直前にケガ発覚、妻に「引退しなきゃいけないかも」と…車いすテニスの絶対王者だった国枝慎吾を襲った“絶望”

国枝慎吾さん ©文藝春秋

 パラリンピックで4つの金メダルを獲得し、世界ランキング1位のまま引退。今年3月には国民栄誉賞が授与された、元プロ車いすテニスプレーヤーの国枝慎吾。「絶対王者」と呼ばれ、数々のタイトルを獲得してきたが、その裏ではケガや重圧に葛藤することもあった。国枝は、そのような逆境にどのように立ち向かい、道を切り拓いてきたのだろうか?

 ここでは、国枝慎吾と、朝日新聞記者・稲垣康介の共著『 国枝慎吾マイ・ワースト・ゲーム 一度きりの人生を輝かせるヒント 』(朝日新聞出版)より一部を抜粋。右ひじのケガで引退危機に直面した国枝は、痛みを抱えたままリオパラリンピックに挑むことに――。(全3回の1回目/ 2回目に続く )

◆◆◆

右腕に初めてではない鈍痛を感じた

「やっぱりひじが痛い。引退しなきゃいけないかも」

「絶対王者」としての顔を、外では崩せない。ライバルに漏れるかもしれないから、メディアにも弱音は吐露できない。それが国枝慎吾の哲学だった。唯一の安息の場所が家庭での夫婦の会話だった。

 隠し立てする必要がない、唯一の人に、引退危機を告げた。

 正確な日付は覚えていない。2017年2月、約3カ月ぶりに本格的に練習を再開した日だった。

 違和感を覚えたのは、東京都北区のナショナルトレーニングセンターでのストローク練習がフォアハンドから、バックハンドに移ったタイミングだった。

 ボールをインパクトした瞬間、右腕に初めてではない鈍痛を感じた。

「明日の練習は難しいと思います」

 国枝の右ひじは、古傷を抱えていた。

 リオデジャネイロ・パラリンピック(リオパラ)後の2016年11月から、右ひじの痛みを治すために、完全休養を選んだ。翌年1月の全豪オープンは欠場。妻の実家で年末年始を過ごし、リフレッシュに努めていた。

 にもかかわらず、本格的に球を打ち始めた初日の練習で痛みが出た。

 半ば、覚悟はしていた。日常生活の中で、ほぼ無意識な確認作業で右手を上下させる動きをすると、鈍い痛みが走った。弱まってはいたが、消えていなかった。ただ、どこかで認めたくない気持ちがあった。

 やっぱり、か。絶望感が体を包む。

 「明日の練習は難しいと思います」

 コーチの丸山弘道には、そう告げて家路についた。

 千葉県柏市の自宅まで、高速道路を走って1時間半ぐらいかかる。現役続行に暗雲が垂れ込める不安感を、自分の胸の中だけにとどめて愛車を走らせるのは、しんどい。妻にしても、帰宅していきなり聞かされるより、まず電話で告げたほうが心の準備ができるかもしれない。

妻にしか話せなかった選手生命のピンチ

 とにかく、誰かと共有したい心境だった。

 コーチたちと離れ、1人になったタイミングで駐車場から連絡をしたのは、そんな理由からだった。

 国枝から電話がかかってきたとき、妻の愛は近所のスーパーに買い物に行く途中だった。

 晩ご飯の献立は何にしようかなどと考えている、ごく日常の時間に、夫から「引退」の2文字を含む、失意の告白を聞かされることになった。

 絶句とは、こういうことなのか。そんな思いがよぎった。

「とにかく、あのときは、すぐにはかける言葉が見つかりませんでした。しばらく沈黙があったと思います。お互いに、しばらく黙っていた気がします。あれが夫のテニス人生で、最大のピンチでした」

リオパラ開幕の5カ月前に手術に踏み切った

 右ひじに違和感が出たのは、2015年秋だった。

 すでに、9月に優勝した全米オープンのころから、歯車は狂い出していたのかもしれない。この大会、国枝は首にテーピングをしながら戦い続けた。

 その前週のセントルイスの大会では、激痛で棄権を余儀なくされた。

 当時の状況を、国枝はこう話す。

 「肩など、上半身の可動域が戻っていない中、体のひねりが浅くなって、腕で強引に振ることで、1発でひじに痛みが来てしまいました」

 どこかをかばうことで、ほかの箇所に過度の負荷がかかる。連鎖による痛みだったと推測される。リオパラが迫ってくる。我慢は限界に来ていた。決断せざるを得ないタイミングがやってきた。

 2016年4月、内視鏡によるクリーニング手術に踏み切った。執刀したのは、日本テニス協会医事委員長でもあった聖マリアンナ医科大学名誉教授、別府諸兄。リオパラ開幕の5カ月前だった。

2012年、同じ医師の手術を受けて2連覇

 2012年、国枝はロンドン・パラリンピック(ロンドンパラ)を9月に控えた2月にも手術をしている。

 そのとき執刀したのも、同じく、別府だった。自身も大会に出場するテニス愛好者であり、テニスひじ治療の権威だ。

 別府によると、テニスひじは発症して間もなければ保存療法で、ほぼ痛みは消えるという。

「テニスひじにはフォアハンドが原因でひじの内側に痛みが出るタイプと、主に片手バックハンドのやりすぎで、ひじの外側に痛みが出るタイプがある。国枝さんの場合はバックハンドの酷使による外側の痛みで、手術が必要な状態でした」

 車いすテニス選手の「職業病」と言っても過言ではない。

 車いすテニスの場合、利き手と逆の腕で車輪をこぐ。だから、健常者に多い両手打ちのバックハンドはできない。どんな打球でも片手打ちになるから、打球の衝撃によりひじの痛みが生じやすくなる。

 2012年2月、別府は国枝のひじの手術をした。「ひじの関節内で毛羽立っている滑膜のひだを掃除するクリーニング手術でした」。皮膚を切り開く術式では、回復に時間がかかるため、内視鏡を入れて、モニターでひじの内部を見ながら取りのぞく方式を選んだ。

 手術は無事に成功し、ロンドンパラで、国枝はシングルス2連覇を成し遂げた。別府のオフィスには、ロンドンで国枝が使ったダンロップのラケットがある。お礼の意味を込めて、プレゼントされたものだ。

消えなかったひじの痛み

 2016年4月に2度目の手術を決断したとき、「リハビリに充てられる期間がロンドンのときよりも短くなる。それでも大丈夫だ」と国枝が判断したのは、前回に比べて痛みの度合いが弱かったからだ。

 「前回はコップを持つのも痛いぐらい。今回はなんとかテニスができる痛みだった」

 復帰を急ぐ必要があった。手術から1カ月後、5月に有明コロシアムが舞台となったワールドチームカップに、無理やり間に合わせた。6月には全仏オープンに出場。しかし、そこで右ひじの痛みが再発した。7月のウィンブルドン選手権は、欠場を余儀なくされた。

 国枝は、別府に手術の詳しい結果について、確認した。手術の直後にはなかった説明を、別府の口から聞くことになった。

 4年前と違い、痛みが完全に消えない可能性を宣告された。

「なぜ、もっと早く言ってくれなかったのか」。

 リオが目前に迫るタイミングでの宣告に、当時は、裏切られたという思いがこみ上げた。

医科学の進歩をもってしても、治療は難しい

 別府の説明はこうだった。

「前回同様、滑膜のひだの毛羽立った部分をきれいにすると、その下の軟骨まで傷ついていたんです」

 しかし、パラで3連覇をめざす絶対王者をいたずらに不安にする説明は控えた。もしかしたら、前回同様、痛みが消えてくれるかもしれない。執刀医として、そう祈りたい気持ちだった。

「バックハンドの打ち方を変えることで、痛めた箇所への衝撃が少なくなるかもしれません。さりげなく、そんなことを話した記憶はあります。でも、世界ナンバーワンの選手に、自信を持って技術的なアドバイスをするなんて、とてもできません」。その後の医科学の進歩をもってしても、国枝の痛めた部分の治療は難しいという。

 1日1日と、リオパラが迫っていた。国枝は「セカンドオピニオン」を求め、ほかの医療機関を回った。文字通り、藁わらをもすがる思いで激痛を伴う治療法にも耐えた。しかし、劇的な回復には至らなかった。右ひじの痛みという爆弾を抱えたまま、3連覇への苦難の道を進むことになった。

〈 「まじで頭に来て、クソッと思いましたね」国枝慎吾が車いすテニスの試合日程に激怒…絶対王者に立ちはだかったパラリンピックの“ありえないスケジュール” 〉へ続く

(国枝 慎吾,稲垣 康介/Webオリジナル(外部転載))

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