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田嶋陽子(83)がシニアハウスに入居…決断の決め手は? 「死に場所が見つかって、今はホッとしています」

文春オンライン / 2024年9月20日 6時0分

田嶋陽子(83)がシニアハウスに入居…決断の決め手は? 「死に場所が見つかって、今はホッとしています」

田嶋陽子さん Ⓒ文藝春秋

〈 「スカートのなかで太ももを革のベルトで縛りつけて」テレビ出演したことも…田嶋陽子が振り返る、“バカにされても頑張れた”理由 〉から続く

「日本でいちばん有名なフェミニスト」として、長年テレビ番組などのメディアで活躍してきた田嶋陽子さん(83)。近年、SNSを中心にフェミニズムへの関心が高まるにつれ、その功績を再評価する動きも出てきています。

 ここでは、そんな田嶋さんが9月20日に上梓した『 わたしリセット 』より、シニアハウスと軽井沢の自宅との二拠点生活について書いた部分を抜粋して紹介します。80代で見つけた“死に場所”、その住み心地とは――。(全4回の4回目/ 最初から読む )

◆◆◆

「死に場所」を見つけた

 2023年4月に都内のシニアハウスに入りました。自分の死に場所が見つかって、今はホッとしています。

 2002年に法政大学で同僚だった駒尺喜美さんたちと一緒に「友だち村」というシニアハウスを中伊豆につくりました。コンセプトは生涯現役で、個を大切にしながら仲間と助け合える場所。ところが私は60代だったのと、仕事が忙しくて中伊豆に通いきれなくなったのとで、入居してすぐ退去せざるをえませんでした。友だち村は今もちゃんと存続していて、みなさん楽しく暮らしています。

 私たちの若いころ、いわゆる老人ホームのイメージは、姥捨て山みたいなものでした。自分が入るなんて夢にも思っていなかった。でも、今はみんなが老人ホームを良いものにしようと必死になっていて、設備や環境がどんどん良くなっていますよね。老いた親たちは事あるごとに「子どもたちに迷惑かけたくない」と言っているんでしょう。だったら、さっさと老人ホームに入ってしまえばいいのです。

 私は45歳のときに軽井沢にセカンドハウスを建ててから、都心と軽井沢の二拠点生活を続けてきました。軽井沢は、疎開先の母の実家があった新潟や留学先のイギリスに似た雰囲気があって、とても気に入っています。田んぼのあぜ道に立って景色を眺めると、おにぎり山が2つ並んでいるのが見えます。日によっては雲がかかっていたり、霧でまったく見えなくなったり、自然はものすごくドラマティック。毎日見ていても飽きません。

 テレビのバラエティ番組に呼ばれて忙しくなってからも、週末には必ず軽井沢に帰り、ボロボロになった心を癒していました。軽井沢の美しい森や野生動物に慰められたおかげで、あの苦しかった時代を生き延びられたと思います。

シニアハウスに入居を決めたきっかけ

 でも、年をとって軽井沢で動けなくなったらどうしようとは思っていました。福祉の面が心配でしたし、老人ホームも多くはありません。私が親しくしていた近所の90歳過ぎの友だちも、軽井沢を離れてとなり町の施設に入りました。

 そしたら、たまたま2022年の秋、一緒に仕事をしたピアニストの方から、90歳のお弟子さんが東京のシニアハウスからその方の音楽教室に通ってきているという話を聞きました。その人はシニアハウスからゴルフにも行ったりしているそうです。

 なんと、偶然とはいえ、そこはお世話になった津田塾大学の学長が99歳で亡くなるまで暮らした場所で、私も何度かお見舞いに行ったことがありました。そのとき、「そうか、ここに入れば安心して死ねるんだ」と思ったのです。それにちょっと前、女優の有馬稲子さんが老人ホームから仕事に行くという話を読んで、「それいいな」と思っていました。

 自分のなかで、いろいろなことが全部つながりました。シニアハウスに入れば、死に水を取ってもらえるし、そこを事務所にすれば仕事ができる。そう思ったら、もう迷いはありません。即決でした。すぐに、銀座にもっていた事務所兼自宅を売りに出したら、不動産屋さんが高く売ってくれて、そのお金をもとに入居が決まりました。

 そのシニアハウスに入る1年前に、軽井沢の家も引っ越しました。35年間、軽井沢の千ヶ滝という標高1200メートルのところで暮らしてきたのですが、そこは山のなかですから、散歩に行ってもサルとキツネとタヌキしか出ません。あるとき散歩に出たら、うちの屋根の上で日なたぼっこをしていたサルの一家が私のうしろをずっとついてきたことがありました。何かされるんじゃないかと怖くなったので、立ち止まってふり向いて、大きな声で『愛の讃歌』を歌ったら、それっきりついてこなくなりました。

 そんな人里離れた場所が私の性に合っていたのですが、ある日、電話で言葉が出ないことがありました。「まずい! このままボケたらどうしよう」。そう思ってすぐに、山を下りる決意をしたのです。80歳で平地の人も多い別荘地に移ってきました。私が死んだ後、そこは母校の津田塾大学に引き取ってもらって、セミナーハウスみたいに使ってもらえたらいいなと思って、そういう話をしたところです。

 私は「老後」や「引退」なんていっさい考えたことはありません。でも、死ぬまでの生活拠点が固まったので、これからも仕事や活動を続けて最後の一滴までエネルギーを使いきるつもりです。

シニアハウスでの生活は…二拠点生活で楽になった

 シニアハウスに入居してから1年以上が経ちましたが、自分の選択は間違ってなかったと思います。部屋は2LDKでこぢんまりとしていて、必要最小限のスペースしかありませんが、共用の部分が大きくて気分爽快です。

 施設内のレストランでは、入居されている男の人も女の人も身ギレイに整えて、楽しく会話しながら食事をしています。ほかにも娯楽室やプール、大浴場、フィットネスルームなどがあって、歌やダンス、麻雀、ビリヤードなどいろいろ楽しむことができる。館内にクリニックがあり、美容師、理髪師も週数回来てくれます。低層階は介護病棟になっていて、ケアが必要な人たちが入っています。

 ここにいると、自分がこれからどのように年をとっていくかが分かります。周りを見ていると、ああなったらいいなとか、ああはなりたくないなって。エレベーターで一緒になった元気なおばあさんが、あとで聞いたら100歳でした。ここには100歳の人が10人もいるそうです。

 私もなるべく自立していたいですが、いざとなったら介護病棟に移ることになるでしょう。最期は、そこで看取ってもらおうと思っています。安心して死ねるというのはつまり、死後の処置、処理を全部まかせられるということ。ひとり者の私にとっては一番大事なことです。

 東京と軽井沢の二拠点生活は以前と変わりませんが、今は気持ちがずっと楽になりました。原稿を書いたり作品をつくったり歌の練習をしたりするのは軽井沢。仕事があるときは東京に出て来て、シニアハウスに泊まって準備します。次の日、講演に行ったり、シャンソンを歌いに行ったり、友人と食事をしたり。

『そこまで言って委員会NP』の収録があるときは、そこから大阪へ。だから、歌うときのドレスや、テレビや講演に必要な衣装はすべてシニアハウスに置いてあります。私にとってシニアハウスは老後の生活を送る場所というより、今はサテライトオフィスのような生活拠点のひとつです。

 朝は目が覚めると、散歩とラジオ体操が日課。軽井沢では毎日5時すぎに起きると、むしょうに自転車にのりたくなります。いつも十分ほど歩いて(少ない!)、そのあと自転車で20分ほど田んぼ道を走ります。帰ってきてからテレビを見ながらラジオ体操をしています。軽井沢で歩いていると、犬の散歩をしている人と仲良くなります。犬友だちですね。犬の名前を聞いてもなかなか覚えられないから、メモするようにしています。その犬友だちは書アートの個展やコンサートに来てくれたりします。

入居者たちとの関係は…

 東京のシニアハウスでは、近くの川のほとりを歩いて、途中にある神社に立ち寄ってお参りしたりしています。軽井沢の人とちがって都会の人は挨拶をしてもなかなか返事をしてくれませんね。東京は高層ビルやマンションがずらっと林のように立ち並んでいて、緑しかない軽井沢の風景とは大違いです。でも、一週間のうちに田舎と都会をどちらも体験できるのは、考えようによっては幸せなことかもしれません。

 シニアハウスでは、入居されている方々と、とてもいい関係を築けています。三越劇場のコンサートの前は、シニアハウスのスペースを借りて先生を呼んで、社交ダンスの練習をしていました。ここでの友人たちも習いに来てくれて、なかには94歳の女性もいます。その方たちは私のライブにも来てくれて、うれしかったです。男性たちも親切です。なかには奥さんに逃げられた人もいて、女の自立をずっと主張してきた私を恨んだことがあるかもしれないけれど、さすがにもう吹っ切れているみたい。

 食事のときにお酒を飲みながら、お話しすることもあります。自分でワインボトルを持ち込んでいる人もいます。私はせいぜいビールと日本酒。じっくり話を聞くと、それぞれの人生にいろんなドラマがあります。私のように、ここを拠点にいくつもの会社の取締役をしている人もいれば、家族のご飯の用意からようやく解放されて、ひとりの食事を楽しんでいる女の人もいる。無口に見える人でも、話し出したらこちらがビックリするくらいよくしゃべってくれます。

 高齢者にとっては、自分がかつて社会で活躍したことを人から忘れられるのは一番寂しいでしょう。その人がどういう人だったのかを周りが知らないわけです。だから、自分史を書いて、それをドラマにするなど、自分が生きた軌跡を知ってもらえる機会をつくってあげるといい。その人の背後の人生を知ると、話も弾みます。

 シニアハウスが企画してもいいし、これから世の中にはもっと高齢者が増えていくわけですから、自分史を周りと共有できるような企画をするところが出てきたらいいと思います。

(田嶋 陽子/文春新書)

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