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羽田とも成田とも…“ナゾの空港直結町”「逗子」には何がある?

文春オンライン / 2024年9月16日 6時0分

羽田とも成田とも…“ナゾの空港直結町”「逗子」には何がある?

羽田とも成田とも…“ナゾの空港直結町”「逗子」には何がある?

 東京の空の玄関口といえば、羽田空港か、もしくは成田空港か。どちらにしても、降り立った人はバスか電車で都心に向かう。バスだったら、という話はここでは横に置いて、空港から電車に乗ったらどうなるか。

 羽田空港にはモノレールと京急線の2路線が乗り入れているが、京急線だったらその行き先は、成田空港か印旛日本医大、はたまた、逗子・葉山である。東京都心を目指すなら、成田空港行き・印旛日本医大行きのどちらかだ。逗子・葉山行きの電車は川崎や横浜に向かう人にとってありがたい。

 成田空港に目を向ければ、こちらもJRと京成線の2路線が乗り入れる。都心からやや離れていることもあって、成田空港の電車は特急が中心だ。京成線は京成上野駅に向かう特急スカイライナー、JRなら成田エクスプレスが走っている。特急を避ければどうなるかというと、JRの普通列車はこれまた逗子行きの電車をよく見かけることになる。

 つまり、羽田だろうが成田だろうが、空から首都圏にやってきたとき、どちらの空港からも逗子という町を目指す電車が走っている、ということになる。いうなれば、空港直結のナゾの町。さすがにそれぞれの空港から逗子まで乗り通す人はあまりいないとは思うが、いったいどんなところなのかは気になるところである。

羽田とも成田とも…“ナゾの空港直結町”「逗子」には何がある?

 ……などと、大仰にはじめてみたが、首都圏に暮らす人なら知っている。逗子といったら逗子海岸、海、湘南だ。夏の逗子海岸は海水浴やウインドサーフィンを楽しむ人たちで大賑わい。京急線の逗子・葉山駅の名前から察することができるとおり、近くには葉山という町もあって、まあとどのつまり夏のリゾート地、というわけだ。

 が、それで終わってしまってはいくらなんでもつまらない。それに、逗子駅と逗子・葉山駅の間を歩いて乗り換えたことは何度かあるが、きちんとこの町を歩いたことはない。どんな町なのか、改めて歩いてみることにしよう。

トンネルをいくつも抜け、鎌倉を過ぎてしばらくすると見えてきた

 逗子駅まで走っているのは、横須賀線だ。逗子にたどり着くひとつ手前には、古都・鎌倉がある。鎌倉も逗子も、おおざっぱにいえば神奈川県南東部、三浦半島の付け根にある町だ。

 このあたりは、とにかく山だらけだ。山といっても仰ぎ見るような高峰ではないのだが、それでもまともに開けた平地はごくわずか。そのひとつが鎌倉であり、逗子である。

 おかげで、横須賀線は大船駅を出てから終点の久里浜駅まで、短いトンネルを出たり入ったりを繰り返す。鎌倉駅と逗子駅のあいだにも、短いトンネルがある。鎌倉から三浦半島まで通じていた鎌倉七口のひとつ、名越切通のほんのすぐ近く。県道311号線も並んでおり、昔もいまも人の通り道は同じようなところにできるのだ。

 トンネルを抜けると、ほどなく逗子駅だ。横須賀線そのものは、さらに横須賀や久里浜まで走っているが、都心方面からやってくる電車はだいたい逗子駅が終着になっている。横須賀や久里浜には京急線も通っているから、そちらを使ってください、とでもいったところだろうか。だから、逗子駅は都心方面から見た横須賀線の事実上の終着駅になっている。

 そんな逗子駅は、構内こそ広くて線路が何本も通り、東側には車両基地も持っている。ただし、駅としては実にシンプルだ。

 南側に開けた市街地に向かって駅舎がひとつ。すぐに山が迫る北側にも出口はあるけれど、ただ出入りができればいいというくらいのものにすぎない。駅舎は小さくても、ソバ屋にベックスコーヒーと、ひととおり揃っているから、それなりに要衝のターミナルらしい雰囲気は保たれているようだ。

 駅前広場に出ると、さすが湘南、空は真っ青に澄み渡り、太陽がさんさんと。ほんのりと磯の香りもするような、しないような……。

 大きな駅前広場にはたくさんの人が行き交っていて、金融機関からファーストフード、ほかにも飲食店の類いを中心にいくつも店が取り囲む。この活気に満ちているあたりも、夏の終わりの湘南らしさ、なのでしょうか。

「逗子」と「逗子・葉山」は200mほどの距離。ただ…

 逗子の町のもうひとつのターミナル、京急線の逗子・葉山駅は、直線距離で約200mほど南東側にある。賑やかな駅前広場の先の交差点を渡って、鶴岡八幡宮……もとい、亀岡八幡宮の脇を抜けていけばすぐに着く。

 脇には逗子市役所の立派な市庁舎が建っていて、駅舎にもドトールコーヒーをはじめとする店舗がいくつか。駅の規模としては、逗子駅にも引けを取らない存在感といっていい。

 が、この逗子・葉山駅、だまされてはいけません。逗子駅に近い北口から改札に入っても、ホームまでは線路を跨ぐ長い陸橋を歩かねばならない。

 京急逗子線の終点である逗子・葉山駅は、線路の端っこが途切れる正真正銘の終着駅。その線路の先っちょは駅の南にあるのだが、北口の改札から南の端っこまではだいたい250mくらいだ。つまり、逗子・葉山駅という駅は、北から南まで細長~い駅なのだ。なんだか不思議な終着駅である。

海に向かって延びる商店街を抜けると…

 そして、このふたつのターミナルに挟まれて、逗子の町の市街地が広がっている。やはりこの町は、駅というよりは海が中心になっている町なのだろう。

 おかげさまで、ふたつの駅の中間辺りから海に向かって逗子銀座通りという商店街が延びている。まずこの駅にやってきたならば、この商店街を歩くのがわかりやすそうだ。きっと、ずっと歩いてゆけば海が見えてくるんでしょう……。

 ところが、期待は裏切られた。逗子銀座通りはほどなく県道311号にぶつかってどん突き、終わりを迎える。県道311号沿いも賑やかな市街地であることには変わりないのだが、海はまだまだ近くなさそうだ。どうしても海が見たければ、県道を少し南に歩いてシンボルロードと呼ばれる小さな道をさらに西へ、西へ。

 ちなみに、シンボルロードは逗子・葉山駅の北口付近まで続いている。京急線でやってきた方が、迷わずに海にたどり着ける構造なのだろうか。

 ともあれ、シンボルロードを進んでゆくと、市街地の喧噪から少しずつ遠ざかってゆく。細い道沿いには大きなお屋敷が並び、どちらかというと閑静な住宅地。ところどころにある飲食店も実に小洒落た雰囲気で、若者がはしゃぎにやってくるような店とは違っている。

海水浴場が開かれたころの目的は「病気療養や保養」だった

 逗子という町の、ただの夏のレジャーの町とはひと味違う個性が、この道を歩くだけでも充分に伝わってくるようだ。そして、シンボルロードを歩くこと10分弱。逗子駅前からだったら20分もかからずに、海にやってくる。海沿いを通る国道134号の下を潜ると、いよいよ逗子海岸だ。

 逗子海岸は、北と南を小高い丘に囲まれた、ちょっとした湾のようになっている海水浴場だ。おかげで波も穏やからしく、ウインドサーフィンにはうってつけなのだとか。

 海沿いの国道を歩いて海岸の南にある田越川河口近くの橋までやってきたら、サーフボードに乗って川をゆらりゆらりと流れてくるサーファーの姿もあった。この町では、それほど珍しい光景ではないのだろう。

 逗子海岸が海水浴場として開かれたのは、明治時代の半ば頃。この時期の海水浴は、いまのようなレジャーとは本質的に違い、むしろ病気療養や保養が目的とされていた。だから、海水浴場の多くは医師によって最適な地として紹介されることにはじまっている。

 逗子海岸も例外ではなく、陸軍軍医でのちの日本赤十字社社長の石黒忠悳さんが紹介したのがきっかけだとか。少なくとも、その頃の湘南は太陽の日差しもいまほど強くなく、冬になっても温暖で、病気療養に適した土地だったのだろう。

 そんな理由もあってか、逗子の隣町の葉山には1894年に葉山御用邸が設けられている。病弱だった嘉仁親王(のちの大正天皇)の保養地として建設されたのだという。また、逗子の名を広く知らしめることになった徳冨蘆花の『不如帰』でも、主人公の浪子は結核の療養で逗子に赴いている。

「静養の地」の開発は進み、戦前にはすでに「リゾート」へ

 明治時代の終わり頃からは、だんだん別荘地としても開発が進んでゆく。横須賀線で繋がっている横須賀が軍港として発展しており、政界や軍関係の要人たちにとって逗子は別荘地として都合のいい場所だったのだろうか。

 日露戦争は日本海海戦での“東郷ターン”でおなじみの東郷平八郎も逗子に別荘を持ち、日露戦争後にはその別荘で祝勝会が開かれ、それを機に逗子海岸を東郷浜と呼んでいた時期もあったとか。

 1926年には、長らく逗子のシンボルになる逗子なぎさホテルがオープンし、ますます別荘地、リゾート地としての色が濃くなってゆく。ただし、戦前にあってはいまのように庶民が気軽に足を運べるようなリゾート地とは少し違っていたことはまちがいない。

 逗子駅は、この町がリゾート地として発展するよりも前、1889年に開業している。大正天皇が葉山御用邸で崩御すると御霊柩列車が逗子駅から原宿の宮廷ホームまで運転された、というエピソードも残る。

 対する京急は1930年に開業した。そのときは湘南逗子駅と名乗っていたが、この“湘南”は地域名ではなく、当時の湘南電気鉄道という社名を取ったものだろう。

戦時中に廃止された駅も終戦3年後に復活…あの「妙に細長い構造」の駅ができるまで

 湘南逗子駅は、いまの逗子・葉山駅にたどり着くまでにだいぶややこしい変遷を経験している。

 開業翌年には線路を400mほど海に向けて延伸し、南端に湘南逗子葉山口乗降場を設けた。これは、逗子海岸へのリゾート客が増えてきた時期であり、そのお客の輸送を当て込んだのだろう。

 1942年には、戦時中ということで湘南リゾートなんてもってのほかの時代になったからなのか、葉山口乗降場は廃止されてしまう。しかし、戦争が終わって3年後には再び延伸、葉山口乗降場は逗子海岸駅という新しい終着駅として復活する。

 1985年には開業時からの駅と逗子海岸駅を統合し、中間付近に現在の駅が完成。当時は新逗子駅と名乗り、2020年に逗子・葉山駅に改称している。こうした歴史を顧みれば、妙に南北に細長い構造をしているのは、南北ふたつの近接した駅をくっつけて生まれた駅だから、ということなのだろうか。

 そして、このあたりでさすがに触れておかねばならないだろう。1956年の芥川賞を受賞した、石原慎太郎の『太陽の季節』。

「太陽の季節 ここに始まる」という碑が逗子海岸の南の端に立っていることからもわかるように、逗子海岸は『太陽の季節』の舞台だ。芥川賞受賞と映画化されての大ヒット。それを受けて、“太陽族”と呼ばれる若者たちがいわば聖地として逗子海岸を訪れるようになったという。

海辺の町におきた戦後の「変化」

 この太陽族というのは、海はルールを守って安全に楽しみましょう、というのとはまったく違うタイプの人たちだったようだから、それまではハイソな別荘地だった逗子に暮らす人々も戸惑ったにちがいない。

 ただ、逗子海岸の知名度向上に貢献したのも疑う余地のないところ。そうして一億総中流の時代になって、別荘を持たない庶民でも誰でも、気軽に足を運べる海水浴場へと、逗子海岸は変わっていった。

 いまの逗子海岸は、要人の別荘地らしい厳然とした海辺でもなければ、享楽主義的な太陽族の集まるおっかない町でもない。むしろ規模の小ささゆえか、他の巨大な湘南の海水浴場と比べれば、いくらか落ち着いた、そしてかわいらしい海水浴場といった雰囲気だ。

 かつて逗子なぎさホテルがあった場所はファミレスになっていて、その周りにはマンションなども目立つ。

 ただし、逗子の町のマンションはベッドタウンとしてのマンションというよりは、やはり海を愛する人のためのものなのだろう。大きなサーフボードを立てかける設備もあったりするから、もしかしたら夏場だけやってくるような人をあてこんでいるのかもしれない。

 海から少し離れると、入り組んだ路地のような細い道の両サイドには大きなお屋敷がやっぱり目立つ。このあたりは別荘地のDNAといったところか。そんな路地の中を歩いて、再び駅前を目指す。都市として成立したのが比較的新しいのに、この町の道はくねくねとカーブしたり入り組んだり、迷路のようだ。

 迷路を抜けた先は、県道が横須賀線の踏切を渡る少し南の池田通りという名の交差点。そこから逗子駅に向かっては、線路に沿って「なぎさ通り」という商店街が通じている。こちらも逗子銀座通りに勝るとも劣らない、実に湘南らしい商店街だ。ここまで来れば、人通りも増えていて駅前の空気感である。

 逗子の町は、三方を山に囲まれて一方は海という、小さな鎌倉のような町だ。町全体がちょっと大きな秘密基地のような、そんな愛らしさもある。

 今年の夏も、もう終わりだ。逗子海岸では店じまいの作業をしている海の家もあった。駅前は活気に満ちて、それでいて賑やかさが勝ちすぎず、路地を分け入って海辺に出ればかわいらしい逗子海岸。同じ湘南、隣町でも、鎌倉とはまた違った魅力に溢れる、海辺の町である。

写真=鼠入昌史

(鼠入 昌史)

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