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なぜ「LOVEマシーン」は社会現象になったのか? 発売から25年…“時代に刺さった”ワケとは〈「お前に説教されたくねーよ」がきっかけに〉

文春オンライン / 2024年9月9日 11時0分

なぜ「LOVEマシーン」は社会現象になったのか? 発売から25年…“時代に刺さった”ワケとは〈「お前に説教されたくねーよ」がきっかけに〉

1999年9月9日に発売された「LOVEマシーン/21世紀」(初回生産限定盤7インチシングルレコードのジャケット写真)

 いまから25年前のきょう、「9」が5つも並んだ1999年9月9日、アイドルグループ・モーニング娘。が7枚目のシングル「LOVEマシーン」をリリースした。

 この曲が初めて人々の前で歌われたのは、シングル発売の1週間あまり前の日曜の8月29日、東京・よみうりランドでの披露イベントだった。その翌週の9月5日には、モーニング娘。を輩出したオーディション番組『ASAYAN』(テレビ東京系)でテレビ初披露されている。筆者もたぶんそのとき初めて、彼女たちがこの曲を歌い踊るのを見たと思うのだが、そのときの衝撃はいまだに忘れられない。それは「何だこりゃ!?」と言うしかないものだったからだ。

『ASAYAN』オーデションの落選者で結成

 そのサウンドは往年のディスコナンバーを彷彿とさせ、メンバーはファーのついた派手な衣装をまとい、まるでタコ踊りのようなへんてこりんな振り付けで踊り、曲のあちこちで合いの手を入れる。歌詞もまた、「日本の未来は 世界がうらやむ 恋をしようじゃないか」などと、不景気が続く日本に向けての応援歌のようでもある。とにかくすべての要素がインパクト大だった。モーニング娘。のこの年に入ってからの3作のシングルは「Memory 青春の光」「真夏の光線」「ふるさと」と、王道ともいえるアイドルソング路線で来ただけに、まさかこんな方向で来るとは誰も予想しなかっただろう。

 そもそもモーニング娘。はこの2年前の1997年、前出の『ASAYAN』での企画「シャ乱Qロックヴォーカリスト・オーディション」の落選者から中澤裕子・石黒彩・飯田圭織・安倍なつみ・福田明日香の5名を選んで結成された。メジャーデビューのためシングル「愛の種」を手売りで5万枚を売り切るというノルマを課せられ、見事達成すると、翌1998年1月、ロックバンド・シャ乱Qのボーカルだったつんく(2001年に「つんく♂」と改名)のプロデュースによりメジャー1stシングル「モーニングコーヒー」をリリースした。

 同年5月には、保田圭・市井紗耶香・矢口真里が加入し、総勢8人体制となる。「LOVEマシーン」のちょうど1年前に発売された3rdシングル「抱いてHOLD ON ME!」はグループ初のオリコン1位となり、暮れの日本レコード大賞で最優秀新人賞を受賞、NHKの紅白歌合戦にも初出場を果たす。

 しかし、1999年に入ると4月に福田が卒業し、7月には前出の『ASAYAN』の企画で、6thシングル「ふるさと」が同日発売の鈴木あみ(現・鈴木亜美)の「BE TOGETHER」とオリコンチャートの順位を競い、初登場5位で敗北を喫する。3期メンバーとして後藤真希がグループに加入したのはその翌月のことだ。

みんなが「これだ!」とピンときた曲「LOVEマシーン」

 当時、グループのリーダーだった中澤は、このころのモーニング娘。は手売りでCD5万枚を完売したときのがむしゃら感や結束力がなくなり、勢いが失われていると感じていたという。そこへ来て鈴木あみとの対決があり、それ自体には何の意味も感じられなかったが、その結果はグループがまとまっていないことの答えなのだと思い、危機感を募らせる(中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』ワニブックス、2003年)。

 矢口もまた、7thシングルのリリースが発表されると、《“このシングルがダメだったら解散になるかも” って声もスタッフさんたちから聞こえてきていて。だから “ここで気合いを入れなおそう” “もう一発ガーンとヒットを飛ばそう” って時期だったんだ。で、つんく♂さんから曲をいただいて聞いたときに、みんなの中に “これだ!” ってピンとくるものがあって》とのちに振り返っている(矢口真里『おいら』ワニブックス、2003年)。その曲が「LOVEマシーン」だったわけである。

お蔵入りしていた楽曲をダンス☆マンの編曲で

 つんくによれば、もともとこの曲は1993年頃にシャ乱Q用につくり、「まんじゅう娘」という仮タイトルをつけて適当な仮歌でデモテープを録ったものの、結局お蔵入りになっていたという(『女性セブン』2012年7月26日号)。

 自分では気に入っていたこの曲を再び引っ張り出したつんくは、アレンジャー(編曲家)にダンス☆マンを指名する。ダンス☆マンは当時、70~80年代のダンスミュージックの名曲をユニークな日本語詞でカバーしていた。つんくはその詞よりむしろ音を面白がり、彼に直接会うと「ショッキング・ブルーの『ヴィーナス』とジャクソン・シスターズの『ミラクルズ』を足して2で割らない感じで、イケイケでやってくれ」とオーダーする(『日経エンタテインメント!』2000年4月号)。

 ダンス☆マンに発注してからトラックダウンまでわずか1週間で、つんくはリズム録りやトラックダウンに立ち会いながら、ずっと歌詞を書いていたという。そうやってアレンジが完成し、仮歌を入れたデモテープをメンバーたちに覚えてくるよう渡したのは歌入れの前々日。しかもレコーディング中もなお歌詞を書き換えたりするという突貫工事であった。

 モーニング娘。のレコーディングではまず、各メンバーがすべてのパートを歌っていき、そこから誰がどこを歌うかを決めていた。その際、メンバーは歌詞ではないところや間奏におのおの考えたフェイクのフレーズなどを勝手に入れて、それがつんくに気に入られると実際に曲中に使ってもらえたという。曲の終わりで矢口がささやく「LOVEマッシ~ン」のフレーズも、レコーディング中に彼女が思いついて入れたものらしい。

「もっとアホアホダンスでいいんですよ」

 前作「ふるさと」では安倍がメインボーカルを務め、ほかのメンバーはサポートに回ったが、この曲では全員にソロパートが用意された。それだけに皆が前に出ようと闘志を燃やした。《あの曲のときは“歌の中で、誰がいちばん目立てるか!?”みたいな戦いでしたね、うん》とは市井の証言だ(能地祐子『モーニング娘。×つんく♂』ソニー・マガジンズ、2002年)。

 振り付けも完成する直前につんくが変えてしまった。担当した夏まゆみは当初、クールでカッコいい振りをつけていた。メンバーも「何だかモーニング娘。ってカッコよくなったよね」と言いながら、猛レッスンしていたが、つんくはそれを見て《新人ばかりのモーニング娘。にはあまりにも難易度が高すぎて滑稽に映ってしまう》と思い、《“そうでなくって先生、この子たちが踊れる最大限の魅力を引き出したいから、もっとアホアホダンスでいいんですよ”という話をして、その日のうちに手直ししてもらったんです》という(『女性セブン』前掲号)。

 夏はそんなつんくの要望に見事に応えた。イントロの振り付けは「トイレを探すモーニング娘。」というコンセプトで、メンバーには「トイレ行きたいよぅ、漏れちゃう」と内股のポーズを真似させたりしながら教えたという(『週刊文春』2000年6月1日号)。

発売直前まで曲を差し替えようか、という変な空気が…

 こうして曲ができあがったものの、正直、つんくも心のなかでガッツポーズが出せるほどには自信がなかった。周囲からも反応らしい反応はまったくなかったらしい。のちに彼が語ったところによれば……

《レコーディングが終わった時点で、いつもなら、好きにしろ嫌いにしろ関係者からリアクションがあるのに、「LOVEマシーン」の時はゼロだったんですよ。要するに、コメントできないって言われた。どうなることかとみんなが思ってたと思います。僕もディレクターと「ダメやったら共倒れやな」とか言って、相当覚悟してましたね。発売直前まで曲を差し替えようかっていう変な空気が流れたくらい》(『婦人公論』2000年3月7日号)

 だが、関係者たちの心配は杞憂に終わる。「LOVEマシーン」は発売後、1週目より2週目以降の売り上げが増え、有線リクエストにも数ヵ月にわたってランクインする。さらに年末の紅白歌合戦で歌ったことで年が明けて2000年に入っても売れ続け、当時のアイドルソングとしては異例のロングヒットとなった。

初めてのミリオン達成

 プロモーション活動はリリース前に終えていたため、曲が出るとメンバーはそれぞれユニットやソロでの活動に散っていった。そのなかで中澤だけは10日間ほど完全オフとなり、後ろめたさを感じながらも母親と二人で1泊2日の温泉旅行に出かけた。

 その宿泊先の旅館で朝、ボーッとテレビのワイドショーを見ていると「モーニング娘。ミリオン達成」というニュースが飛び込んできて驚愕する。すぐさま、ソロ写真集の撮影中だった安倍に電話をすると、彼女も知らなくて二人で喜んだという。ミリオン達成はモーニング娘。のシングルでは初めてだった。こうして「LOVEマシーン」によってグループは危機を脱した。メンバーはこのときを「2回目のデビュー」と呼んだという。

時代の空気とシンクロした

 この年の忘年会シーズンには、あちこちのカラオケで「LOVEマシーン」が歌われた。週刊誌には振り付けをイラストで解説した記事が出るほどであった。そんな世間の騒ぎようは、幕末に民衆が世直しを望んで乱舞した運動になぞらえ「平成のええじゃないか」とも称された。経済評論家の森永卓郎は、ドイツの経済学者・ゾンバルトの「恋愛と贅沢が経済成長の源泉である」という理論を引きながら、つんくはこれを学校で学ばずとも体得しているとして、《エコノミストとしても天才じゃないか》と絶賛している(『文藝春秋』2000年6月号)。

 もっとも、つんくに言わせれば、そういったもっともらしい世評はこじつけにすぎず、自分が大切にしたいのはあくまで「最初に音をちゃんと自分の耳で聞いて振り返ってくれた人たち」だった(『無限大』2005年冬号)。それでも、あの曲が同時代の状況から影響をまったく受けていないわけがない。そのことは彼も認めており、あるインタビューではこんなふうにぶっちゃけた。

《去年[引用者注:1999年]の春、僕はドラマに出演していたんですけど、その頃以降のどの局のドラマの主題歌もとにかく暗すぎたんですよ。(中略)僕らがシャ乱Qでワイワイ言われている頃は、なんか悲しい歌とか、いい歌っぽいのが受け入れられる時代だったんですけど、ここまで不景気だと、ちょっとムカついてくるんですよね、だんだん。うっせーよ、お前に説教されたくねーよ、とか。なんかそういう感じだったんですよ、僕自身が》(『SWITCH』2000年3月号)。

 そんなフラストレーションもあって生まれた「LOVEマシーン」は、底抜けに明るい曲ではあるが、なかには感動して泣いたという人もいたという。これについてつんくは当時、《生活がほんとうに苦しくて、明日どうしようかっていう人が涙流した、とか。それはもう、あの曲の何がそんな力になったのか、僕らはわからないんですよ。でもそういう人がいたっていうのは、正しいことなのかなって。最近、泣かそうとしてる音楽とかドラマとか、多いじゃないですか。でも哀しい歌を哀しく歌うっていうことじゃない涙が、そこにはあったのかもしれない》と受け止めた(『婦人公論』前掲号)。

「LOVEマシーン」はモーニング娘。にとって起死回生の一曲となったと同時に、こうして時代の空気とシンクロしたからこそ、いまなお人々の記憶に残っているのだろう。


*「LOVEマシーン」(作詞・作曲:つんく)

〈 「なんで金髪にしたの?」と聞かれ…当時13歳の後藤真希が返した“衝撃の一言” 〉へ続く

(近藤 正高)

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