1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. 芸能総合

「うちの光に限ってそんなことはない!」タイタン太田光代社長が明かした2度の不妊治療と義父からのプレッシャー

文春オンライン / 2024年9月9日 8時30分

「うちの光に限ってそんなことはない!」タイタン太田光代社長が明かした2度の不妊治療と義父からのプレッシャー

太田光代さん ©文藝春秋

 漫才コンビ・爆笑問題の所属事務所として立ち上げられた「タイタン」。事務所が成長軌道に乗った1990年代後半、プライベートでは2度にわたる不妊治療に挑戦していたことを、太田光代社長が 明かした 。

「太田と一緒になった当初、私は子供を作ることはほとんど考えていませんでした。もともと子供がさほど好きではなく、自分の子を育てたいという強い気持ちもなかったのです。仮に出産したとしても、上手く育てていく自信がありませんでした」

 だが、30歳を過ぎる頃に身内からのプレッシャーが強くなったという。「いつ孫の顔を見られるのか」と直接、光代氏に声をかけてきたのは義父(夫・太田光の父)だった。

「今こうやって振り返ると、夫婦間のデリケートな話題にズケズケと入り込んでくる義父が批判されそうですが、当時はこれが当たり前の価値観。もちろん義父にまったく悪気はありません」

「まあまずは普通に子作りをしてみようかと考えるようになりました」

 しかし、その結果は思うようなものではなかった。

疲労困憊のまま眠りこけてしまうことも

「排卵のタイミングは完璧にあっているはずなのに、まったく子供ができない。その頃は夫婦ともに多忙だったので、私が夜まで仕事が続いて遅くなることもあれば、太田は太田で収録が長引いて疲労困憊のまま眠りこけてしまうこともたびたび」

 そこで光代氏は不妊治療への挑戦を決意する。

「当時、不妊治療は世間でもマイナーな選択肢でした。1990年代後半はまだ全額自己負担。治療費もかなりの高額でした」

 仕事の時間を確保するため、朝早くから病院に通った。この治療が当時30代半ばだった光代氏にとって耐え難い苦痛だったという。

「ホルモン剤を服用しているときは電車で一駅移動するのも一苦労でした。特急なんかに乗ったら途中下車もできないから顔面蒼白になって、しゃがみ込んでしまったり。そのときはそれまで何も気にしなかった食べ物や洗剤の匂いが気になり気分が悪くなるのです」

不妊治療を断念。二人で義父へ報告に

 足かけ5年におよんだ治療だった。同じ頃、タイタンでは所属タレントである長井秀和と橋下徹弁護士がブレイク。光代氏はふたたび社長業に忙殺されていく。仕事との両立を不可能と判断した光代氏は、ここで不妊治療を断念。すぐに頭に浮かんだのは義父の顔だったという。

「このタイミングでしっかりと『不妊治療をやめます』と伝えないと、お義父さんはいつまでも私に『孫の顔を見たい』と言い続けるはずです。それはお互いにとって不幸なこと。時間を取ってもらって、太田と二人でお義父さんにこれまでの不妊治療の報告に行きました」

「うちの光に限ってそんなことはない!」

 太田光の実家に向かう夫婦の手には一つの書類が握られていた。それは太田光の精液検査の結果で、データ上では精子の量が同年代の男性よりも少なく、お互いの年齢も考慮するとなかなか妊娠は難しいだろうという医師の見解が添えられていた。

 だが、夫婦そろっての報告に、義父の第一声は、

「うちの光に限ってそんなことはない!」

 当時は不妊の原因についての周囲の理解も価値観も、現在とは大きく異なっていた。事務所快進撃の陰で、光代社長は人知れず苦しんだ――。

 9月10日発売の「 文藝春秋 」10月号では、夫婦で取り組んだ治療の過程について、全10ページにわたり掲載している(「 文藝春秋 電子版 」は9月9日公開)。

(「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2024年10月号)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください