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肝臓がんで苦しみ抜いた「弟の裕次郎を思い起こさぬわけにはいかなかった」…兄・石原慎太郎が闘病中に明かしていた“本音”

文春オンライン / 2024年9月30日 11時10分

肝臓がんで苦しみ抜いた「弟の裕次郎を思い起こさぬわけにはいかなかった」…兄・石原慎太郎が闘病中に明かしていた“本音”

石原裕次郎(右)と石原慎太郎(左) ©︎文藝春秋

〈 妻は「見ているだけで気が狂いそうだった」石原裕次郎は“がん発覚”で痛みに苦しみ…ただ一人告知を考えた“ある人物” 〉から続く

 石原慎太郎は、裕次郎と2歳違いの兄弟である。かたや、芥川賞作家から政治家に上り詰めた慎太郎。かたや、昭和を代表する俳優となった裕次郎。

「のぼせて言うわけじゃないけれど、まさに日本が転換期にあった昭和30年代を飾ったのは私と弟(裕次郎)ですよ。それだけの自負がある」

「週刊新潮」のインタビューでこう答え、自身と裕次郎について「時代と一緒に肩を組んで遊んでいる感覚」と表現していた。(全3回の3回目/ #1 、 #2 から続く)

◆ ◆ ◆

兄・石原慎太郎との関係

 誰よりも、裕次郎のスター性を認めていたのは、慎太郎であり、支援もかかさなかった。1968年の「黒部の太陽」では、五社協定の壁により映画製作を断念しかけた裕次郎を助けるため、関西電力に連絡を取り、再びプランを動かした。また、1979年スタートの「西部警察」では、裕次郎に「兄貴さ、中古でいいから2、30台、ぶっ壊していいクルマをもらってくれないか?」と頼まれ、日産の伝手を頼み、調達もしている。「黒部の太陽」再開のときは特に、裕次郎は喜び、慎太郎にこう言ったという。

「俺たち2人で一発ぶっくらわしゃあ、どんなヤツだってダメになっちゃうんだよ」(「石原裕次郎は強くてシャイだった」創刊95周年記念「文藝春秋」2018年1月号)

 しかし、その裏側で、病気、けがに悩まされた様子を、誰よりも見ているのも、やはり慎太郎だった。生まれつき肝臓が弱く、何と高校の頃には、黄疸が出ていた。バスケットでオリンピックを目指していたが、ケガで断念。その後、スターダムに乗ったあとの骨折、肺結核、舌がん、解離性大動脈瘤、肝臓がんと続く。

 名声の影で病魔に取りつかれ、のたうち回る姿を見ていたからこそ、「告知」を考えた慎太郎だったが、小林専務による

「いや、お兄さん、ダメです。あの人はね、あれだけ苦しんできたんだから、『あっ、わかった、それならいいや』って、パッと飛び下りて死んじゃいますよ」(「文藝春秋」鼎談)

 という説得が効いた。

 全員が危惧したのは、裕次郎が自ら命を絶つことだった。

もう一度、映画を撮りたい

 肝臓がん発覚後は、家族、そして石原プロの、裕次郎の生きる希望をつなぐための戦いが始まる。

 裕次郎は、解離性大動脈瘤からの生還の際の、日本中の熱狂を見て、映画熱にもう一度火が着いていた。

「この熱狂を劇場に引っ張っていけないか」

 裕次郎が白羽の矢を立てたのは、倉本聰である。渡たちは、裕次郎の体調から、この企画が実現できないことを感じながら、進め続けてしまった。

 さまざまな条件が重なり、倉本聰は小林専務を通じて断ったが、その後、渡哲也から、巻き込んでしまったことを謝罪され、裕次郎が長くないことを打ち明けられている。このときのエピソードは、倉本聰の著書『破れ星、燃えた』(幻冬舎)に詳しい。

 石原裕次郎は、自身ががんであることを知っていたのだろうか。

 渡哲也は「知らなかったと思いますね。裕次郎さんはとても生きることに前向きで、お医者さんの言うことを守る。それでもなかなかよくならない。気分によっては、わがままな態度もありました。もしがんと知っていたら、多分そんな態度をしなかっただろうと思うんですけどね」

 と特別番組で語っている。

 慎太郎は、インタビューでこう話している。

「彼は知っていた。看取るほうも看取られる方も、騙しあいを演じていたんだね」

「太陽にほえろ!」最終回

 石原裕次郎、最後のテレビ出演は、1986年11月14日、「太陽にほえろ!」の最終回(第718話「そして又、ボスと共に」)だ。

 裕次郎が倒れ長期療養のため欠場し、ボス代理に渡哲也が就任していたが、この回に再び出演できることとなり、そのタイミングで、約15年続いたドラマ自体を終えることになった。

 撮影の日も裕次郎は病床から撮影現場に赴いた。普段は脚本のセリフを一言一句変えない彼が、この日はアドリブを願い出て、語ったのは、命の重さだ。

「ずいぶん、部下をなくしましたよ。部下の命は俺の命。命って言うのは、本当に尊いもんだよね」

 熱演のあと、撮影後はすぐ病院に直行している。

 症状はすでにかなり悪化していた。1987年2月に行われた「太陽にほえろ!」の打ち上げパーティーには裕次郎の姿はなく、彼がせめてと用意した、乾杯の挨拶のテープが流された。

「ご心配とご迷惑ばかりかけっぱなしでした。体調を整えて、また出直します。その節は、また出演者の方と、違う仕事場で、また違う職場で、お会いできることと思います。

 皆様方、本当に長い間、ありがとうございました。遠く、ハワイの空から、私も乾杯させていただきます。『「太陽にほえろ」に、乾杯!』」

 そして、5か月後の7月17日、石原裕次郎は52歳でこの世を去った。

裕次郎の死から10年後…『弟』を出版

 石原慎太郎は、彼の死から約10年経った1996年、私小説『弟』(幻冬舎)を出版。生い立ちから裕次郎の輝かしい活動も記しているが、何よりページを割かれているのは、病との戦いだ。

「弟が苦しむ姿を一番見てきたという自負がある」という思いを強く感じる。

 亡くなってからも裕次郎への想いは「喪失」ではなく、「不在」。本編を書き終えた瞬間、慎太郎は一人で思わずこう呟いてしまったという。

「お前どこでなにをしてるんだ、おい」

 晩年、慎太郎自身がすい臓がん闘病の様子などを綴った手記には、「肝臓癌で苦しみ抜いて死んだ弟の裕次郎を思い起こさぬわけにはいかなかった」とあった(「文藝春秋」2020年7月号)。

 もう一人、その苦しみを見てきたまき子夫人は、結婚して初めてのお正月を迎えた年に裕次郎がスキー中の事故で右足を複雑骨折。そこから、繰り返す病魔を横で支え、奔走する日々だった。

 没後30周年、文藝春秋にて慎太郎と石原プロの金宇常務と行った鼎談では、

「結婚生活は、普通の夫婦の何分の1でしたよ。裕さんが元気なときは、ほとんど仕事に取られましたでしょう。映画に命を懸けていましたから。それ以外は病気ですからね。わたくしは母親か、姉か、看護人か、料理人か」

 と語り、慎太郎も、

「母親だ。あなた、ほんとに母親だった」

 と答えている(前出「文藝春秋」2018年1月号)。

「俺が死んだらプロダクションをたたみなさい」

 8月11日に行われた本葬には、3万5000人が参列。1999年に総持寺で行われた十三回忌法要では、20万人のファンが殺到し大混乱した。そこで、ファンを招いての最後の法事である2009年の二十三回忌では、東京・国立競技場に臨時の総持寺を建てるという規格外の行動に出る。それでも全国から約12万人のファンが訪れ、長蛇の列ができたという。

 石原プロモーションについては、裕次郎は「俺が死んだらプロダクションをたたみなさい」という遺言を残していた。しかし、まき子夫人が所属スタッフや俳優たちに言い出せず、幕を下ろしたのは、石原裕次郎が亡くなって34年後の2021年、1月7日であった。石原プロ解散を公表したのはその前年、裕次郎の命日である2020年7月17日。二代目代表取締役を継いだ渡哲也は、発表から1か月後、8月10日に肺炎で亡くなった。

 日本中のボスとして君臨した石原裕次郎。昭和の夢そのもののような存在だった。石原良純の寄稿「石原裕次郎 いつも何かに耐えていた」(「文藝春秋」2022年1月号)には、こんな文章が綴られている。

「石原裕次郎は、1億人の夢を抱えてしまった人間でした。戦後から高度経済成長期に突入する時代の流れの中で、国民みんなが裕次郎を愛し、ともに歩んできました。(中略)そんな人間は、自分が夢であり続けなければいけないことを分かっている。だから、その夢を壊さないようにブレないし動じない。それが日本中から愛された男の宿命でもあったのでしょう」

(文中敬称略)

(田中 稲)

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