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JR東海道本線&湖西線“ナゾの途中駅”「山科」には何がある?

文春オンライン / 2024年9月30日 6時10分

JR東海道本線&湖西線“ナゾの途中駅”「山科」には何がある?

 山科という駅は、言うなれば運命の分かれ道のようなものだ。何を大げさな、と言われそうだが、少なくともこのあたりの鉄道に不慣れな人にとってはそうなのだから仕方がない。

 どういうことかというと、京都方面からやってくる新快速列車は、山科駅で二手に分かれるのだ。ひとつは、まっすぐ東に向かって大津や草津、守山といった駅を経て米原方面へ走る琵琶湖線。もうひとつは、比叡山延暦寺の東の麓、坂本や琵琶湖大橋に近い堅田などの琵琶湖西岸を通って北を目指す湖西線。行き先にはそれぞれ違いはあるが、どちらも最終的には敦賀駅へと繋がってゆく。

 で、この琵琶湖線と湖西線の違いが、運命を分かつのだ。

 慣れている人ならば、草津に行きたいときは琵琶湖線、つまり「米原経由」などと案内されている列車に乗ればいいとすぐにわかる。逆もまたしかり。

 ところが、不慣れだったらこれがたまらない。間違えて、湖西線に乗ってしまってもう大変。気がつけば山科を過ぎ、大津京も過ぎ、比叡山坂本駅あたりで何か変だと気がついても時すでに遅しである。

 ……と、このような悲劇の道を辿るのか、スムーズに目的地に着くのか、その運命の分かれ目が山科駅なのだ。

 まさかそんな間違いを、と思うだろうか。でも、たとえば京都の大学に進学した学生さんなんて、米原だとか湖西線だとか言われたところでよくわからない。慌てて飛び乗って、それが悲劇の一丁目。ずいぶん昔のことですが、筆者も京都に住んでいたことがあるからよくわかるのであります。

 そんなわけで、山科という駅は何か特別な駅だというイメージを持っていた。京都には山科に住んでいる人はまったく珍しくもなんでもない。が、そんな知り合いの家の最寄り駅というよりは、琵琶湖線か湖西線か、軌道修正ができる最後の駅というようなイメージが先行していたのだ。ああ、思い出すだけでもおっかない。

 でも、改めてそんな山科駅に何があるのかはよくわからない。運命の分かれ道ということ以外では、ざっくりと“京都の郊外”といった印象があるくらいだ。ならば、ここで改めて山科駅をきちんと歩いてみようではないか。

JR東海道本線&湖西線“ナゾの途中駅”「山科」には何がある?

 そういう理由をつけて、山科駅にやってきた。京都駅からそれこそ琵琶湖線でも湖西線でも新快速でも各駅停車でも、何に乗ってもものの5分で山科駅に着く(あ、特急は停まりません)。

 京都駅と山科駅の間には、短いトンネルがある。東山丘陵を貫くトンネルだ。トンネル北側の東山丘陵西麓には清水寺、南端には稲荷山があって西に伏見稲荷大社が鎮座するという、そういう位置関係である。

ホームを降りると改札以上に大きな階段が。進んでいくと…

 東山丘陵を抜ければ、もうすぐに山科駅に滑り込む。ちょっと高いところにあるホームから、階段を降りて通路を抜けて、南側にひとつだけの改札口を出る。すると、目の前にはJRの改札口以上に大きな口を開けて、地下に降りる階段が待っている。このまま地下に進めば、京都市営地下鉄東西線の山科駅に通じているようだ。

 階段を無視して先を見ると、そこにももうひとつ駅がある。京阪山科という駅で、京都と大津を結ぶ京阪京津線の駅である。

 つまり、山科駅は悲劇の一丁目などではなくて、3社3路線が乗り入れる京都市東部の交通の要衝なのである。それもただの要衝ではない。東山丘陵を隔てて隣り合う京都盆地、京都の中心市街地と、実に巧みに結びついているのだ(ちなみに京阪京津線は地下鉄と直通運転をしている)。

 まずもって、JR琵琶湖線は京都駅という玄関口と直結する。それでいて、地下鉄東西線は京都盆地では南禅寺のすぐ近くを通って三条、二条城、行き着く先では嵐電と接続し、嵐山まで通じている。

 JR京都駅からはやや離れた、およそ徒歩圏内とは言い難い河原町三条をはじめとする京都でいちばんの繁華街にも、山科は直接結びついているのである。

 いちおう触れておくと、地下鉄で京都市街地方面ではない方向に向かうと、終点の六地蔵駅でJR奈良線か京阪宇治線と接続し、10円玉でおなじみ平等院鳳凰堂へのアクセスが簡単だ。京阪京津線で大津方面に出れば、終点は琵琶湖畔の浜大津。JR大津駅とはこちらもやや離れた、大津の町の中心市街地である。

 このように、山科という駅はとてつもなく便利な駅なのである。

大通りだらけの駅周辺。どの道も人通りが絶えない!

 だからというわけでもないだろうが、おかげで駅の周りも実に賑やかだ。JRの改札の脇にはビエラ山科という事実上駅ビルといっていい商業施設があり、京阪電車の踏切を渡った先には無印良品やユニクロも入る商業ビル「ラクト山科」。

 その間には、東から西へと旧三条通り、すなわち旧東海道が通っている。商店街も形成されているし、チェーン店から味のある個人店までが揃っている。

 さらに周囲を見渡すと、ラクト山科の南側(旧東海道の一筋南側)には京都府道143号線が東西に通っている。もともとはこちらが国道1号、つまり東海道のバイパスとして生まれた幹線道路だ。

 この道を東に辿ってゆくと、名神高速道路に通じる京都東インターチェンジ。もうひとつずっと南に行くと、新幹線の高架と並行して国道1号、五条バイパスがこれまた東西に通っている。

 このあたりをまとめれば、山科盆地の北の端を通っていた旧東海道に対し、少し南にバイパスとして旧国道1号が整備され、さらにもっと南にもうひとつのバイパスとして現国道1号が通った、という形だ。

 どの道も、なんだかんだで人通りもクルマ通りも途切れない。どうやらさすがの天下の東海道、何度バイパス手術をしても追いつかないくらいの交通量があるということだろう。山科は、鉄道のみならず道路においても京都の入口として要の地であるようだ。

駅前から延びる目抜き通りに隠された“歴史”

 そんな山科の町は、東西に通る3本の東海道を中心に、駅前からまっすぐ南に延びる目抜き通りが軸になっている。

 その周囲は、京都盆地の市街地とはうって変わって細い路地が右へ左へ入り組んだ住宅地。昔ながらの住宅が並んでいるエリアがあるかと思えば、大きなマンションがその先に突然姿を見せたりするような、新旧の入り混じったベッドタウンである。

 京都盆地と同じように、山科駅を中心とするこの一帯も小さな盆地になっている。西は東山丘陵、東は滋賀県と京都府の府県境を成す醍醐山地、北は東山丘陵がそのまま続いて比叡山へ。南側は盆地の中を流れる山科川がそのまま宇治川に合流するまで開けている。

 そして、旧東海道が通っているということからわかるように、大津方面(近江)から京都にやってくる旅人は、きまってこの山科盆地の中を抜けねばならなかった。それは今でも変わらないのだが、鉄道や高速道路で素通りできるわけでもない時代は、京都の入口としての山科のポジションは、そうとうに大きなものだったに違いない。

 百人一首でおなじみ、蝉丸の「これや此の 行くも帰るも 別かれては 知るも知らぬも 逢坂の関」。ここに登場する逢坂の関は、山科盆地東側の醍醐山地にある山のひとつだ。いまは、旧東海道に加えてJR琵琶湖線のトンネルも通っている。

 そんなポジションだったから、とうぜん山科の町の歴史も京都と一体となって刻まれてきた。古くは天智天皇の時代から都から離れた遊猟の地となり、平安時代以降は都との近さもあって貴族たちの別荘が置かれている。

 中世には蓮如が山科本願寺を建立、本願寺再興の拠点になって、寺内町も設けられたようだ。本願寺の全盛期には、相当な規模の宗教都市になっていたという。

 本願寺は一向一揆を展開する武装勢力の側面があり、対立する日蓮宗や時の権力者・細川晴元らによって山科本願寺はほどなく滅ぼされてしまう。

 だから、いまの山科に宗教都市時代の面影は消え失せている。いまのベッドタウンとしての山科のルーツを、中世の宗教都市に求めるのはムリがありそうだ。ただ、山科駅の南西にある山科中央公園のあたりには本願寺の土塁跡が残っている。その脇には蓮如上人御廟所もある。

「身を隠すのにちょうどいい」町に押し寄せた都市化の波

 江戸時代の山科は、京都近郊の農村地帯だ。さすがにそこらへんの農村とは違い、禁裏御料、つまり皇室の土地だったというが、本質的に農村であることは変わらない。

 ちなみに、取り潰しになった赤穂藩の大石内蔵助が討ち入りまでの隠遁の地として、山科盆地の片隅で暮らしていたという。身を隠すのにちょうどいいと考えられていたくらいの、そういう土地だったということだろう。

 それでも、東海道が整備されてからは一貫して街道筋の町として、ある程度の賑わいはあったのだろう。交通の要の地は、いつの時代も必然的に賑わいを得る。交通手段が徒歩か鉄道か自動車か、その違いがあるだけだ。

 明治に入ると、いよいよ山科にも都市化がやってくる。琵琶湖から京都市内まで水を通す琵琶湖疎水が整備された。山科駅の北側、山が目の前まで迫ってくるいわば“駅裏”には、山肌に沿うようにして琵琶湖疎水がいまも流れている。

 昭和初期には現在の府道143号線、三条通りが整備され、交通の便の良さもあってカネボウなどの工場が進出。工場に付随してそこで働く人たちの暮らす町という性質も帯びてゆき、京都近郊の農村地帯は京都近郊の工業・住宅地へと変わっていった。昭和初期の山科は、映画館やダンスホールなどもあるような、歓楽街としての一面も持っていたという。

 そして戦後、人口が急増する時代になってから、いよいよ大型マンションなども進出して本格的なベッドタウンへと変貌していった。いまでは大規模工場なども姿を消し、住宅都市・山科になっている。交通の便の良さは、形を変えても人を呼び寄せることができるということなのだ。

なぜ「山科」は“分かれ道の町”なのか?

 なお、1974年には湖西線が開通し、山科駅が琵琶湖線(東海道本線)と湖西線の分岐駅になっている。

 湖西線沿いは琵琶湖線沿線と比べるとややローカル色が強い。琵琶湖西岸の都市化は、湖西線あってこそ。そう考えると、ここにも山科という京都との間の中継地点が何らかの影響を及ぼしているといってもいいだろう。

 名神高速、五条バイパス、地下鉄東西線などが次々に整えられ、駅から少し離れたところにも大規模商業施設が建つようになった。

 細い路地の中を流れる山科川。そのほとりに、作家・志賀直哉の旧居跡の碑が置かれている。志賀直哉が山科に暮らしたのは、大正の終わりから昭和のはじめにかけて。工場ができて、駅と東海道周辺に繁華街が形成されていた時期だろうか。それでも、京都の中心部と比べればまだまだのどかさが勝っていた。山科川沿いの路地などは、そうした時の面影をしのばせる。

 一方で、目抜き通りや五条バイパスのあたりなどは、もうまったくの新しい町だ。三条通りも、歴史というよりは新しさを感じさせる。山科は京都市内の一地域。

 その見方をすれば、古都の空気がうんぬんと語りたくもなるところだが、むしろ古より京の近郊として、猟をしたり別荘を建てたり、はたまた工業・住宅地になったりと、衛星都市的な役割を担ってきたといったほうが正しそうだ。

 そして、歴史的にも現在も、絶えず交通の要であった山科の町。そうした背景を知れば、琵琶湖線と湖西線の分かれ目になっていることも、まあ納得せざるを得ない。道の分かれ目は運命の分かれ道。でもそれは、山科が悪いわけではなくて、ちゃんと確認しない人間が悪いのである。

写真=鼠入昌史

〈 家賃半額、家具完備、通勤費4割補助…京都まで60分「琵琶湖の西の方」に“ためしに数ヶ月”暮らせる話 〉へ続く

(鼠入 昌史)

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