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「啓介さ〜ん」「お父さ~ん」認知症の妻・大山のぶ代は、闘病中の夫・砂川啓介の病室で声を掛けた

文春オンライン / 2024年10月6日 6時0分

「啓介さ〜ん」「お父さ~ん」認知症の妻・大山のぶ代は、闘病中の夫・砂川啓介の病室で声を掛けた

大山のぶ代氏 ©文藝春秋

おしどり夫婦として知られた、大山のぶ代さんと砂川啓介さん。砂川さんは2017年に亡くなったが、その時、認知症が進行していた大山さんはどのような反応を見せたのか。

 

長年のマネジャーである小林明子氏が語った記事「 大山のぶ代は夫 砂川啓介の棺に涙ぐんだ 」(2017年9月号、「文藝春秋 電子版」掲載)を、文春オンラインの特集「家族と病」にあわせて一部紹介します。

◆◆◆

支え合って生きてきた2人

 私は過去約30年、大山以外の俳優を担当したことがありません。砂川さんは大山が体調を崩すまで別の事務所に所属していたのですが、北海道駅弁の旅とか茨城へアンコウを食べに行く番組など、夫婦で出演する仕事には昔から私が1人で付いて行きました。

 それはもう、仲のいい夫婦でした。たとえば地方の仕事を終えて帰る新幹線の中から、大山は必ず砂川さんに電話をかけます。

「いま乗ったから、何時に着くから。今日は何? あ、そう。大根と何とかなんだ」

 と話しているのを聞いて、「あ、ご主人が晩ご飯作って待ってるんだな」と。もともと大山は料理が得意で、五十の手習いみたいな形で砂川さんに教えたんです。ところが砂川さんのほうが上達して、板長さんみたいになりました。砂川さんの料理は本当に美味しいですよ。2人とも工夫して新しいレシピを作るのが好きで、共著で料理本も出したほどです。『ドラえもん』で忙しくなった大山の代わりでもあったので、複雑な思いもあったでしょうけど、割り切っていました。

 砂川さんは亭主関白ですから、大山は常に一歩も二歩も引いて、ご主人を立てていました。3歳年上ですが、いつも「啓介さん、啓介さん」。何を言われても「はい、はい」。本当にご主人第一なんです。砂川さんがライブをやるときには、お友達に「来てくれる?」と声をかけてチケットの手配をしたり。そんなことを、砂川さんには見せないようにやっていました。

 ちなみに砂川啓介は芸名ですが、大山はいつも「啓介さん」と呼びます。

《砂川さんの著書に、こんなエピソードがある。夫婦で出席したパーティーで、芸能レポーターが言った。
「大山さんがドラえもんでしっかり稼いでくれるから、左団扇でしょ?」
 砂川さんは内心で腹を立てたが、苦笑いでごまかした。そのとき別の人と話し込んでいた大山さんだったが、あとでスピーチに立つと、
「砂川家の家計は、すべて啓介さんのお給料でまかなっているんですよ」
 と、やんわりレポーターにくぎを刺したという。
〈“男のプライド”を、しっかりと理解してくれる賢妻・大山のぶ代。僕は、彼女に頭が上がらなかった〉》

本当にお互いに支え合って生きてきた2人

 東京オリンピックの年に結婚して53年ですから、長い歴史です。「人」という字は支え合ってできている、というじゃないですか。あのご夫婦を見ていると、本当にそんな関係だと思います。どちらがいなくても、倒れてしまう。生まれたばかりの娘さんを亡くしたあとは子どもがいなかったせいもあって、本当にお互いに支え合って生きてきた2人です。

 離れ離れに暮らし始めてから砂川さんが亡くなるまでのこの1年3カ月を振り返ると、いっそうそんな思いが強くなります。

 去年4月、砂川さんの尿管がんが見つかりました。検査の結果、手術ができない場所でしたが、進行性ではないというお話で、放っておいたらどのくらい、という説明もありませんでした。「抗がん剤と放射線でやりましょう」と言われ、入院することになりました。

 そうなると、大山の在宅介護はできません。急いで施設を探し、幸い自宅の近くで1部屋だけ空きを見つけて、すぐ契約しました。大山がそこへ入居したのと、砂川さんの入院は同じ日でした。

 抗がん剤と放射線治療で入院するたび、私が荷造りをして、「じゃあ、行きますよ」と付き添います。抗がん剤を入れ、何週間かあとに血小板の数値を測る。よくなっていなければ、また入院。その繰り返しが、この1年で15回ぐらいありました。抗がん剤をやると数値が少し戻るので、そのタイミングで医者に相談しながら講演の仕事などをやっていました。

 副作用がきつくて、気持ち悪さを和らげる吐き気止めの点滴を入れるのですが、それでも食欲がなくなります。ところががんは小さくならず、抗がん剤が効いているのかいないのか、砂川さん自身は実感できません。

 医者からすれば「現状維持できているのは、薬が効いているから」となるわけですが、本人は「こんなに苦しい思いをしているのに、なぜ小さくならないのか」とショックです。去年の11月ぐらいから体力も少しずつ落ち、何より本人の「頑張ろう」という気持ちが萎えてきて、「もう絶対やりたくない」と言って、抗がん剤を先延ばしするようになってしまいました。

病室へ来て「啓介さ〜ん」

今年6月13日、自宅で倒れている砂川さんを見つけたのも、小林さんだった。》

 肺に溜まった水を抜くために3週間ほど入院して、6月9日に退院したばかりでした。あの日は携帯に電話したら出なかったので、最初はトイレかなと思ったんです。5分ぐらいしてかけ直したら、また出ない。ん? と思って、ご自宅の固定電話にかけたら、やっぱり出ない。なんとなくイヤな予感がして、急いで行ってみました。鍵を開けて中に入ったらソファーに座ったまま寝込んだような姿で、意識がなく、呼びかけて揺すっても返事がありません。退院後はずっとボンベの酸素を吸っていたのですが、それをやっていなかったので鼻にかけてみたら、ようやく「う〜ん」と反応がありました。

 酸素が欠乏したために意識を失ったようです。でも救急外来に運ばれたときは、顔なじみの呼吸器科の先生がいたから「こんにちは」と言ったそうです。夜にはパチッと目が開いて、「あっ、ここは?」という感じでした。

「お昼に何食べたか憶えていますか?」と訊いたら、

「うん、サトイモ」と言って、

「その後、憶えていますか?」と訊くと、

「その後はちょっと……」。記憶が飛んでいました。

 次の日には、「今日は神経内科の先生が診察ですよ」「いつ来るんだ?」と、普通に会話できるようになりました。

 それでも波があって、ずっと寝ているときもあります。なるべくなら目が開いているときに大山を連れて行きたかったのですが、なかなかタイミングが合いません。病室へ来た大山が「啓介さ〜ん」とか「お父さ〜ん」と声をかけると、パチッと目が開いたときもありました。ところが、何にもしゃべらないんです。

 大山はずっと「啓介さん」だったのに、なぜか去年くらいからたまに「お父さん」と呼ぶようになりました。砂川さんはそれが大嫌いで、「俺はお前のお父さんじゃないよ」と言ってたんですが(笑)、このときは何も答えませんでした。

 抗がん剤治療で何度も入院したときには、大山をお見舞いに連れて行くと「ああ、来たか」という感じで、一緒に相撲を観たりして、やり取りにならない会話をしていました。ところが今回は、砂川さんはしゃべりもしないし、目を開けていても、大山をあまり見ないのです。いつも頼りになる砂川さんでいたから、弱って寝たきりになっている自分を見せたくなかったのか。

 大山は、砂川さんが病気だということは感じたと思います。「大丈夫?」とか「頑張ってー」と言っていましたから。何回か行っているうちに、けっこう重病で、いつもと雰囲気が違うのは感じ取る部分があったかもしれません。涙ぐんでしまうときもあって、「大丈夫だからね」と私が声をかけると、「うん」と頷きます。それでも病室を出た途端、忘れてしまうんですけれども。

 だから入院中は、お二人に会話はありませんでした。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「 大山のぶ代は夫 砂川啓介の棺に涙ぐんだ 」)。

(小林 明子/文藝春秋 2017年09月号)

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