87歳の母は「もう死んじゃろうか思うわ」と…実家に帰ると洗濯機から膨大な量の汚れ物が「うわあ、くさいねえ」
文春オンライン / 2024年10月19日 11時10分
『ぼけますから、よろしくお願いします。』(新潮文庫)
「今年はぼけますから、よろしくお願いします」。当時87歳の母は、娘に突然宣言した。フリーの映像ディレクター・信友直子さんが監督を務め、広島県呉市の実家で暮らす認知症の母と耳の遠い父を撮り続けたドキュメンタリー映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』は2018年に異例の大ヒットに。同名の信友さんの著書( 新潮文庫 )から一部を抜粋して紹介する。(全4回の1回目/ #2 に続く)
◆ ◆ ◆
「娘が撮った母の認知症」
2016年3月、東京。両親のことを今まで撮ってきた映像を元に、フジテレビの情報番組「Mr.サンデー」で『娘が撮った母の認知症』という特集を作ることが、正式に決まりました。
まず、今までに撮った映像を見返してみると、二人暮らしの両親がどんな日常生活を送っているかがわかる映像が、圧倒的に足りないことがわかりました。考えてみれば当然のことです。私が帰省すれば私が家事をすることになるので、もうその時点で両親二人の普段の生活ではないですから。普段、二人だけのときはどうしているのか?家事はどっちがやっているのか?実はそれまで、私もよくわかっていませんでした。
私は初めて、娘としてではなくディレクターの視点で、実家の様子を観察することにしました。とりあえず何日か、娘としてはできるだけ手を出さないようにして、カメラを回してみたのです。驚いたのは、父が母に代わって、さまざまな家事を始めていることでした。
――まあ、それはおいおい書いていくとして、まずは「私が洗濯しないことにしたら、両親に何が起きたか」の観察記録を……。
洗濯をすると言いつつしない母
洗濯物は、母がさぼりがちなので、私が帰省するといつも洗濯機の中いっぱいに溜まっています。いつもは、母が寝ている間に私がこっそり洗濯していました。母が起きているときにしようとすると、すぐに気配を察知して、
「お母さんがするけん、放っとって」
と止めにかかるからです。うちの洗濯機は昔懐かしい二槽式で、洗濯には母なりの細かい手順があり、私のやり方では水を使いすぎだと母のお気に召さないのです。
最初のうちは私も母の言葉を真に受けて、
「ほうね、ほんならお母さんがしんちゃいよ」
と譲っていたのですが、母はするけん、するけん、と言うばかりで一向に取りかかりません。だからと言って、あまりやいのやいの言うと、
「お母さんも忙しいんじゃけん、ちょっとぐらいは休ませてや」
と不機嫌になるし。私は「何が忙しいんね?ずっと休みよるくせに」と言いたいところですが、そこはグッとこらえて待つしかなく、そうこうしているうちに私が東京に戻る日が近づき、もう待ってはいられないと問答無用で洗濯機を回すことになるので、母がますます、
「いらんことせんでええ言うたじゃろ!そんなに水を出しっ放しにしとったら、水がもったいない」
と機嫌を損ねる。そういう消耗戦が何度かあったので、私も最近は知恵をつけて、母が寝ている早朝のうちにこっそり洗濯を済ませてしまうようになっていました。
でも今回は、私は敢えて手を出さないことにしました。一体どうなるのか……。
怖いもの見たさで、ちょっとワクワクするような気もします。
口癖のように「死んじゃろうか」と…
帰省すると、いつものように私のいなかった2週間分の洗濯物が、洗濯機の中に隠されていました。ふたを開けたらすごいにおい。
「あーあ、溜まっとるねえ」
と指摘すると、母は、
「ずっと天気が悪かったけんね」
サラッと口から出まかせの言い訳。いやいやずっと天気はよかったはずよ、お母さん。
父が、
「ほうなんよ。わしゃあ洗濯機が腐りゃあせんか思うわ」
と冗談を言うと、母はとたんにご機嫌斜め。
「お父さんはすぐ、ああなことを言うて。もう死んじゃろうか思うわ。私が横着しよるようなことばっかり……。まあ実際、横着しよるんじゃろうけどねえ」
と、一人でボケツッコミです。
この少し前から、母の口からは口癖のように「死んじゃろうか」という単語が出てくるようになっていました。何か気に入らないことがあったり、自分の落ち度を咎められていると感じたりすると、すぐに「死んじゃろうか」と言うのです。昔の、快活で思いやりのある母なら、絶対に出ないワードです。最初はその単語の響きにドキッとして、いちいち悲しくなっていましたが、人間、どんなことでもそのうち慣れてくるもので、私ももう日常会話の一環として受け止められるようになっていました。
実際このときも、母は「死んじゃろうか」と言った次の瞬間には、
「あんた、ここへ糸くずがついとるよ」
と、私の服についた糸くずを取ってくれましたし。母の頭の中では、娘の身だしなみを整えてやる母の顔と、自分がこの家で役に立たなくなったから消えてしまいたい、という絶望とが、混然一体になって同居しているのです。
結論から言うと、この日は結局、母は洗濯機を回す気になってくれませんでした。
洗濯機から汚れ物が…「うわあ、くさいねえ」
私からせっつかれてしぶしぶ、洗濯機から汚れ物を取り出して、床にばらまいてゆく母。汚れた衣類は、手品かと思うほど後から後から出てきます。
「うわあ、くさいねえ」
そのにおいと膨大な量にやる気をなくしてしまったのか、
「私もねえ、たいぎいんじゃ。ほんまのとこはね」
そう言いながら、母はなんと、廊下一面に広がった洗濯物の山の上に寝転がってしまったのです。そしてそのまま動かなくなってしまいました。
「えー、お母さん、そこに寝るんね?」
私は混乱しました。目の前の光景に、というより、その光景を目にした自分の中から湧き上がってくる、相反する二つの感情に、混乱したのです。
それは、初めて体感した、娘としての自分と、ディレクターとしての自分の感情のせめぎ合いでした。娘としては、母のこんな痛々しくてだらしない姿は、恥ずかしくてとても人様にお見せできるものではありません。でも、ディレクターとしては、これは凄い映像です。こんなにリアルでインパクトのある映像はなかなか撮れないぞ!私はカメラを回しながら、興奮が抑えられなくなっていました。
いろんな思いが頭の中をグルグルと駆け巡ります。母がこんなあられもない姿をさらしているのに、私は何で手を差し伸べようともせずにカメラを回しているんだ?なんてひどい娘だろう。自分自身でひどいと思っているくらいだから、世間の人もきっとひどいと思うだろうな。これを番組で使ったら炎上するかもしれないな……。
でも、そう思いながらも、ディレクターとしての私はやはり、「よっしゃ!ドキュメンタリーの神様が来たぞ!」(これは私の口癖)とばかりに、目の前の異様な光景にロックオンし、我を忘れて撮影し続けていたのです。いやはや、業が深いというか、娘としては本当に恥ずかしい限りです。
〈 90代の父は母の異様な寝姿にギョッとするだろうか? 認知症になった80代の母を前に父が放った“意外なひとこと” 〉へ続く
(信友 直子/Webオリジナル(外部転載))
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