「何を言われようと、オレはいい歌を歌えばいい」3度の活動休止、“音楽ができなくなった”時期も…玉置浩二(66)が安全地帯を復活させるまで
文春オンライン / 2024年9月13日 11時0分
2017年、香港で行った安全地帯デビュー35周年ライブで声援に応える玉置浩二 ©時事通信社
《音楽は全然聴かないですね。聴く必要がないんですね、音楽の発信地は、いつも自分ですから。音楽を忘れたいんですけれど、勝手に頭の中で音楽が流れてきて困ってるんですよ》
まるでモーツァルトもこうだったのだろうかと思わせるような発言だが、これはいまから31年前、ミュージシャンの玉置浩二が『週刊文春』でのインタビューの冒頭で語ったものである(1993年3月25日号)。
このとき玉置は続けて、ドラマなどで演技しているときや飛行機に乗っているときにもメロディが浮かんできてしまうと語った上、《こういう感じで、いつも音楽は自分から離れないんですよね。これは苦しいです。もし、曲作りもせず、ただ歌うだけしかやっていなかったら、それはもっと苦しいでしょうね(笑)》と吐露していた。
当時34歳の玉置浩二が語ったこと
なお、このインタビューは8000字、6ページにわたって掲載された。週刊誌ではかなりのボリュームである。玉置は当時34歳。ロックバンド・安全地帯のボーカルとして人気を集めた20代以来、週刊誌をはじめマスコミからはもっぱら女性関係のスキャンダルで追われ続けてきた。それだけに、言わば彼にとって敵地である週刊誌で、音楽に真摯に向き合う姿に焦点を当てたこの記事は貴重である。取材中は終始フレンドリーで、聞き手を務めたライターの岩見吉朗には、彼が妹の編んだセーターを着ているのを見て、《それ手編みでしょ? 素晴らしい。手編みを身につけている人は信用できる》と褒めてくれたという(同上)。
手づくりへのこだわりは、インタビュー中での《最近は、自分の持っているムードやリズムじゃなく、機械に頼るという時代がずっと続いているみたいでしょう? ボタンを押すだけで誰でもいろんなリズムパターンを引き出せる打ち込み音楽というものがありまして、一つのジャンルになってるらしい。(中略)別に機械を使ってもいいんです。でも、機械に任せちゃったら駄目なんですよ》という発言からもうかがえる。
66歳の誕生日を迎えた
ちょうどこの前年には、父親に同行して北海道最北端の宗谷岬から自身の郷里である旭川まで308キロを歩いており、身体を使うことの大切さに気づいたとも語っていた。同時期の別の記事によれば、このとき父親は63歳だったという(『月刊カドカワ』1993年5月号)。息子の玉置はその年齢をすでに上回り、きょう9月13日、66歳の誕生日を迎えた。
農家を改造したスタジオで合宿生活を送っていると…
玉置が音楽活動を始めたのは、中学2年のとき、同級生の武沢豊(別名・武沢侑昂)らと「インベーダー」というバンドを結成したことにさかのぼる。その後、バンド名を「安全地帯」と改め、オリジナル曲や洋楽のカバーでコンテストにも出場するようになり、地元の旭川では有名だったらしい。1977年にはコンテストでよく競い合った「六土開正(ろくどはるよし)バンド」と合体する。のちにデビューする安全地帯のメンバー、玉置(ボーカル・ギター)・武沢(ギター)・六土(ベース・キーボード)・矢萩渉(ギター)・田中裕二(ドラム)はこのとき初めて集結した。
玉置たちは本格的にプロを目指すべく、地元の農家を改造して練習スタジオをつくると、3年ほど合宿生活を送った。そのころ、安全地帯のデモテープを入手したキティレコードが関心を示し、のちに彼らのレコードを手がけるディレクターの金子章平、プロデューサーの星勝があいついで旭川まで訪ねてくる。
井上陽水からの言葉に奮起する
それからまもなくして安全地帯は東京に呼び寄せられ、キティレコードの創設メンバーの田中裕(のち社長)から「勝負できる曲が必要だから、1年間ひたすらデモテープをつくってくれ」と命じられる。その間の稼ぎ口として、彼らは井上陽水のバックバンドを務めることになり、まず1981年秋からのツアーに参加する。
このツアー後、玉置はレコード会社で偶然陽水と会い、食事に誘われると、「後楽園球場の切符は手に入れるんだろう?」と訊かれた。野球の話かと思えばそうではなく、「安全地帯が後楽園球場でコンサートをやれるぐらいのバンドになる覚悟はあるのか」という話であった。先輩である陽水なりの励ましであったのだろう。これを受けて玉置は《“今のままではダメなんだな”とわかったし、“よし、やってやるぞ!”という気持ちも湧きました》という(『別冊カドカワ 総力特集 井上陽水』角川マーケティング、2009年)。
安全地帯はバックバンドを務めながら、やがて単独でライブハウスにも出始め、業界内でひそかに噂されるようになる。ただ、1982年2月、満を持してシングル「萠黄色のスナップ」でデビューしたものの、続く「オン・マイ・ウェイ」も、翌年1月にリリースしたアルバム『安全地帯 I Remember to Remember』も、ほとんど話題にはならなかった。そのためプロデューサーの星からは陽水に曲をつくってもらおうと切り出されるも、玉置はあくまでも自分で曲をつくることに固執し、この提案を拒んだ。そして1週間だけ時間をもらうと、絶対に売れるものをと必死になって曲をつくる。本来やりたかったロックっぽいサウンドではダメだと、思い切って歌謡曲の要素を採り入れ、生まれたのが「ワインレッドの心」のあのメロディだった。
「ワインレッドの心」の大ヒットとバンドとしての挫折
当初は歌詞はなく、玉置がデタラメな英語で歌っていたが、それまでの彼らの曲とは一味違い、キティレコードの田中裕いわく《音の角が取れて心の襞(ひだ)にそっと触れるような、繊細な哀愁が漂っていた》(『週刊現代』2020年8月1日号)。
詞はいろんな人に書いてもらったが、結局、陽水に依頼した。最初の詞では、のちに「忘れそうな想い出を」となる箇所が「豚のような女に」となっていたりしたが、玉置はスタッフを介して書き直してもらい、その回数は3度におよんだという。陽水のほうもこの歌詞を書くためにノートを1冊使い切るほど熟考を重ねていたらしい(志田歩『玉置浩二★幸せになるために生まれてきたんだから』イースト・プレス、2010年)。最終的に、このとき決まっていたサントリーのCMのワインを活かしてあの歌詞になった(なお、前出の田中裕は、陽水による作詞は、サントリーとのタイアップを仲介したCM音楽プロデューサーの大森昭男からの要望だったと後年証言している)。
「ワインレッドの心」は1983年11月にリリースされ、翌年、例のワインのCMが流れ、さらに当時の人気番組『夜のヒットスタジオ』で歌ったことで火がつき、最終的に70万枚超を売り上げる大ヒットとなる。しかし、それは必ずしもよいことばかりではなかった。これについて彼は《「ワインレッドの心」が売れて、ガラッと生活が変わったんですよ。戸惑いと、躍らされんぞという頑なさと、どんどん甘い汁にハマッていく自分と……》というふうに後年顧みている(『月刊カドカワ』前掲号)。
バンドの活動休止、精神病院に一時入院も…
玉置にとって「甘い汁」とは、「ワインレッドの心」以降もヒットを期待され、応えていくなかで、メンバー以外で音をつくり出すようになったことを指す。それまでメンバーだけで曲をつくり、ライブも行ってきたのが、気づけば外部の人たちにサポートに入ってもらい、最高15人もの大所帯となっていた。しかも、機械に頼りがちになる。《これじゃあもう全然バンドじゃないというか、安全地帯じゃないんですよ。そういう理由で活動をいったん休みにしたんですね》(同上)。それが1988年のこと。
このあと安全地帯は1990年に再結集して、もう一度メンバーだけでアルバムを制作し結束を固めたが、それも長続きせず、1992年にデビュー10周年を記念してアコースティック・ツアーを行ったのち、再び活動を休止する。このころ玉置はすっかり心を病み、精神病院に一時入院したことを後年告白している(前掲、『玉置浩二★幸せになるために生まれてきたんだから』)。
ミュージシャン兼俳優・玉置浩二としての成功
玉置浩二は安全地帯が全盛を迎えていた1987年、初めてソロアルバムをリリースし、個人での活動に入っていく。前後して1986年には、作詞家の松井五郎の原案によりキティレコード社長の多賀英典が監督、安全地帯が音楽を担当した映画『プルシアンブルーの肖像』に主演し、演技に開眼する。
1989年には『キツイ奴ら』で連続ドラマに初出演し、小林薫と詐欺師コンビを演じる。演出の久世光彦は当初、玉置の本職を茶化すことになると思い、彼に劇中で歌わせるつもりはなかったが、吉行和子が歌う場面で何気なく「ちょっとハモってくれる?」と頼んだところ、思いがけず本人が乗ってきた。これをきっかけに玉置が小林と流しに扮して歌うシーンが毎回の名物となる。久世とはその後もドラマで組むばかりでなく、彼が市川睦月名義で詞を書き、玉置が作曲して、演歌歌手の香西かおりが歌った「無言坂」(1993年)が日本レコード大賞を受賞するということもあった。
名演出家に「あんなバカ見たことない。でもあんな天才もいない」と言わしめる
ちなみに、数々のドラマを手がけながら樹木希林など多くの才能を見出した名演出家である久世は、玉置について《あんなバカ見たことないんだけど、あんな天才もいないんだよ。大河ドラマで足利義昭を演じていても、室町幕府も征夷大将軍も何のことなのか、全然意味はわかってない(笑)。台本の漢字も全部ルビだよ。でも映像を見ると完璧に足利義昭なんだよ。セリフのやりとりを音楽として感じているからなんだね。そこは本当に天才なんだよ》と評した(『週刊文春』2009年3月12日号)。ミュージシャン兼俳優・玉置浩二に対する最高の賛辞だろう。
玉置が足利義昭を演じたのは1996年の大河ドラマ『秀吉』である。同じ年にはドラマ『コーチ』に浅野温子とともに主演、玉置自身による主題歌「田園」は100万枚近くを売り上げ、彼の最大のヒット曲となった。玉置は90年代半ばのこのころ、尾崎豊などを世に送り出した須藤晃をディレクターに迎え、作品を手がけていた。
ほぼ即興でつくった「田園」
「田園」が生まれたのはひょんなことからだった。このとき、レコーディングの日に間に合うよう玉置はかなり時間をかけて曲をつくってきたものの、須藤はそれを聴いて「この曲を録音するのはやめましょう」と却下してしまう。しかし、続けて「せっかくスタジオを取ったのだから、この場で1曲つくりませんか」と持ちかけた。玉置は《僕も、しょうがない、なにか作るか……という感じでギターを持ってスタジオに入ったんです。そうしたらいきなり、あのイントロのフレーズが思い浮かんできたんですよ。それで本当にバーッと10分ぐらいでできた》という(『女性自身』2005年11月15日号)。
ほぼ即興でつくった曲が大ヒットになったとは、冒頭で紹介したように、いつも頭のなかにメロディが流れていると語っていた玉置のまさに面目躍如と思わせる。しかし、本人に言わせると、《『田園』は自分がミュージシャンとして歌いたいことをストレートに歌詞に書けて、こういうメロディを作りたいなという気持ちをパッと表現できた最初の曲》であったという(同上)。これに対し、それまでの安全地帯のヒット曲には有名になりたいと願ってつくったものが多かったということらしい。
軽井沢から東京に拠点を移した
これは2005年の発言だが、このころには安全地帯時代の曲を歌うことは少なくなっていた。その理由について当時出演したテレビ番組で問われると、《ソロになってからは、自分でやりたいように、詞も自分で書いてやりたいようにやっていたいっていうのがあって、それがもう10年くらい経ったので、そっちのほうが自然になってきた。安全地帯の曲を歌うと、人の曲を歌ってるみたいな感じがあるんですよね》と答えている(鳥越俊太郎『僕らの音楽 対談集 1』ソニー・マガジンズ、2005年)。この年、玉置はその7年前の1998年に転居した軽井沢とあわせ、ドラマ『あいのうた』への出演を機に久々に東京に拠点を置くようになった。
そもそも軽井沢に移住したのは、40歳を前に東京での生活に疲れ果てたためだった。住み始めた当初こそ、鳥の声で目覚めたりする毎日に充実感を抱きながら、ゴミを拾って集めるなど“いい人”になろうと努めていた。しかし、そのうちに音楽ができなくなってしまったという。2001~03年には約10年ぶりに安全地帯の活動を再開したものの、そのあたりから何をやっても不安という状態になってしまう。ソロに戻ったら大丈夫かもしれないと思ったが、不安は消えなかった(『婦人公論』2005年2月22日号)。
「精神的に病んでしまって」気づいたこと
《「もっと人としていいことしよう」と考えて、(中略)そうしていたら、音楽ができなくなってしまったんです。(中略)なんだか精神的に病んでしまって。で、気がついたんです、子供の頃から好きだった音楽を、好きなようにやるのが一番なんだって。「いい人間になろう」なんて考えるのはやめよう、他人に何を言われようと、オレはいい歌を歌えばいいんだ、と》とのちに玉置は明かしている(『Men's EX』2010年7月号)。
「とにかく安全地帯をやろう」と思い立った
こうして2009年には軽井沢から引き払い、東京へ完全に戻った。直接のきっかけは、やはり軽井沢に住み、親交のあった先輩ミュージシャンの加藤和彦が亡くなったことだという(『週刊朝日』2013年12月13日号)。この年にはまた、玉置と同い年のマイケル・ジャクソンも亡くなり、《「これは大変なことになったぞ、参ったな」と思いながら、「オレもやんなきゃ」みたいな感じが出てきたんです。それで「とにかく安全地帯やろう」》と思い立ち(『Men's EX』前掲号)、同年秋にはレコーディングに着手する。こうして翌年、シングル「蒼いバラ」「オレンジ」、アルバム『安全地帯XI ☆STARTS☆「またね…。」』、さらに過去のヒット曲を新たに録り直したセルフカバーアルバム『安全地帯 Hits』をあいついでリリースした。
『安全地帯 Hits』ではまず「ワインレッドの心」を録り直したが、メロディはそのまま、コーラスも原曲のものを一部残した。玉置は25歳の自分と“共演”したのが面白くなり、ほかの昔のヒット曲もカバーすることにしたという。その少し前まで自分の曲とは感じられなくなっていた安全地帯の曲も、彼からするとこれを機に取り戻し、気持ちも新たに歌えるようになったということだろう。歌い方も、若い頃はビブラートをかけて歌っていたのがじつは気に入らず、このころには飾らず真っ直ぐ歌うよう改めていた。
このときの安全地帯の再結成は本格的なものとなり、現在まで続くことになる。そのなかで一昨年の2022年にドラムの田中裕二が亡くなり、玉置たちは喪失感を抱きながらも、この年暮れの紅白歌合戦に安全地帯として37年ぶりに出演した。
歌を歌うために生まれてきた
これと並行して玉置はソロ歌手として2015年よりフルオーケストラの演奏によるコンサートツアーを毎年開催し、今年で10年目を迎えた。そのツアーのファイナルを飾った大阪・万博記念公園でのライブの模様は、先月末、NHK総合テレビで放送された。同番組では、ツアー中に玉置が現在の夫人の青田典子とともに、公演で訪れた沖縄・長崎・広島でそれぞれ平和への祈りを捧げる姿も追っていた。
安全地帯を本格的に再始動したころ、玉置は自分にとって歌うことは「天命」だとして《歌を歌うために生まれてきた人間なので、歌手になりたいと思ってがんばっている人たちとは違うので、なんて言ったらいいのかな……僕の歌でみなさんがいい恋をしてくれたらなといつも思っています》と語っていた(『ミセス』2010年6月号)。ほかの人が言えば傲慢に聞こえてしまいそうな言葉も、玉置なら許せる。今年のオーケストラとのコンサートで掲げたテーマである「愛と平和」も、彼が言うとちっとも噓っぽくない。それも、音楽にひたすらに純粋に向き合おうとする姿勢を持ち続けているからこそだろう。
(近藤 正高)
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