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「なんで金髪にしたの?」と聞かれ…当時13歳の後藤真希が返した“衝撃の一言”

文春オンライン / 2024年9月9日 11時0分

「なんで金髪にしたの?」と聞かれ…当時13歳の後藤真希が返した“衝撃の一言”

2002年の後藤真希 ©時事通信社

〈 なぜ「LOVEマシーン」は社会現象になったのか? 発売から25年…“時代に刺さった”ワケとは〈「お前に説教されたくねーよ」がきっかけに〉 〉から続く

 いまから25年前、1999年9月9日にモーニング娘。の「LOVEマシーン」がリリースされた。CDの累計売上は176万枚以上のミリオンヒットで、当時8人のモーニング娘。は大ブレイクを果たした。グループの流れを変えた“金髪の13歳”、「ラブマの法則」とファンから囁かれながらグループを去っていったメンバーのその後は……。(全2回の2回目/ はじめから読む )

◆◆◆

「LOVEマシーン」では曲や振り付けだけではなく、センターを務めた金髪の少女にも注目が集まった。同シングルが発売されるわずか18日前、1999年8月22日にモーニング娘。の3期メンバーとして加入したばかりだった後藤真希である。当時、13歳の中学2年生だった。

合格の決め手となった後藤真希のひとこと

 もともと3期メンバーのオーディションの募集に際し、プロデューサーのつんく(現・つんく♂)は今回新たに二人を採り、9月9日発売のニューシングルでグループを9人体制に移行すると発表していた。だが、後藤の個性の強さから、二人入れるともう一人と潰し合いになるとの判断で、彼女だけが選ばれる。

 このとき、最終審査で「何で金髪にしたの?」と訊かれた彼女が「校則で禁止されてるんだけど、夏休みなんで」と答えたのを、つんくが気に入って合格を決めたという話は語り草だ。これが《逆に、なんかポリシー持って“わたし、ロックだから金髪にしました”みたいなヤツだったら、別に要らないんだけど。“夏休みだから金髪にしました”っていうのが、僕、大好きなフレーズで》と、つんくはのちに語っている(能地祐子『モーニング娘。×つんく♂』ソニー・マガジンズ、2002年)。

海苔を歯につけてニカッと笑って…

 ただ、後藤が加入していきなりセンターとなり、先輩メンバーたちには戸惑うところもあった。保田圭は、自分たち2期メンバーはまずコーラスからのスタートだっただけに、《すごく驚きました…!!「いきなりセンターか!」って。それに悔しかった…。え?そういうのもありなの?って》と、当時の思いを明かしている(「CHANTO WEB」2022年12月21日配信)。

 それでも《ごっちん[引用者注:後藤の愛称]の人柄もあって、特に雰囲気が悪くなるとか、そういったこともなかったですね》ともいう(同上)。たとえば、後藤が初めてメンバーと昼食をとっていたとき、いきなり「見てみてっ!」と言うので振り返ると、弁当の海苔を歯につけてニカッと笑ってみせたことがあった。保田はその度胸にちょっとカルチャーショックを受けたという。

 オーディションの最終審査のお寺での合宿では、ほかの候補者が正座してきちんとお経を聞いているのに、後藤だけうたた寝していた、ということもあった。おかげで周囲からは「肝が据わっている」とよく言われたものの、当の彼女にはその意味がさっぱりわからなかった。だが、あとになって《あの頃の自分は……どこからどう見ても、もう恐ろしいとしか言いようがないです(笑)》と省みている(「テレ東プラス」2022年2月20日配信)。

 リーダーの中澤裕子は当初、マネージャーから「後藤には何も言うな」と言われたという。どうやら、いままでグループにいなかったタイプだから、これまでの「色」に染めたくなかったらしい(中澤裕子『ずっと後ろから見てきた』ワニブックス、2003年)。それでも、モーニング娘。に入った後藤には市井紗耶香が“教育係”につき、保田を交えた3人でユニット「プッチモニ」としても活動するなかでよく怒られもしたという。

“ライバル”と言われた存在

「LOVEマシーン」では、それまでのシングル曲でセンター常連であった安倍なつみが後藤にその座を譲った格好になった。そのためにファンやメディアからはとかく二人の関係が取り沙汰された。しかし、安倍本人に言わせるとむしろそれは心外であったらしい。数年後、フォトブックのなかで次のように明かしている。

《なんかね、外ではいろいろ言われてたけど、そのときのふたりは結構、フラットで……「おいおい」「なんじゃー」みたいな(笑)。/ヤダッタヨ。そりゃスッゴイヤダッタ。ふたりとも傷ついてたよ……でも普通に話してたし。メンバーの中では逆に仲良しだったんだよ。ライバルって言われるってことはさ。やっぱり、プレッシャーも共有してたみたいなとこあって……》(安倍なつみ『ALBUM 1998-2003』ワニブックス、2003年)

 そのころ、安倍と後藤が二人で渋谷のセンター街へ遊びに行き、コギャルたちに見つかって追いかけられたこともあったという。だが、取材でそういう話をしても、まったく信じてもらえなかったらしい。

「後藤が入ってからモーニング娘。は確実に変わった」

 矢口真里は後藤が入ってきて「負けてられない」と思うと同時に、その髪色に触発され、自分でもそれまでグループ内で禁じられていたパーマをかけ、髪も明るくした。矢口によれば、このころからメンバーとの関係も、それまで苗字で呼んでいたのがニックネームで呼べるようになるなど、どんどん変わっていったという(矢口真里『おいら』ワニブックス、2003年)。

 つんくもまた、後藤が入ってからモーニング娘。は確実に変わったと感じていた。のちにその変化を、《あのころのモーニング娘。って、どっちかというと田舎っぽいイメージがあって。ファミリーレストランのチェーンっていうよりは、田舎の喫茶店系列店ぐらいのイメージだったから。それが、後藤が入ってくることによってフランチャイズな感じのにおいがしてきて》とたとえている(前掲、『モーニング娘。×つんく♂』)。

 翌2000年に入っても「恋のダンスサイト」「ハッピーサマーウェディング」とシングルがあいついでミリオンを達成、ユニット曲も人気を集め、モーニング娘。の快進撃は続く。この間、4月には4期メンバーとして石川梨華・吉澤ひとみ・辻希美・加護亜依が加入し、グループはさらなる発展を遂げることになる。

メンバーのその後の運命を定めた?…「ラブマの法則」

 これと入れ替わるように、2000年1月には石黒彩、5月には市井が卒業した。石黒は《私にとって最後の作品になった「LOVEマシーン」がミリオンヒットを記録したことが、精神的な区切りにもなったのかな。この曲はレコーディングのときも、すごく気持ちよく歌えて一発OKが出たんですよ。なんかそのときにね、私、ここまでやれば、もういいかな、って思った》と、卒業後に語っている(『婦人公論』2003年9月7日号)。彼女は卒業後、本来の夢であったファッションデザイナーを再び目指して専門学校に入ったものの、前後して妊娠がわかり、その相手であるロックバンド・LUNA SEAのドラマーだった真矢と結婚する。

 一方、市井は洋楽に傾倒するうち、自分でも歌をつくってみたいと思うようになったという。そして《“今の私、狭いな”って。自分を広げるために、一度リセットしなきゃと思》い、卒業を決意する(『anan』2002年10月16日号)。卒業後は1年半の休業を経て、「市井紗耶香 in CUBIC-CROSS」という音楽ユニットで再デビューしている。

「LOVEマシーン」のジャケット写真では、8人が縦4列に二人ずつ並んでおり、石黒と市井は右端の上下に位置した。不思議なことに、二人を皮切りとして、ここに写ったメンバーは左に向かって各列上から下へ順番に卒業していくことになる。

 このことにファンが気づき始めたのは、2001年4月に初代リーダーの中澤が卒業したあたりかららしい(『週刊女性』2003年9月30日号)。誰が言い出したのか「ラブマの法則」と名づけられ、その後も、2002年9月に後藤、03年5月にサブ・リーダーとなっていた保田、04年1月に安倍、05年1月に2代目リーダーの飯田圭織、そして同年4月には3代目リーダーを継いだばかりだった矢口と、最後までこの順番どおりメンバーが抜けていき――矢口は俳優とのスキャンダル発覚による活動辞退という残念な形ではあったが――“法則”は成立するにいたった。グループに大きな転機をもたらしたシングルが、まるでその後のメンバーの運命まで定めていたかのようである。

小学生のときに踊ったり歌ったりした「LOVEマシーン」の思い出

 モーニング娘。のファンは、結成からしばらくは圧倒的に10~20代の男性が多かったのが、「LOVEマシーン」を境に年齢層が下にまで拡大した。のちにグループに入ってくるメンバーはこの世代にあたる。

 モーニング娘。が結成10周年を迎えた2007年、当時のメンバーたちの座談会でも、まず話題になったのが「LOVEマシーン」の思い出だった。リリース当時、大半のメンバーは小学生で、運動会の応援ソングとして歌ったり、クリスマス会で踊ったりしていたようだ。

 ほかにも、6期メンバーの道重さゆみが、当時のモーニング娘。が「LOVEマシーン」を歌うのを見たとき、《みんなすごく面白い顔して、「自分の壁をブチ破っちゃってるなー」って思った》と言えば、同期の亀井絵里も《私、すごい引っ込み思案だったから圧倒されちゃったもん。(中略)その頃から「羨ましいな、モーニング娘。に入りたいな」って憧れてたよ》と語った(『週刊プレイボーイ』2007年10月29日号)。

解散するつもりでいた

 彼女たちは、「LOVEマシーン」以来のブームが一旦落ち着いた時期、ライブに力を入れるようになり、ハイレベルなボーカルダンス集団へとモーニング娘。を生まれ変わらせ、のちに「プラチナ期」と呼ばれる一時代を築くことになる。

 その後加入するメンバーも含め、「LOVEマシーン」のような曲で再び世間にセンセーションを巻き起こすことは、後輩たちにとって一つの目標となり、この曲自体も歌い継がれていく。2014年以降は、「モーニング娘。’14」という具合にグループ名のあとに西暦の下二桁がつき、年ごとに替わるようになり、結成から27年が経った現在も存続している。

 じつはつんくはモーニング娘。を当初、一番いい時期に解散するつもりでいたという。のちに語ったところによれば、《僕は紅白に出場したときに「解散します」と宣言し、シングルの4枚目ぐらいで解散したかったのですが、[引用者注:実際にその段階に達した]そのときはそんな空気じゃなかった》ということであったらしい(『無限大』2005年冬号)。

 その一方でつんくは、グループ自体が常に新鮮な存在でいられるよう、絶えずメンバーチェンジしていくシステムづくりを模索していた。これは、洋楽評論家の福田一郎の「プエルトリコのメヌードを研究してごらん」との助言によるものであったという。メヌードはリッキー・マーティンも輩出したラテン系の音楽グループで、70年代に結成されて以来、いくら人気が出ようとも17歳になったら退団しなければならないという鉄則があった。つんくにより、モーニング娘。が一部を取り入れたこのシステムは、その後、女性アイドルグループに広く浸透していくことになる。

OGたちのその後と今

 2011年には、中澤・飯田・安倍・保田・矢口を含むOGらによって「ドリームモーニング娘。」が結成され、1年あまり活動して話題を呼ぶ。中澤は2014年に家族と福岡に移住し、タレント活動を続けている。市井は今年、5年前に出馬した参院選で繰り上げ当選したもののすぐに辞職届を出し、久々に注目を集めた。二人を含め「LOVEマシーン」を歌った8人が、いまや全員子供を儲けているというのも時代の流れを感じさせる。

 8人のなかでも近年、とくに再び脚光を浴びているのが後藤だ。2014年6月に約2年半にわたった活動休止から芸能界に復帰、その後結婚して2児を儲けながら、2021年には10年ぶりにソロライブを行うなど音楽活動に力を入れ、あいかわらずの存在感を示している。

 トレーニングにも余念がなく引き締まった体型を維持し、つい最近も青年コミック誌『ヤングジャンプ』39号の表紙と巻頭グラビアを飾った。その若々しさは、とても今月23日に39歳になるとは思えない。後藤は金髪でデビューした13歳のとき以来、いまなお年齢を超越した存在であり続ける。

(近藤 正高)

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