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ユニクロの柳井正社長が「すごい車いすテニス選手がいる」と絶賛…パラリンピック金メダリスト・国枝慎吾が日本のトップ企業と契約した経緯

文春オンライン / 2024年9月10日 11時0分

ユニクロの柳井正社長が「すごい車いすテニス選手がいる」と絶賛…パラリンピック金メダリスト・国枝慎吾が日本のトップ企業と契約した経緯

国枝慎吾さん ©文藝春秋

〈 「まじで頭に来て、クソッと思いましたね」国枝慎吾が車いすテニスの試合日程に激怒…絶対王者に立ちはだかったパラリンピックの“ありえないスケジュール” 〉から続く

 パラリンピックで4つの金メダルを獲得し、世界ランキング1位のまま引退。今年3月には国民栄誉賞が授与された、元プロ車いすテニスプレーヤーの国枝慎吾。「絶対王者」と呼ばれ、数々のタイトルを獲得してきたが、その裏ではケガや重圧に葛藤することもあった。国枝は、そのような逆境にどのように立ち向かい、道を切り拓いてきたのだろうか?

 ここでは、国枝慎吾と、朝日新聞記者・稲垣康介の共著『 国枝慎吾マイ・ワースト・ゲーム 一度きりの人生を輝かせるヒント 』(朝日新聞出版)より一部を抜粋。国枝がユニクロと所属契約を結んだ経緯を紹介する。(全3回の3回目/ 1回目から読む )

◆◆◆

「日本にはクニエダがいるじゃないか」フェデラーの有名な逸話

 IMGが国枝との「代理人契約」をしたのは、12月22日付だった。

 北京での金メダルで、IMGとのマネジメント契約をかなえた。プロアスリートの第一歩を踏み出す記念日ともいえる。

 IMGジャパンの社長、菊地はスポンサー探しに着手した。

 ユニクロを手がけるファーストリテイリングの社長、柳井正の次男で、当時は三菱商事に勤務していた柳井康治と面識があり、相談を持ちかけた。小中高の各年代で全国大会に出場するなど、テニスに造詣が深い康治は、国枝の存在を、ある有名な逸話を含めて知っていた。

 2007年のことだ。日本の記者が、男子テニス界で絶対的な強さを誇っていたロジャー・フェデラー(スイス)に、

「なぜ日本のテニス界からは世界的な選手が出ないのか」

 と質問すると、フェデラーは、こう異を唱えた。

「何を言うんだ君は? 日本にはクニエダがいるじゃないか」

 このフェデラーとのエピソードを含め、国枝の実力、実績を知っていた康治は、自分が父に事前に打診しなくても、スポンサー契約の交渉はうまく行くだろうという思いがあった。

柳井社長から「君ってすごいんだってね」

 なので、菊地にはこう伝えた。

「正面からアプローチすれば大丈夫です。それぐらい、国枝さんはすごい人ですから。父はテニスのことなら僕に聞いてくるでしょうし、そのときは側面支援というか、大いに推薦しますので」

 1カ月ぐらいして、当時、九段下にあったユニクロの本部を国枝と訪ねた。受付に行くと、すぐに社長室に通された。

 菊地が振り返る。

「座った瞬間に柳井さんがすぐ、『君ってすごいんだってね』という話から始まりました。『いいですよ、応援します』という形になり、遠征などの活動費の基礎となる金額のコミットメントをいただいたんです。人を見る目がある方なんだな、と感じました」

 のちに柳井康治は、父の正から、こう言われた。

「お前、国枝慎吾というすごい車いすテニス選手がいるのを知らないだろう?」

 康治は、こう返した。

「いやいや、知っているも何も、あのフェデラーが日本には国枝がいるじゃないかと言ったほどのプレーヤーですよ。なので、すごいのは知ってますよ」

「そうか、やっぱりそんなにすごいのか」

 柳井正は改めて感心した様子で、そうつぶやいたという。

2009年にプロ転向「魅せながら勝つ選手に」

 2009年4月13日、25歳だった国枝は、東京都内で記者会見を開いた。テレビカメラ8台、50人以上の報道陣が集まる中、日本人の車いすテニス選手として、初となるプロ転向を表明した。

「障害がある子どもたちが将来、車いすテニスの選手になりたいと思うように、自分のレベルを上げて、魅せながら勝つ選手になれるように努力したい」

 2008年、健常者の男子テニスで最も賞金を稼いだのはウィンブルドン選手権初優勝などを成し遂げたラファエル・ナダル(スペイン)の677万3773ドル(当時のレートで約6億5700万円)。一方、車いすテニスでは、年間で稼げるのは最高でも500万円を超える程度だった。

 しかも、前年に起きたリーマンショックに端を発する金融危機で、日本の企業もアスリート支援などスポーツへの投資に二の足を踏む経済状況でもあった。

 それでも、国枝は力強く語った。

「それ以上に、この世界でやっていきたいという気持ちが上回った」

 引退した後、国枝と当時の記者会見の映像を確認した。

「生意気そうな顔をしていますね。あのころ。いい意味で、野心があるような感じはしますね。成功してやろう、という気持ちにすごくあふれてましたね」

 一歩踏み出す勇気を持っていた、25歳の自分を褒めるような口調だった。

競技環境が安定し、力強さも増していった

 2009年8月にユニクロと国枝との所属契約が発表された際のプレスリリースには、こう記されていた。

〈世界のトッププレーヤーとして戦う国枝選手は、世界No.1のグローバルアパレルリテーラーを目指すユニクロにとって、真に共感できる存在です。今後、ユニクロは国枝選手の競技にチャレンジ姿勢に刺激を受けながら、世界を舞台に更なる高みをめざしてまいります。〉

 国枝は引退後も、ロジャー・フェデラー、錦織圭らとともにユニクロの「グローバルブランドアンバサダー」として、関係が続く。

 ユニクロとの所属契約をはじめ、複数のスポンサーがついたことで国枝の競技環境は安定し、力強さも増していった。

 2009年から2010年の4大大会のうち、シングルス部門がまだなかったウィンブルドン選手権をのぞく3つの大会は、この2年間、すべて優勝した。

 2007年11月の世界マスターズ選手権の準決勝で敗れてから、2010年11月の同じ大会の準決勝で敗れるまで、107連勝という大記録も打ち立てた。

(国枝 慎吾,稲垣 康介/Webオリジナル(外部転載))

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