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「自主映画から商業デビュー」大林宣彦監督こそが先駆けだった――恭子夫人が語る大学での出会い、二人三脚での映画づくり

文春オンライン / 2024年10月18日 6時0分

「自主映画から商業デビュー」大林宣彦監督こそが先駆けだった――恭子夫人が語る大学での出会い、二人三脚での映画づくり

©藍河兼一

 いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちには、8ミリ映画を自主制作し、才能を見出され、商業映画にデビューした者たちが少なくない。その先駆けとして時代を切り開いたのが、惜しくも2020年に亡くなられた大林宣彦監督だった。自身も自主映画出身監督である小中和哉氏が聞き手として振り返るインタビューシリーズの第5弾は、当時の大林監督について夫人の恭子さん、長女の千茱萸(ちぐみ)さんに聞いた。(全4回の1回目/ 2回目 に続く)

◆◆◆

 大林宣彦監督のデビュー作『HOUSE/ハウス』を中学3年で初めて観た時は、そのめくるめく映像に衝撃を受けた。その時既に8ミリ映画を撮り始めていた僕は、作り手が映像を楽しんで作っていることを感じ取っていたのだと思う。大林監督が8ミリ自主映画を撮っていたことを知って、親近感を持った。大学生になった頃に大林監督の娘の千茱萸さんと自主映画仲間となり、大林監督はさらに近い存在となった。千茱萸さんから「友だちが作っている8ミリを手伝って」と言われて出会った女性と結婚し、その後妻は大林監督の事務所のデスクとして勤めた。そのような縁もあり、僕は『青春デンデケデケデケ』ではセカンドユニット監督、『海辺の映画館―キネマの玉手箱』では脚本(内藤忠司、大林宣彦との共同脚本)として大林作品に参加することになった。

 残念ながら大林監督にお話を伺うことは叶わないが、自主映画時代から最後の作品まで大林監督と二人三脚で映画を作り続けた恭子さんと、大林映画と共に育った千茱萸さんから大林監督の映画作りについてお聞きした。

おおばやし・のぶひこ 1938年広島県尾道市生まれ。3歳の時に自宅の納戸で見付けた活動写真機と戯れるうちに映画を作り始める。自主制作映画『ÉMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(67・16mm)は全国の画廊や大学で上映され高評価を得る。『喰べた人』(63)はベルギー国際実験映画祭審査員特別賞を受賞。テレビCM草創期にはチャールズ・ブロンソンの「マンダム」をはじめ、カトリーヌ・ドヌーヴなど多くの外国人スターを起用。CM作品数は3000本を超える。1977年『HOUSE/ハウス』で商業映画に進出。主な作品に『転校生』(82)、『時をかける少女』(83)、『さびしんぼう』(85)、『異人たちとの夏』(88)、『青春デンデケデケデケ』(92)、『理由』(2004)、『野のなななのか』(14)、『花筐/HANAGATAMI』(17)、『海辺の映画館―キネマの玉手箱』(20)など。2020年4月没。

大学の講堂でピアノを弾いていた大林監督

―― 大林監督とどのように出会ったのでしょうか?

大林恭子(以下、恭子) 監督の方が成城大学の1年先輩ですね。あの頃は生徒数がすごく少なくて、すごくいい学校だったんです。私は文学部の英文科で、監督は映画コース。でも、いつも監督は講堂でグランドピアノを弾いていたの。それを私の友達なんかとみんなで聞きに行って、いつの間にかみんなで一緒に散歩をするようになって。それから、19歳から62年間ずっと一緒でした。

―― きっかけはピアノなんですね。

恭子 そうです。2歳ぐらいからお家のピアノを弾いていたみたいで。別に習っているわけじゃないんですよ。だから、最初から自己流なんですね。それがすごく素敵でした。

―― 弾いている曲はクラシックなんですか?

恭子 自分で作曲しているみたいな曲も。ショパンとかのクラシックも多かったです。

―― その頃、すでに大林さんは8ミリ映画を撮っていらっしゃったんですか?

恭子 そうですね。私と知り合う前に福永武彦さんの『青春・雲』という最初の小説、それを8ミリで撮っていたみたい(注1)。のちに大林の父から聞いたんですけれども、お父さまが既にお医者さん仲間で8ミリを回していたんですね。その8ミリキャメラをもらって上京したそうです。

―― 初めて参加したのが『絵の中の少女』(注2)ですね。恭子さんは主演女優です。

恭子 (笑)そうですね。

―― 大林さんから「次の映画に出てください」と言われたんですか?

恭子 みんな兄弟みたいに付き合ってましたから、私のお友達も一緒にみんな出てます。私の友達が福島出身だったから、会津の雑木林で撮ったんです。

―― 皆さんでそちらに行ったんですね。あの作品では主人公の思い出の中の少女と、絵に描かれる少女の2役を演じられました。

恭子 被写体としては、恥ずかしがり屋なのであまりいい被写体じゃなかったと思うんですけど、なぜかいつも一緒でしたから。

―― 同じ年に『だんだんこ』(注3)があったんですか。

恭子 監督が砧のアパートに居たことがあるんですけど、そのアパートは早坂文雄さんという黒澤映画の音楽家のお嬢さんたちがやっているアパートで、なぜか結構アーティストが住んでいて。『だんだんこ』を一緒に作った平田穂生さんは、監督の隣の部屋に住んでいた方です。東宝の脚本家でした。

―― 『だんだんこ』では恭子さんは美術でクレジットされていますね。

恭子 もう、何でも屋ですね(笑)。

近所の商店街では兄妹だと思われていた

―― その頃はもう大林さんとお付き合いされていたんですか?

恭子 大学の時からお付き合いしています。砧の商店街のお店のおじさんとおばさんは兄妹だと思っていたみたい。

―― 一緒に買い物とかでよく会うから、兄妹だと思われていたんですね。

恭子 「さっきお兄さんが買っていきましたよ」とか言われてました(笑)。

―― 『木曜日』(注4)という作品では脚本で恭子さんがクレジットされていました。

恭子 脚本ってほとんどないんです。別に私が本を書くとかじゃなくて、アイデアを出したのを監督が最後まとめてくださって。

―― 文学部でいらっしゃったし、お話を作るのは当時からお好きだったんですか?

恭子 監督は小説を書いてましたけど、私はほとんど文章を書いてません。話したことを監督がまとめて、という感じでした。

―― 大林さんが書かれた小説を読んで、感想を言ったりしてました?

恭子 それはありますね。監督は大学の時は『狂童群』という同人誌に小説を書いていました。『狂童群』というのは、昔、富永太郎さん(注5)たちが『白痴群』という同人誌をやっていて、それを引き継いで監督たちがやっていたんです。だから、監督は売れない小説家になると思ってましたね(笑)。昔は小説家というのは売れないものだとばかり思っていましたから。

テレビコマーシャルの草創期に演出家になった

―― 卒業される時に、大林さんは就職しようとは考えていなかったんですか?

恭子 そうですね。でも、大学の時にアルバイトで神保町にある少年科学雑誌の編集部の手伝いをしていましたね。1年ぐらいやったかもしれない。21歳から22歳の頃。そのお金で8ミリのフィルムを買ったりしてました。

―― 就職しないで自主映画を作り続けようとしていたんですか?

恭子 フィルム・アンデパンダン(注6)の上映会で『Complexe』(注7)を紀伊國屋ホールで上映した時、電通の方が見に来られた。まだコマーシャルの草創期で、コマーシャルの演出家がいない時代、監督にやってもらえないかと言われて。だから、25歳ぐらいからコマーシャルをやってましたね。

―― 大きな会場での上映が始まったんですね。

恭子 そうですね。『ÉMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(注8)は、九州から北海道まで、全国の大学の文化祭で一番たくさん上映された作品です。

―― すごい人気だったんですね。

恭子 本当に全国で一番上映された映画じゃないかというぐらい貸し出してました。

―― 8ミリを個人的に作り始めた頃から、個人映画作家として全国的な注目を集める頃まで、恭子さんと二人で作られてきたんですね。

恭子 そうですね。アイデアとか、衣装とか、全部やってましたから。『ドラキュラ』の衣装なんか、お金がないから、下北沢の裏地屋さんで裏地を買ってきては縫って。草原で女性が着物で帯がほどけてパーッと走る場面がありますけど、あれは全部縫っていたんです。

―― 映画館で上映されていなくても学園祭で上映されて、大林映画は既に全国に広まっていたんですね。

恭子 監督も私も、大学の頃からいつか映画も本屋さんの本棚に並ぶような時代が来るんじゃないかと思っていました。ちょうど海の向こうのフランスなんかでヌーベルバーグが出てきたのと同じ時期だったんですよね。フランスでも同じようなことをやっている人たちがいると。だから、「いずれ大林さんの時代になるわよ」みたいな偉そうなことを言ってました。

―― 映画館で大勢が一緒に観る映画でなく、本のように個人の好みで観る小さな映画ということですか?

恭子 だいぶ後でベータだとかVHSとか、ビデオテープで映画を観られるようになりましたけど、いずれそうなるんじゃないかと思っていましたね。

注釈
1)『青春・雲』(1957 8ミリ 30分)大林監督の8ミリ第1作だが、フィルムは現存しない。

2)『絵の中の少女』(1960 8ミリ 30分)死の匂いが漂う幻想的な作品。

3)『だんだんこ』(1961 8ミリ11分)少女が毬をつく場面ではコマ撮りによる《毬の主観》がある。

4)『木曜日』(1961 8ミリ 18分)青年の恋の苦しみを前衛的に描いたヌーベルバーグ的作品。

5)富永太郎 大正期の詩人、画家。

6)フィルム・アンデパンダン 大林監督のほか、飯村隆彦、高林陽一、ドナルド・リチ―、足立正夫など実験的な映画作家たちで結成されたグループ。

7)『Complexe=微熱の玻瑠あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道』(1964 16ミリ 14分)コマ撮りを多用したポップで耽美的な作品。

8)『ÉMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(1966 16ミリ 38分)ドラキュラやウエスタンなどの映画愛が詰まった抒情的な青春映画。

<聞き手>こなか・かずや 1963年三重県生まれ。映画監督。小学生の頃から8ミリカメラを回し始め、数多くの自主映画を撮る。成蹊高校映画研究部、立教大学SPPなどでの自主映画制作を経て、1986年『星空のむこうの国』で商業映画デビュー。1997年、『ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影』でウルトラシリーズ初監督。以降、監督・特技監督として映画・テレビシリーズ両方でウルトラシリーズに深く関わる。特撮、アニメーション、ドキュメンタリー、TVドラマ、劇映画で幅広く活動中。主な監督作品に、『四月怪談』(1988)、『なぞの転校生』(1998)、『ULTRAMAN』(2004)、『東京少女』(2008)、『VAMP』 (2018)、『Single8』 (2022)、『劇場版シルバニアファミリー フレアからのおくりもの』(2023)など。

〈 「コマーシャル上がりに映画はムリだ」「よそ者を入れるな」大林宣彦監督が受けた妨害…助けてくれたのは“東宝の名監督”だった《商業デビュー作『HOUSE/ハウス』撮影秘話》 〉へ続く

(小中 和哉/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)

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