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一軍登板なしなのに「オールスターファン投票1位」…ネット投票で起きた事件“川崎祭り”の渦中にいた男の“意外な願い”

文春オンライン / 2024年10月9日 6時10分

一軍登板なしなのに「オールスターファン投票1位」…ネット投票で起きた事件“川崎祭り”の渦中にいた男の“意外な願い”

©iStock.com

〈 「2004年の開幕投手はお前でいくから」落合新監督が“不良債権”と呼ばれた選手に告げた“驚きの言葉” 〉から続く

 ネット掲示板での呼びかけをきっかけに起こった組織投票により、その年一軍で一度も登板していなかった川崎憲次郎がオールスターファン投票で断トツの1位を獲得……。「川崎祭り」と呼ばれた、この珍事は日本プロ野球のオールスターインターネット投票の問題点を浮き彫りにした。渦中の人物であった川崎憲次郎は、どのような思いで騒動を見ていたのだろう。

 このたび、かつて中日の番記者として8年間を過ごしたノンフィクション作家の鈴木忠平氏の『 嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか 』(文藝春秋)が、新章の書き下ろしを加えて文庫化された。史上初となる三冠受賞(第53回大宅壮一ノンフィクション賞、第44回講談社本田靖春ノンフィクション賞、第21回新潮ドキュメント賞)を達成し、組織と個人の関係を模索するビジネスパーソンからも熱い支持を受けたベストセラーの一部を再公開。プロとしての苦境を弄ばれた川崎の“意外な願い”を紹介する(全3回の3回目/ #1 、 #2 を読む。初出:2021/9/30)。

◆◆◆

「川崎祭り」

 川崎は自分でも驚いていた。落合の問いに即答したことにだ。理性では、なぜ俺なのかと疑問を感じている一方、心の奥底に、そのマウンドで投げるべきだと考えているもう一人の自分がいた。

 俺は誰かから、こう言われるのを心のどこかで待っていたのかもしれない……。

 川崎は胸の内を探した。じつは、この3年間、誰にも言えずに秘めてきた思いがあった。その渇望にあらためて気づかされたのは、前年夏のある事件がきっかけだった。

 2003年の5月、川崎は1年ぶりに二軍戦のマウンドに立った。これまでも二軍で投げたことは何度かあり、その度にまた痛みがぶり返していた。ナゴヤドームで勝つことが仕事である投手にとっては、まだ復活にはほど遠い小さな一歩だったが、どういうわけか、その直後から夏のオールスターゲームのファン投票の上位に自分の名前が挙がるようになった。

 異例のことだった。オールスターはそのシーズンに最も輝いている選手たちが集まる舞台だ。一軍で投げていない選手に出る資格があるはずもない。

 その不可解な投票運動はやがてインターネット上で「川崎祭り」と呼ばれるようになり、拡散していった。そして、ついに川崎はトップに立った。

 一試合も投げずに2億の年俸をもらっている自分への皮肉が込められた現象だというのはわかっていた。中日球団とコミッショナー事務局は、インターネットや携帯電話投票を悪用した愉快犯的なこの行為に憤りを示し、遺憾のコメントを発表した。

 最終的にはファン投票で断トツの1位となった川崎が、球団を通じてオールスター戦の辞退を表明する事態になった。

『自分が出られる場所ではないので常識的に考えて辞退します』

 それが川崎による公式のコメントだった。

川崎は被害者とみなされていたが……

 プロとしての苦境を弄ばれた格好となった川崎は被害者とみなされた。同情を寄せてくれる人もいた。もう二度とこんな事態を招いてはならない、と憤ってくれる人もいた。当然、本人もひどく傷ついているはずだと、誰もが思っていた。

 だが一連の騒動の中、川崎は胸の奥でずっとこう願っていた。

 どんな形だっていい。このままオールスターのマウンドに立てないものか。そうすれば、自分はそこで劇的に復活できるのではないか……。

 不本意なものでも、屈辱的なものでも構わなかった。川崎はスポットライトを欲していた。とても口にはできなかったが、その衝動は抑えがたく存在していた。やれるか? という落合の問いに本能的に「いけます!」と答えたのは、おそらくそのためだ。

 正月二日の道はどこまでも空いていた。両側にビルが並んだ中心街を抜け、川をひとつ越えると建物の背丈が低くなった。燻んだ色をした家々の向こうにナゴヤ球場のバックネットが見えてきた。

 ふと、ハンドルを握る手に力がこもっていた。

よみがえったプライド

 この右肩さえ動けば、俺は何だってできる……。今までもそうやって生きてきた。

 開幕投手に指名された川崎の胸には、失いかけていたプライドがよみがえっていた。右手にはかつての感触がいまだはっきりと残っていた。

 1980年代後半から1990年代にかけて、ヤクルト時代の川崎は「巨人キラー」と呼ばれていた。事実、川崎はジャイアンツ戦が好きだった。

 冷静に考えれば、各球団の四番バッターをかき集めたような巨人打線と対戦すれば、勝ち星がつく確率は低くなる。身内にも巨人戦の登板を嫌がるピッチャーはたくさんいた。

 ただ川崎はそもそも、そんな計算をするような男ではなかった。

 大分の港町・佐伯で生まれた少年は、プロ野球といえば巨人戦の中継しか見たことがなかった。だから7歳で白球を握ったときからジャイアンツのファンだった。

 津久見高校のエースとして甲子園に出た。ドラフト一位でプロに入った。巨人と同じく東京を本拠地にするヤクルトへの入団が決まると、「それなら俺は巨人を倒そう」と誓った。1年目、18歳でのプロ初勝利はジャイアンツから挙げた。

 巨人戦になれば何台ものカメラが並び、スタンドがぎっしりと埋まる。大歓声を背に投げて勝てば、眩しいスポットライトを浴びることができる。川崎にとってはそのマウンドこそ、白球を投げる理由だった。

理屈ではなく衝動

 プロ4年目に肘を故障したが、腕を振ることさえできれば、川崎は痛みを抱えながらでも投げることができた。スポットライトの下でなら壊れたっていいと思っていた。

 理屈ではなく衝動で投げる。川崎はそういうピッチャーだった。

 そんな自分が3年間も投げられずにいる。光の当たらない舞台の片隅でうずくまっている。時折、そのもどかしさに耐えられなくなった。

 右肩を壊してから、考えられることは何でもやった。別府の電気治療院には何度通ったか知れない。だが、高校野球のエースだった時代からたいていの怪我を治してくれたはずの先生も、この肩の痛みについては首を傾げてしまった。効果があると聞けば、わずかな可能性にかけて非科学治療にも足を運んだ。最後は気功師や霊媒師にも縋った。

 それでも右肩は思うように動いてくれなかった。服を着替えることさえままならず、風呂では左手だけで体を洗わなければならなかった。出口の見えない闇の中で、やがて川崎はこう思うようになった。

 あと足りないものがあるとすれば、それは一軍のマウンドではないだろうか……。二軍では心に火がつかない。だから……あのスポットライトさえ浴びれば、川崎憲次郎という投手も、この肩も、悪夢から覚めるように劇的に元に戻るのではないだろうか。

 誰にも言えない願望を秘めていた川崎にとって、落合の言葉はじつは待ち望んでいたものだった。

「開幕投手はお前でいく──」

 まるで川崎の心を見透かしたようだった。

 車はやがて細い路地へと入った。街路樹の枯れた冬景色の中にナゴヤ球場の古びた外観が現れた。鈍色の空を背景にしたその寂しい光景すら、今は明るく見えた。

 そういえば、落合が電話の最後に付け加えたことがあった。

「ああ、それからな……」とさりげなく言った。

「これは俺とお前だけしか知らないから。誰にも言うな。母ちゃんにだけは言ってもいいぞ」

「母ちゃん」とは妻のことだ。落合は昔からそういう言い回しをする。それは知っていたが、最後の言葉が何を意図しているのかは、やはり読めなかった。

〈 「お前は走っとけ」立浪以来の天才と呼ばれた男に与えた“しごき”…就任2年目で見えてきた落合監督の“本性”とは 〉へ続く

(鈴木 忠平/Webオリジナル(外部転載))

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