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妻は「見ているだけで気が狂いそうだった」石原裕次郎は“がん発覚”で痛みに苦しみ…ただ一人告知を考えた“ある人物”

文春オンライン / 2024年9月30日 11時10分

妻は「見ているだけで気が狂いそうだった」石原裕次郎は“がん発覚”で痛みに苦しみ…ただ一人告知を考えた“ある人物”

渡哲也(右)らに付き添われて記者会見する石原裕次郎(中央)。1981年8月30日、東京・信濃町の慶応病院 ©︎共同通信社

〈 「血管が破裂すれば死に至る」大手術→“奇跡の生還”から間もなく…“銀幕スター”石原裕次郎はなぜ病院の屋上に姿を現した? 〉から続く

 石原裕次郎のデビューのきっかけは、兄・石原慎太郎の芥川賞受賞作を映画化した『太陽の季節』。当時、日活のプロデューサーだった水の江瀧子の目に留まり、『狂った果実』主役に抜擢。このとき、相手役をしたのが北原三枝で、二人は恋に落ちるのである。

 以降、日活の顔として、90作もの青春映画に出演。日本人らしからぬスタイルの良さと、インテリ不良的なムードで時代をも魅了した。愛称は、タフガイ・裕ちゃん。「嵐を呼ぶ男」など、自ら歌った映画主題歌も飛ぶように売れた。歌手として全国縦断コンサートを初めて行ったのも裕次郎である。

 1963年に「石原プロ」を立ち上げ、映画を製作。途中経営不振に悩まされるも、テレビへと移行する時代の風に乗り、「太陽にほえろ!」「西部警察」が大ヒット。石原プロの俳優は「石原軍団」と呼ばれ、大人気を博した――。(全3回の2回目/ #3に続く )

◆ ◆ ◆

「タフガイ」のニックネームのウラ側で…

 彼に訪れるチャンスは大きかったが、肉体的トラブルがセットだった。

 周囲の猛反対を押し切り、北原三枝と結婚をした26歳のときには、スキー事故で複雑骨折。全治8か月で俳優生命が危ぶまれている。

 その後「俳優は人生の職業にあらず」と、1963年に映画製作を目指し、石原プロモーションを設立。5年後の1968年に、同じく映画プロダクションを設立した俳優三船敏郎とともに、製作費4億円を投じ『黒部の太陽』を作り上げる。

 しかしこの映画のダムの決壊シーンでは、出演者の多くが、420トンの水と石の破片に飲み込まれてしまうトラブルが起きていた。そのなかで一番大ケガをしたのが裕次郎。撮影用ケーブルが身体に絡まり気絶。大量の水を飲み、左大腿部打撲、右手親指骨折。指先の指紋は砕石にこすられ、なくなっていたというからすさまじい。

 苦難を乗り越えできあがった『黒部の太陽』は、観客動員数は約733万人、興行収入は約16億円。この年の国内最大のヒットを記録した。

プロダクションどん底時代、肺結核に

 その後順調だった石原プロだが、1970年、裕次郎が35歳のとき巨額の費用を投じて製作・公開した映画『ある兵士の賭け』が失敗。ハリウッドの俳優を起用したのが裏目に出た。裕次郎目当てのファンの足が遠のいてしまったのである。これで石原プロは、8億円という気が遠くなるような負債を背負い、経営的に苦境に立たされてしまう。追い打ちをかけるように、ここでも彼を病が襲う。肺結核と診断されたのだ。

 8か月の長期療養を余儀なくされ、まさに公私にわたる窮地。しかし、そんなピンチが、ある俳優と裕次郎をつなぐこととなる。のちに石原プロの2代目を継ぐ、渡哲也である。

 渡は、心から尊敬していた石原裕次郎の苦難を知り、「これを役立ててほしい」と全財産180万円(当時のサラリーマン年収4年分)を差し出した。裕次郎が、さすがに受け取れず返したところ、「じゃあ僕を石原プロに入れてください」と申し出て、入社に至ったというからすごい。

 どん底での彼の入社は、精神的にも、経営的にも、かけがえのない支えとなる。単なる上司と部下ではなく、運命共同体として、石原裕次郎と共に生きていくことになるのは、周知の通りだ。大動脈瘤で裕次郎が生死をさまよった際、

「もし、最悪の事態になったら、私も連れていってもらいたい。石原に殉じたい気持ちです」

 と語っている。

 1971年、裕次郎は肺結核が完治。ちょうど、時代は映画からテレビへと移行していた。裕次郎はついに1972年に「太陽にほえろ!」でドラマ進出するのである。

 そして1979年には、派手なカーアクションで視聴者の度肝を抜いた伝説のドラマ「西部警察」がスタートするのだが、その直前の1978年、裕次郎は舌がんを患ってしまう。

 本人には告知されなかったが、その痛みようは、見ているだけで気が狂いそうだったとのちにまき子夫人が語るほど、壮絶なものだった。それでも、舌がんの治療をしながらドラマ撮影は続いた。「太陽にほえろ!」では、セリフを極端に減らして出演している回も見られるが、視聴者にその闘病がまったくわからないほど。

「西部警察」の開始は1979年10月なので、舌がんの痛みをまだ引きずっていたはずだが、彼は撮影現場に行き、持ち前の気力と抜群の運動神経でアクションに挑戦。ドラマのオープニング、オープンカーの運転席に飛び乗るシーンでは一発OKを出しているというからすごい。

「太陽にほえろ!」「大都会」「西部警察」で高評価を得た石原プロは空前のブームを起こし、負債を完済。さらに約30億円に上る資産を築き、再建に成功した。

 しかし安心する間もなく、1981年、46歳で、裕次郎は解離性大動脈瘤で倒れてしまう。これは約6時間半の手術を乗り切り奇跡の生還を遂げたのは 冒頭 に記した通りだ。 

 しかし、ドラマに復帰後も、その裏では、首、腰の痛み、発熱が続き、右耳が難聴に悩まされ続けていた。それでも彼は入院中の日本中の応援を忘れず、「西部警察」日本縦断ロケを敢行。

 そして、奇跡の生還からわずか3年後の1984年3月、検診で肝臓がんが発覚する。

本人に告知するか、しないか

 肝臓がんも、石原裕次郎本人に告知されていない。今でこそ本人へのがん告知は、治療法や支援が増え、それを受けるうえで前提となっている。しかし昭和の時代は、「告知しない」が圧倒的に多かった。厚生労働省の全国遺族調査などを見ると、1990年前後の日本のがん告知率は15%ほどにとどまっている。

 裕次郎の場合、真っ先に病名を知らされたのは、石原プロの小林専務、渡哲也、常務の金宇の3名。彼らの考えは「告知しない」であった。

 小林専務は、

「石原裕次郎がガンと知らされて、“よし、頑張って生きるよ”と言う人ですか? あれもダメ、これもダメと制約されて、“それでも俺、生きていくよ”と言いますか? 言うわけがない」(著:金宇満司『社長、命。』イースト・プレス)

 と強く反対したという。

 小林から、裕次郎ががんであると知らされたまき子夫人も、同じであった。

 ただ一人、告知を考えていたのが、兄の慎太郎である。

〈 肝臓がんで苦しみ抜いた「弟の裕次郎を思い起こさぬわけにはいかなかった」…兄・石原慎太郎が闘病中に明かしていた“本音” 〉へ続く

(田中 稲)

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