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「血管が破裂すれば死に至る」大手術→“奇跡の生還”から間もなく…“銀幕スター”石原裕次郎はなぜ病院の屋上に姿を現した?

文春オンライン / 2024年9月30日 11時10分

「血管が破裂すれば死に至る」大手術→“奇跡の生還”から間もなく…“銀幕スター”石原裕次郎はなぜ病院の屋上に姿を現した?

石原裕次郎 ©︎文藝春秋

 1981年6月21日、東京・信濃町の慶応病院前には、報道陣やファンなど大勢の人でごった返していた。

 彼らが見つめるなか、屋上では石原プロモーションの常務、金宇満司が「始まりますよー!」と白いハンカチを振る。数分後、ゆっくりと渡哲也、妻のまき子夫人を伴い、ワイン色のナイトガウンを着た石原裕次郎が登場。病院前は、大きなどよめきと歓声、拍手に包まれた。

 この名場面から遡ること、約2か月、石原裕次郎は「西部警察」のロケ中に、背中と腰に激痛を訴え倒れた。病名は「解離性大動脈瘤」。心臓近くの大動脈の内側が裂けていき、そこから血液があふれ出る。そのまま血管が破裂すれば死に至るという逼迫した状態であった。

 手術の成功率は3~5%。まさに生死をかけ、実に6時間33分の大手術を乗り切り、裕次郎は奇跡の生還を果たした。この屋上の異例の撮影会は、入院76日目、彼にとって久々に許された散歩だった。その貴重な時間をマスコミ公開に使うとは、まさに規格外の発想である。(全3回の1回目/ #2に続く )

◆ ◆ ◆

手術成功、熱狂のワイドショー

 大きな歓声を受け止めるように、集まった多くのマスコミ、ファンにゆっくり大きく両手を振り、Vサインを掲げる。その様子はヘリコプターによってとらえられ、ワイドショーがこぞって放送した。

 当時はSNSこそまだなかったが、テレビ東京以外は、午前と午後に生放送のワイドショーがあり、情報発信していた。石原裕次郎の世紀の生還も、民放各局がリアルタイムで映像を流し、日本中が「おかえり! 裕ちゃん」と熱狂したのである。

 裕次郎が入院をしたのは4月7日。当時、裕次郎率いる石原軍団は、熱い正義感と不屈の精神力を持つ男たちの集団として、絶大なる人気があった。

 そこで、石原プロモーションは、世間への影響力、裕次郎の絶対安静の症状に鑑み、入院の時に仮名を使うなどし、隠していた。

 しかし、マスコミが嗅ぎつけるのに時間はかからず、4月29日に記者会見を行うことになった。これには100人近くの報道陣が集まり、石原プロの小林正彦専務だけでなく、主治医の井上正心臓外科教授も出席。病状と手術についてマスコミに説明している。

成功率3~5%という絶望的な数字

 手術当日の5月7日には、実に、慶応病院前に500人の報道陣、40台以上のテレビカメラが集まり、日本中が「ボス」の手術成功を、かたずをのみ見守ったのである。

 成功率3~5%という絶望的な数字の緊張感、切迫感は、兄の石原慎太郎の、なりふり構わない行動からも見て取れる。

 知らせを聞いた慎太郎は、当時私用で滞在していた小笠原諸島・父島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京。これは公私混同として、世間から激しいバッシングを受けたのである。

  当時の日刊スポーツ には「民間機を八方手を尽くして探したがなく、防衛庁に問い合わせたら、たまたま訓練飛行があったにすぎない。代議士は『とにかく死に目に会いたい』という気持ちでいっぱいのようでした」という、慎太郎の秘書のコメントが掲載されたという。

 手術の翌日、多くの新聞が5月8日には「手術成功」「タフガイ勝った」と、大きく掲載。裕次郎の手術チームの一人には、のちにアジア人女性宇宙飛行士第一号となった向井千秋がいたのは有名な話である。

 彼女は、裕次郎が麻酔から覚め、チューブを抜かれた第一声を聞いていた。

「ああ、先生、大海原をさまよっている感じがしてましたよ」

 この言葉に、「ヨットマンらしくて、なんかロマンチックな人だなあと思った」と印象を語っている(「日本女性初の宇宙飛行士―向井千秋氏|一流に学ぶ」時事メディカル)。

 ただ、この手術は、あくまで救命手術。心臓を出たところから大動脈が裂けていくこの病気、裕次郎のそれは、脚にまで及ぶものだったのである。当時の技術で根治手術は難しく、最も危険な部分だけを切り取り、あとは解離しっぱなしだった。

規格外の「お見舞い」

 裕次郎の入院期間中は約4か月、129日に及んだ。そしてその間、病院には数多くの見舞客が訪れ、ファンからの応援の手紙や電話も、ひっきりなしに届いたという。 

 見舞客延べ1万3000人、手紙7500通、千羽鶴2180連――。病院の駐車場にとめられた石原プロのバスの車体には、ファンからの応援メッセージが油性ペンでぎっしりと書かれた。

 余談ではあるが、石原裕次郎が手術を受けた後「ポカリスエットが飲みたい」と筆談で懇願し、兄の慎太郎が記者たちにそれを話したことで、その日からポカリスエットの売上が急増した、という逸話もある。

 すべてが規格外。日本中の祈りがエネルギーと化し、裕次郎に集められ、彼もその力を借りるように回復していき、6月30日には、特別個室から一般病室に移った。

 現代では考えられないことであるが、マスコミは入院中も彼を追いかけた。フジテレビのワイドショー「3時のあなた」は、屋上にて日光浴をする裕次郎にインタビューを敢行している。

 世間はこの奇跡の生還の報道を通し、テレビドラマで彼が演じる、絶対なる「ボス」のイメージと重ね、応援する。そして、その思いに石原裕次郎自身も応えようとし、彼の入院そのものが、一つのコンテンツとなっていた。

 そして9月1日、ついに退院。

「人さまから今回のことでも『強運な男』と言われる私です。私自身はその逆で、なんでこのように周期的につまらない病気にかかるのかと、不運に舌打ちしたくなる思いにかられます」

 石原裕次郎が記者会見で語ったこの言葉通り、彼は昭和という時代において、誰よりも強く、誰よりも強運であった。が、同時に、常に病やケガと戦う壮絶な人生でもあった。

〈 妻は「見ているだけで気が狂いそうだった」石原裕次郎は“がん発覚”で痛みに苦しみ…ただ一人告知を考えた“ある人物” 〉へ続く

(田中 稲)

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