1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「避難所の暗闇で、夜が永遠に明けないかと思った」群馬に住む大工が、仕事を減らしてまで能登半島へボランティアに通う理由

文春オンライン / 2024年9月3日 17時0分

「避難所の暗闇で、夜が永遠に明けないかと思った」群馬に住む大工が、仕事を減らしてまで能登半島へボランティアに通う理由

修繕ボランティアの作業を行う高橋宏詩さん=高橋さん提供

〈 「死んだら土地や家は銀行のものになります」能登半島地震後、住宅再建を相談した“被災者の悲しみ” 〉から続く

 能登半島地震による被害が深刻で、「とても観光どころではない」と言われる奥能登。だが、石川県珠洲(すず)市の見附島には、パラパラとであっても訪れる人が絶えない。どんな人が来ているのか。崩落でやせ細った島に格別な思いを寄せる住民や出身者( #6 )以外にも、遠隔地から復興支援に訪れた人がいた。

群馬県から来たボランティアの大工・高橋さん

「群馬県から来ました」。快活な声が返ってくる。

 高橋宏詩さん(35)。建物や建具の修繕ボランティアとして珠洲市を訪れていた。

 本業は大工だ。自営なので仕事の都合をつけては、被災地に来ている。「合計1カ月ぐらいにはなったでしょうか」と言う。

 高橋さんはこれまで、ボランティアに来るたびに時間を惜しんで活動し、気力も体力も使い果たして帰る繰り返しだった。あまりにもボロボロな状態になるので、心配した妻が「もう行くのをやめたら」と言うほどだった。

「これでは続かない」と、ボランティア期間中に休みを取ることにした。その初めての休みの日に、見附島を訪れたのだった。アンティーク修理を仕事にしている知人もサポート役として群馬から同行していたので、「無理をさせられない」という気持ちもあった。

妻の実家、震度6強の地区で被災

 高橋さんがそこまで奥能登に思い入れをするのには理由がある。

 2024年1月1日、震度6強の地区で被災したのである。

 妻は珠洲市の隣にある能登町の出身だ。結婚後、初めての正月を過ごすため、12月31日に妻の実家へ帰省した。

 翌日の1月1日午後4時6分、最初の揺れが起きた。珠洲市は最大震度5強。実家のある能登町は震度4だった。

 高橋さんは玄関の戸を開けに立った。万一の時に開かなくなり、逃げられなくなるのを避けるためだ。東日本大震災で被災した友人に聞いた教訓だった。

 居間に戻ったと思ったら、また地震が始まった。午後4時10分。4分前とは比べ物にならないほど激しく、長い揺れだった。

「ガラスがバーンと割れ始め、そこにいた皆がパニックになりました」

 妻の実家に集まっていた計12人で小学校の体育館に避難した。備蓄倉庫から段ボールを出して敷くなどしたが、約360人も身を寄せたために毛布が足りず、凍える人もいた。

 高橋さん自身も寒くて眠れなかった。停電で辺りは暗闇。頼みは3台のストーブだけだった。夜が永遠に続くのではないかと感じた。

 避難所生活は先行きが見通せなかった。道路が寸断されて移動もままならない。近くでは崩落した道路の下に落ちた自動車もあった。

 三が日用に各戸で買いだめていた食材があり、当初は炊き出しも「被災してこんなに美味しい豚汁が食べられるのか」という驚きがあったほどだ。それが備蓄で食いつなぐようになり、明日で底を突くと分かった時には「何とも言えない不安感がありました」と話す。

「何かしなければ」という思いが抑えられなくなり物資を積んで

 休み明けには仕事があったのに、なかなか「行けない」と連絡できなかった。携帯電話の電波が通じず、電池残量はどんどん減っていく。「あそこは何とか電話が通じたらしい」という噂を聞いて向かうと、そこだけは微かに電波をとらえることができた。

 高橋さんが能登町を脱出したのは、被災から5日後の1月6日だった。約120km離れた金沢市へ車で7時間もかけて向かった。

 到着した市街地では地震の被害がほとんど見当たらず、「変わらない日常」が続いていた。「嘘だろう。これが同じ石川県内なのか」と驚いた。

 奥能登では苦しんでいる人がいる。「何かしなければ」という思いが抑えられなくなった。

 その時、ボランティア活動に取り組んできた妻の姉の知り合いが、能登町の実家方面へ車で物資を運ぶと聞いた。高橋さんはこれに加わった。自身が避難者だったので、当面必要な物資が分かる。水を入れるタンク、栄養補助食品、食品用ラップなどを大量に買い込み、車に積めるだけ積んで、金沢を出発した。

 高橋さんの車の後ろに、同じように物資を満載したボランティアの車が2台続く。崩落、陥没、隆起、段差、アスファルトの迫り上がり。路面の状況が極めて悪かったうえ、雪まで降っていた。通行可能なルートも日々変わる。前夜に情報を確認したはずだったが、「ものすごくガタガタな坂道を上がると、通行止めだったということもありました。途中のことをよく覚えていないぐらい必死で、本当に怖かった。私達は何とか到着できましたが、別動で向かったグループは途中で車を捨てざるを得ない状況に陥りました。思いだけで突っ走ってもダメだ。物資の運搬は止めようという話になりました」と話す。

翌月、妻と一緒にボランティアで能登町へ

 その後は群馬に帰って仕事を続けたが、奥能登のことが気になって仕方なかった。

 2月、妻と一緒に能登町へボランティアに向かった。

 高橋さんはそれまでも大工の技術をいかした活動を行ってきた。

 2011年3月に発生した東日本大震災では、プレハブ型の応急仮設住宅が長期間使われた。仮設住宅への入居は原則2年間で、建物が簡易に造られている。このため入居が長引けば壊れたり腐ったりする。大工仲間と一緒に宮城県内の仮設住宅を回り、そうした箇所を直して歩いた。

 原発事故で長期避難を強いられた福島県内では、帰還後の自宅で風景が眺められるよう、帰還者の求めに応じてベンチを製作した。

 能登町ではまず、妻の実家のある地区を起点にして活動を始めた。妻の知人や実家を介してニーズを調べ、区長もとりまとめをしてくれた。建物の応急修理に加えて、通常は大工が行わない建具の修繕も引き受けた。

戸が1枚動くようになっただけで、気持ちが前を向くこともある

 最初に作業をしたのは、玄関の戸が閉まらなくなった家だ。

 崩落した壁を張ったり、バックリ割れた間から冷たい外気が入ってくる箇所を埋めたりした家もあった。

 落ちた梁を戻して補強した建物もある。本格的に手を入れるか解体するかする前に、倒壊して被害が拡大する危険性を少しでも減らそうと考えた。

「個人のボランティアなので、できることはそれほど多くありません。でも、戸が1枚動くようになっただけで、気持ちが前を向くこともあります。『地震で散乱した家の片づけを、ようやく始めようという気になりました』と笑顔になる人もいました。微々たる作業かもしれませんが、気持ちが沈んだ被災地で、心の変化を作っていけたらいいなと思いました」と高橋さんは熱く語る。

 奥能登の人は控えめだ。ボランティアへの依頼が次から次へと寄せられるわけではない。しかし、声を挙げないだけであって、埋もれたニーズは多い。

「一つの作業を頼まれて訪れると、ここも手を入れなければならない、あそこも直す必要があると、作業が増えてしまい、予定がほとんど立ちませんでした」と話す。

 このため高橋さんは、「被害の聞き取りに歩き、状況に応じて専門ボランティアにつなぐコーディネーター役のボラティアがいたら作業がもっとこなせたのに」と思うこともあった。奥能登でもそうしたボランティアが入った地区では、復旧作業の早さが違ったようだ。

自分のことは顧みず、地区のために走り回っていた区長の家

 高橋さんには気になることがあった。住民からの依頼の取りまとめに動いてくれた区長は、自分の家の修繕要望を出していなかった。軒並み家が損壊しているのに、壊れていないはずがない。

「直すところはないですか」と尋ねると、区長は「皆の家を直してもらいたいので、ウチはいい」と言った。被災地では大工が足りない。高橋さんの滞在中に、少しでも多くの家を修理してもらいたかったのだ。

 群馬に帰る日が迫ってきた頃、高橋さんは区長の家を訪ねた。まだ地震発生直後のような状態だった。自分のことは顧みず、地区のために走り回っていたのである。「しかも、建具は全滅状態で、玄関の戸も開きませんでした。すごい人だなと思いました。『直させて下さい』とお願いし、この日は作業時間を延長して取り組みました」と高橋さんは話す。

 群馬に戻ってからは、設計士の仲間と協力し、全てを失った人のために家電製品を集める活動を始めた。

 その後も大工仕事を調整してボランティアに向かっている。珠洲市や輪島市へも活動の場を広げた。

「自分自身が試されている」と感じるボランティア

 現場では、多くのボランティアに会った。

「埼玉県から休みのたびに奥能登に来ている」という男性は、気さくな人柄で、一緒に作業をしているうちに仲良くなった。

 ボランティア活動は、ある意味一期一会だ。男性は高橋さんと握手で別れる際、「(大変な目に遭っている人を)放っておけない。諦めたくない」と涙ながらに語った。高橋さんも思わず涙ぐんだが、「こうした無名の人が頑張っているから、被災地が前に進めるのだ」と心から思った。

 炊き出しを行っている団体のリーダーにも会った。資金がどんどん苦しくなる。活動するメンバーの精神的なフォローもしなければならない。「永遠に休まらない。苦しい」と泣いていた。

 高橋さんとて、活動の実態はシビアだ。本業を休むので、ボランティアをすればするほど生活が苦しくなる。材料費などの足しにしようと、知人らに寄付をお願いしているが、「託されたお金は1円たりとも無駄にできない」と、自らを厳しく律してきた。

 だからこそ、冒頭述べたように、ギリギリまで活動し、心身ともに疲れ果てて帰宅する。

 妻だけでなく、他のボランティアにも「あんまり根を詰めたらいけないよ。これだけの災害なんだから、仕方がない面もある」と諭された。

 どんな活動ができるか。いつまで通い続けられるか。「自分自身が試されている」と高橋さんは感じている。

毅然として立つ見附島にボランティアの高橋さんが感じたもの

「ボランティアをしたいというのは、僕のエゴだということも分かっています。やめるのは簡単です。でも、心優しい奥能登の人々の力になりたい。自分が成長するチャンスでもあるから、もう少し頑張りたい」と力を込める。

 そんな高橋さんは、初めての休みに訪れた見附島でどんなことを考えたのだろう。後に改めて連絡を取った。

「妻と結婚する前、一度だけ見に行ったことがあります。『かっこいい島だな』と思っていただけに、被災で形が変わってしまい、残念でした。あの日、次々と訪れる人がいるのを見て、小さい頃から親しんできた方、思い出がたくさんある方にとっては、これからも折に触れて訪れたくなる場所なのだなと感じました。僕はまだ『見附島ビギナー』ですが、奥能登での活動などいろんなことを振り返りながら、また見に行きたいと思っています」

 半ば崩落しながらも、毅然として立つ見附島。その姿は高橋さんの心もとらえたようだった。

(葉上 太郎)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください