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「何てことをするんだ、このやろう」社員全員が敵になった…元主婦の女性社長が父の会社を継いで1週間で“5人のリストラ”を決めたワケ

文春オンライン / 2024年9月13日 7時0分

「何てことをするんだ、このやろう」社員全員が敵になった…元主婦の女性社長が父の会社を継いで1週間で“5人のリストラ”を決めたワケ

諏訪貴子さん @稲垣純也

〈 「冗談じゃない。社長なんてやめた!」父が亡くなり町工場を継いだ女性が激昂した、取引銀行の支店長の“失礼すぎる一言” 〉から続く

 町工場を営む家の次女として生まれ、当時32歳の主婦だった諏訪貴子さん(53)は、先代の後を突然継ぐことになった。亡くなる直前、父・保雄さんは病院のベッドで苦しみながらも、貴子さんの目を見つめてこう言ったという。

「頼むぞ」

 ここでは、その後の貴子さんが社業を復活させ「町工場の星」と言われるまでの10年の軌跡を振り返る『 町工場の娘 主婦から社長になった2代目の10年戦争 』(日経ビジネス人文庫)より一部を抜粋。就任後、たった1週間でリストラを言い渡した若い女性社長に対する、幹部社員たちの反応は――。(全2回の2回目/ 最初から読む )

◆◆◆

就任1週間で5人をリストラ

 社長に就任して1週間ほどでリストラは不可避と覚悟を決めた。

 当時、ダイヤ精機の業務は設計、製造、営業という3つの部門に分かれていた。特に問題が大きかったのは、設計部門を担当する100%子会社のダイヤエンジニアリングだ。

 ダイヤエンジニアリングには3人のエンジニアが所属していた。設計部門といっても、3人は単に図面を描く仕事を請け負うだけでなく、自ら顧客を訪ね、ゲージや治工具の新たなニーズを聞き取る営業活動も行っていた。注文を受けたら図面を描き、それを製造部門に回し、製品を製作してもらって納品するというのが彼らの仕事だ。

 だが、肝心の受注量が少なかった。3人分の人件費をまかなうには到底不足していたのである。また、注文を受けて設計・製作した製品一つひとつを見ても、売り上げ規模が小さく、利益が出ていない製品が多かった。

 一方で、3人のエンジニアは設計という専門職であったため、給与水準はダイヤ精機本体よりも1~2割高い。収益構造が脆弱で長年、不採算が続いていた。

 たとえ、社内に設計図面を描ける社員がいなくなっても、ここで1回整理することはどうしても必要だと考えた。

 かつて父に提出した経営改革案通り、ダイヤエンジニアリングの解散と所属するエンジニアのリストラを決めた。社長秘書や運転手も町工場には過分と考え、計5人の社員をリストラすることにした。

「やるしかない」と決意したものの、リストラを言い渡すまでには眠れない夜を何日も過ごした。

 自分の一言で他人の人生を変えてしまう。相手から罵声を浴びるかもしれない。過去に経験のないことだけに、正直言って怖かった。

 ほかの社員が離反して辞めてしまうかもしれないとも思った。だが、「全員辞めてしまったとしても、日本中を探せば、新たに20人ぐらい雇うことはできるだろう。20人集まらず、なくなるような会社ならそれまでだ」と開き直った。

 経営者という道を選んだ自分にとって、この試練を乗り越えられなければ、次から次へ押し寄せるであろう難題に立ち向かえない。そう腹をくくった。

 当日の朝、一人ひとりを社長室に呼んで話をした。

「当社は売り上げに対して人員が超過しています。大変申し訳ないけれども、会社をお辞めいただきたいと思います」

 罵詈雑言が飛んでくるかもしれないと身構えていたが、みんな一様に「わかりました。これまで大変お世話になりました。ありがとうございました」と頭を下げて出て行った。

 リストラをせざるを得ないダイヤ精機の窮状、その中で2代目社長に就いた私の苦境を理解してくれたのだろう。誰一人恨み言を言うことなく、静かに受け入れてくれた。父が遺した“人財”のありがたさを心から感じた。

 だが、社内の雰囲気は一変した。5人をリストラしたことを知ると、1人の幹部社員は「何てことをするんだ、このやろう」と食ってかかってきた。1日で社員全員が「敵」になった。

 1カ月前まで主婦だった創業者の娘が、社長に就任して1週間で過去に例のないリストラを実行したのだから、社員が反発するのも無理はなかった。

延命ではなく立て直しを図った「3年の改革」

 父が亡くなった後、幹部も含め、社員の多くは私に「社長になってほしい」と言った。

 だが、それはあくまでも“お飾り”のつもりだったのだろう。私が形だけ社長のいすに座ってさえいれば、自分たちは今まで通り日々の仕事を粛々とこなしていく。会社が成長することはなくても、自分たちの生活を守ることぐらいは可能だろうという感覚だったはずだ。私に「経営してほしい」とは思っていなかったのだ。 

 確かにそのやり方でも、高齢の経営幹部が引退するまでの数年間なら、何とかダイヤ精機を存続させることはできたかもしれない。だが、ジリ貧を脱する策を講じなければ、いずれ立ち行かなくなるのは目に見えていた。

 ダイヤ精機を長く残し、技術力を維持していくには、会社が抱えている様々な問題を根本から解決することが不可欠だ。

 リストラは「私が社長としてこの会社で実権を握る」という意思を社内に表明する機会にもなった。

 5人のリストラで月に200万円ほどの人件費を削減。それに加え、経費もとことん削減した。その結果、当面の経営難に対処することはできた。だが、そこで足を止めるわけにはいかない。より強固な収益基盤をつくり上げ、経営を安定させる必要があった。

 早速、ダイヤ精機を抜本的に立て直すため、「3年の改革」と銘打った取り組みを始めた。

「これから、ダイヤ精機は『3年の改革』と題して、いろいろな改革に取り組んでいきます。私にあなたたちの底力を見せてください」

 社員にこう訴えかけた。

(諏訪 貴子/Webオリジナル(外部転載))

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