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「僕たちは今、戦前に生きてます」高校生の言葉がずっと頭に残っていた大林宣彦監督が「戦争三部作」に“遺したメッセージ”

文春オンライン / 2024年10月18日 6時0分

「僕たちは今、戦前に生きてます」高校生の言葉がずっと頭に残っていた大林宣彦監督が「戦争三部作」に“遺したメッセージ”

©藍河兼一

〈 『転校生』『青春デンデケデケデケ』間近に見た、大林宣彦監督の唯一無二の天才的な映画作りとは 〉から続く

 大林監督の映画作りの本質は、8ミリ時代から最後まで変わらなかった。今までにない表現を追い求め、新たな技術に臆することなく、むしろ楽しんだ。そしてその傍らには、いつも恭子夫人がいた。

◆◆◆

ずっと二人三脚で映画を作ってきた

―― 大林さんが先例に捉われずに自由に作れたのは、恭子さんがプロデューサーだったからだと思います。

恭子 そういう意味では自由に自分のことを考えてできたとは思います。

千茱萸 『海辺の映画館―キネマの玉手箱』がクランクインした頃、恭子さんが目の手術で半月ほど現場に参加できなかったんです。監督も体調は万全ではない中で一所懸命気を張ってはいましたが、恭子さんが現場に現れた瞬間、子どもみたいに「ホッとした」という顔をしていたのが忘れられないです。思うに、恭子さんは大林映画における良心であり、矜持だったのではないかと。恭子さんが後ろでニコニコしている限り俺は大丈夫という。

―― 本当にその通りだと思います。恭子さんと大林さんってある意味2人で1人みたいな存在でしたよね。

恭子 素直に頼り切ってましたね。

―― お話を伺っていると、それは8ミリの時代から一貫して全然変わってないですね。

恭子 変わってないですね。

自主映画と商業映画との違いとは?

―― 大林さんは自主映画と商業映画で変わったことは何かあったんでしょうか?

千茱萸 バジェット(予算)の大きさとか、スタッフ、キャストの人数の多さとか、そういうことでは変わっていったけれども、監督自身が変わることはなかったです。

恭子 それは全然ないですね。

千茱萸 むしろ自主映画と商業映画に限らずさまざまな映像の可能性を探り続けることを楽しんでいました。パビリオン用の360度映像、アナログからデジタルまで、初期のハイビジョン、4K……。新しい技術が出ると監督に試しに使ってみて欲しいというアプローチも多かったです。技師さんが思いもつかない使い方を発明するのでよく驚かれました。

 そういえば80年代は15本ほどの商業映画を監督するという、監督生活のなかで一番忙しい頃でしたが、そういう時に限ってもう一回自主映画をやってみようという試みをしたのが『廃市』。監督の中では「自分の真似をしないで、俺はちゃんと自分に嘘をつかずに信じた道を進めてるのか」と自らを立ち返ったり、本当に映画を拵えるのが大好きな人でした。まだまだ作りたいものはいっぱいあったし、作ってほしかったし、見たかったですよね。

恭子 本人もあと30本作るって言ってましたから。

千茱萸 世界中の映画監督の中でも、相当珍しいタイプの映画監督だと思うんです。映画を作る前に映写機と出会うという生い立ちもそうですが。映像の媒体が変わるときも、振り返ると要所要所、時代の変わり目のポイントに監督はいた気がします。常にちょっと早すぎるところはあったかなとは思うんですけれど。映画を撮る独特なスタイルも含めて。

―― これからの時代に大林監督だったらどんなものを作ったんだろうなという思いはありますよね。今、映画の作り方がどんどん変わっていく時に。それまでも自由だった大林さんの枠をデジタルが取っ払って、その先どうなるんだろうというのは見たかったですよね。

千茱萸 きっと誰も見たことのない、そして誰も思いつかないような作品を作り続けたと思います。面白くすることに対しての飽くなき追求はすごかったですから。

恭子 50歳で映画をやめて小説を書くと言っていたんです。でも、それは不可能で、結局最期までフィルムを回すことになるんですけど。50歳でやめたら、あとは2人で8ミリを持って、また九州から北海道まで2人で撮って回ろうみたいな話をしていたんです。実現できなかったけど、やりたかったなと思うんですけどね。

―― そうか。そうですね。そういう映画の作り方もあり得たかもしれないですね。

1時間半ぐらいの小編を撮ろうと言っていたのに……

千茱萸 でもそれには笑い話もあって、『理由』のあとあたりからだったか、新しい作品をスタートするときに「今回は8ミリみたいにプライベートフィルムっぽく撮ろう」って言うんです。でも、いざ始まってみると、途中から「あれ?」となって――。

恭子 どんどん大きくなって。

千茱萸 そうそう。1時間半ぐらいの小編を撮ろうなんて言っていたのに、ふたを開けると3時間ぐらいになってる。私が「また3時間になったね」と言うと、「いや、2時間59分と18コマだから」と言い張る(笑)。

―― (笑)。『海辺の映画館』も1時間半って言われて脚本を書いたんですけど、いつの間にかすごいことになっていました。

千茱萸 最期まで(笑)。どこまでも足し算、もしくは掛け算の人でした。フィルムで培った技術がまずあって、デジタルになったらデジタルの面白さみたいなもの、フィルムではできなかったことをやろうと。デジタルという新しいおもちゃを手に入れた監督は、まるで永遠の命を手に入れたようでした。

恭子 そう。三本木さん(注1)も大変だったわね。

―― 編集マンとカメラマンが同じ人というのは、大林さんとしては有難かったでしょうけど。

千茱萸 例えば監督は編集中に「ここにコーヒーカップが欲しいね」と閃くと、すぐ三本木さんにカメラを出してもらって撮って足してしまう。

恭子 三ちゃん、終わらないんじゃないかと思ったって言ってたから(笑)。でも本当に最後、終わらないんじゃないかと思いましたね。

千茱萸 「終わりたくなかった」んですよね、本人は。

恭子 これが最後って自分でも分かっていたと思うので。だから終わりたくなかったんだと思います。

戦争三部作に託したメッセージ

―― 大林さんの晩年、戦争にまつわる映画が続きましたが、やはり恭子さんとのお話の中でそうなっていったんですか?

恭子 そうですね。私の一番上のお兄ちゃんは海軍の航空隊で戦死して、父が大変だったのを子どもの頃に見てますし、私は小学校1年生の7歳の時に東京大空襲に遭って、そんな話をよく大林にはしていたんです。大林は本当にお坊ちゃんで、何不自由なく尾道で暮らしていて、「私は大変だったのよ」みたいな話はよくしていたので、それを『この空の花』の時にいろいろ使って表現してくれましたね。

―― 恭子さんから東京大空襲のお話を聞いたんですね。

恭子 東京大空襲で椎名町にあったうちも全部焼けました。上野のほうまで全部焼け野原になっていて。焼け野原に青いガスの青い光がポッポポッポ、焼け野原に見えたのがすごく印象に残ってますね。

―― 戦争の映画を続けて作ったのは、今の時代に必要だという思いがあったのでしょうか?

恭子 そうですね。今は戦争の前だ、みたいな。成城の駅で、高校生ぐらいの男の子たちと監督が話をしていた時に、高校生たちが「僕たちは今、戦前に生きてます」という言い方をしていたんですよね。監督はそれがずっと頭に残っていたみたいです。 

―― そのような危機感が高校生にもあったんですね。安保法制に対して映画監督協会で反対声明を出そうと仲倉重郎監督(注2)が提案した時、監督協会は「賛否両論あるから有志でやって」という対応で、仲倉監督が監督協会内で賛同者を募ったんです。

恭子 そういえば仲倉さんも亡くなりましたね。

―― 残念ながら亡くなりました。そうやって集まった監督で反対声明を出したんです。僕も手伝いましたが、そのメンバーでシンポジウムを開き、大林さんも参加されました。そこで大林さんが「殺されても殺すな」とおっしゃったのはよく覚えています。

恭子 そうですか。

―― 最後の『海辺の映画館』も、やはり戦争の映画でしたね。

恭子 尾道の大林家の下には山陽線が通っているんですけれど、広島の原爆で被爆した人たちが線路伝いに歩いてくるのは監督も目にしたそうです。悲惨だったと思います。広島の原爆の死者は14万人と言われていますけれど、東京大空襲でも10万人以上亡くなっています。それなのに東京の大空襲ってそんなに話題になってないなと、いつも3月10日と4月10日に思うんです。東京大空襲を体験した人も減って、私が最後ぐらいだと思うんですよね。

―― 語り部がだんだんいなくなってしまいますね。

恭子 そうですね。

―― 大林さんの想いを引き継いで、頑張らないといけないと思います。今日は貴重なお話をありがとうございました。

注釈
1)三本木久城 撮影監督、編集。『この空の花』以降の大林映画の撮影と編集を担当した。

2)仲倉重郎 映画監督、脚本家。代表作『きつね』『マンゴーと赤い車椅子』など。

(小中 和哉/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)

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