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「子役時代の輝きを失っていた」大物俳優との再会が転機に…真田広之63歳がアメリカで快挙を成し遂げるまで〈『SHOGUN 将軍』エミー賞18冠〉

文春オンライン / 2024年10月2日 11時0分

「子役時代の輝きを失っていた」大物俳優との再会が転機に…真田広之63歳がアメリカで快挙を成し遂げるまで〈『SHOGUN 将軍』エミー賞18冠〉

『SHOGUN 将軍』で主演・プロデューサーを務めた真田広之 ©時事通信社

 アメリカのテレビ界最高の栄誉とされる第76回エミー賞が先月15日に発表され、有料テレビチャンネル・FXの制作で、真田広之(63歳)が主演とプロデューサーを務めたドラマシリーズ『SHOGUN 将軍』がドラマ部門の作品賞のほか18の賞を受賞した。

 今回のエミー賞で個人としても主演男優賞を受賞した真田は、映画『ラスト サムライ』(2003年)への出演を機に渡米し、ロサンゼルスを拠点に活動を続けてきた。ただ、彼が海外進出を志したのはもっと前である。

海外進出を“使命”と考えていた

 いまから31年前、大ヒットドラマ『高校教師』で教え子と禁断の恋に落ちる教師を演じた1993年、32歳のときのインタビューではすでに《これからは、海外進出を夢としてではなく、使命として、世界に認められるランクのものを作っていかなければならないんだという気持ちが強く起こってきていて、いまはそれに向けての準備期間で、もっと冒険的でありたい。守りじゃなくて。男優というのは、やっぱり四十、五十、六十なんだと、諸先輩方を見ていて思いますのでね(笑)》と語っていた(『週刊文春』1993年3月4日号)。

 このとき真田は映画『僕らはみんな生きている』のロケで海外に長らく滞在するなかで、《日本の経済は伸びているけれども、文化は立ち後れているんじゃないか。ましてや、映画界は、アジアの中でも、韓国や香港に追い越されている。質もそうだし、マーケットも含めてね》と感じたという(同上)。その危機感が真田に、海外進出を夢ではなく使命として考えさせたのだ。

海外俳優たちとの共演が転機に

 最初に海外を意識したのはさらにさかのぼる。17歳のときに主演した深作欣二監督の映画『宇宙からのメッセージ』(1978年)で、ハリウッドやブロードウェイから招いた俳優たちと共演したことがきっかけだった。彼はのちに次のように語っている。

《若いアメリカの俳優たちといろんな時間をシェアするうちに、向こうの俳優のレベルの高さや層の厚さを垣間見た。食事の合間に片言の英語で必死に質問するんですが、彼らは俳優としての訓練が徹底的になされていた。そのときのコミュニケーションをとれないもどかしさがバネになりましたね。海外の監督や世界の一線で活躍している俳優たちと対等に向き合いたい、そのためには今の自分に何が足りないのかと考え始めました》(『婦人公論』2007年7月22日号)

 これをきっかけとして、20歳ぐらいからは毎年ニューヨークやロンドンに通い、演劇や音楽、映画に触れ、トップと呼ばれる人たちがどんな表現をしているかを知ることで、自身に宿題を課すようになった。

「子役時代にはあった輝きが失われている」転機となった“再会”

 真田は5歳で子役デビューしており、そこから数えると芸歴はまもなく60年を迎えようとしている。子供雑誌のモデルからスカウトされて児童劇団に入り、さまざまな映画に出演したのち、いったんは子役をやめたが、中学に入って俳優を本格的に志した。そこで彼が門を叩いたのが、俳優の千葉真一が主宰するジャパン・アクション・クラブ(JAC)だった。千葉とは子役時代の映画デビュー作で、続編も2作つくられた『浪曲子守唄』(1966年)で共演していた。

 17歳のときには、千葉と深作欣二監督が組んだ映画『柳生一族の陰謀』(1978年)のオーディションに合格し、再デビューする。それまで本名の下沢広之で活動していたが、このとき千葉が、自身の芸名の真一から「真」、本名の前田から「田」を取って「真田広之」という芸名をつけてくれた。

 同じ年には前出の『宇宙からのメッセージ』で主役に抜擢され、翌年も『真田幸村の謀略』『戦国自衛隊』にあいついで出演する。ただ、千葉は真田に再会したときから、子役時代にはあった輝きが失われていると感じていたという。それでも真田に寄せる期待は強く、何とかして売り出そうと考えていたとき、東映のプロデューサーの日下部五朗から『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)という忍者映画の企画を持ちかけられた。

 日下部は当初、この映画の主演には体操のオリンピック選手を考えていたが、千葉は演技経験のない者の起用に反対し、代わりに真田を推したのだった。日下部は「いま一つアピールするものが足りない」と難色を示すも、それは千葉もかねがね思っていたことであり、撮影に入るまでの3ヵ月のあいだに鍛え直して、真田を別人にしてみせると訴えてどうにか納得してもらう。

千葉が真田をサーカスに預けて…

 そのために千葉がしたのは、真田をサーカスに預けるということだった。その成果は予想以上で、真田はわずか1ヵ月で空中ブランコを観客の前で披露するまでになる(千葉真一『侍役者道』双葉社、2021年)。劇中では地上約30メートルからの空中ダイビングをスタントなしで行い、評判をとった。

 千葉は真田の恩師であるとともに、海外で活躍する日本人俳優としても先達であった。70年代には主演した一連の空手映画がアメリカに輸出され、「サニー千葉」の名で人気を集めた。その後、50代に入っていた90年代には本格的にハリウッド進出に挑み、ロサンゼルスに拠点を移す。真田が、先に引用した1993年のインタビューで「男優というのは、やっぱり四十、五十、六十なんだと、諸先輩方を見ていて思います」と言っていた「諸先輩方」のなかには当然、千葉も入っていたはずだ。

本格的な海外進出へのきっかけ

 もっとも、真田が本格的に海外に進出する端緒となったのは、映画ではなく舞台だった。その始まりもまた1993年で、以前から憧れていた演出家の蜷川幸雄がロンドンにいるというので、3日間の休みが取れると突然訪ねていった。蜷川はこのとき、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)でイギリスの若い俳優たちと稽古をしていた。そこで蜷川と意気投合したのを機に、1995年、彼の演出によるシェイクスピア劇『ハムレット』に主演する。

 その3年後には『ハムレット』をロンドンでも上演した。このとき、シェイクスピア俳優として名高いナイジェル・ホーソンがプロデューサーのセルマ・ホルトとやって来て、翌年から蜷川がRSCで演出する『リア王』に道化役で出演を依頼される。『ハムレット』を観たホーソンたっての希望であった。

「おまえは日本人である前に俳優だ」

 真田としては、それまで遠い夢だと思っていた海外進出がにわかに現実味を帯び、願ってもいない話だった。だが、ここで失敗すれば海外からのオファーはもう来ないだろうし、日本にも帰れないだろうと思うと即答しかねた。それでも、プロデューサーのホルトの「こちらができると確信してオファーしてるんだ。悩むのはいいが、おまえは日本人である前に俳優だ。何を勝手に国境をつくっているんだ」という一言に、頭のなかでゴングが鳴ったという(『婦人公論』前掲号)。

 セリフは当然ながらすべて英語、しかもイギリス人にすら難解な古語混じりのブリティッシュ・イングリッシュとあって、覚えるのも一筋縄ではいかない。まず、セリフの単語の意味を一つひとつ確認するところから始めた。何とか全部覚えて稽古にのぞんだものの、しばらくはセリフを間違わずに言うだけで精いっぱいで、ダメ出しもたくさん食らう。

 公演は1999年9月に日本で始まり、そのあとイギリスへ飛び、翌年2月まで5ヵ月におよんだ。RSCの拠点であるロイヤル・シェイクスピア・シアター(RST)公演の初日直前には、ケガ人が続出し、あらかじめスタンバイしていた代役も払底してしまう事態に陥る。そのとき、真田が自ら申し出て「戦士」など4役を兼任し、無事幕が開けた。それを1週間続けると、カーテンコールで幕が下りたあとで、キャスト全員が真田にカーテンコールをしてくれ、彼は初めてカンパニーの一員として認められたと思い、感涙したという。

 その日を境として《舞台でのやりとりも遠慮がなくなり、どんどんレベルが上がっていって、最後の1ヵ月は投げられた球を感じたまま返せる状態にまでなった。千秋楽が来ないでくれと思いました。この経験を境に、バックグラウンドや言葉が違っていても一丸となって一つの物を作る醍醐味を知り、国境を超えることが病み付きになってしまったんじゃないでしょうか》と、真田はのちに海外の映画にあいついで出演するようになってから顧みている(『婦人公論』前掲号)。それほどまでに真田にとって、シェイクスピア劇を本場の俳優たちと一緒に演じた経験は大きかった。

『ラスト サムライ』の演技が脚光を浴びる

 明治初年の日本を舞台とした前出の『ラスト サムライ』で真田はトム・クルーズ演じるアメリカ人将校に厳しく接するサムライを演じ、脚光を浴びた。しかし、その後、ロサンゼルスに拠点を移してから出演した作品では、けっして華やかな役ばかりではなかった。それでも彼は淡々とこなし続けてきた。

 それができたのは、真田は俳優として自分が目立つことを必ずしも求めていないからだろう。その姿勢は20代のときから一貫している。イラストレーターの和田誠は、初監督作品となる『麻雀放浪記』(1984年)の主演に真田を起用するにあたり、この物語は集団劇で、クセのある人物もたくさん出てくるため、あなたは主役とはいえ目立たない存在になるかもしれないがそれでもいいかと訊ねた。すると彼は《自分が目立つかどうか考えたりはしません。いい作品に参加したいと思うだけです》と答えたという(『アサヒグラフ』2000年4月28日号)。

 後年にいたっても、チームで作品をつくり上げようという意識は強い。あるインタビューでは、役者として成功を収めるなかで手に入れたいものは何かと問われ、《自分が死ぬまでに少しでも向上して、より優れたクルーやキャストといいものを生み出せること。それがどこまで行けるかだし、それを続けられていることが幸せだし。それを分かち合える仲間がいることで、幸せが倍にも3倍にもなる》と答えている(『anan』2010年4月28日・5月5日号)。

真田が語っていた、自身を突き動かすエネルギー

 真田はかつて自身を突き動かす《エネルギーの三要素は、プレッシャーとコンプレックスとレジスタンスだ》と語っていたことがある(『週刊朝日』1999年4月30日号)。シェイクスピア・カンパニーへの挑戦などでは、プレッシャーを感じながらも、それがいい意味でモチベーションになっていたのだろう。また、コンプレックスは彼に言わせると子供のころから色々とあり、たとえば背が小さいというコンプレックスから、武道で大きい人に勝つにはどうしたらいいかとか、スクリーンに映ったときにどうやって大きく見せようかとか考えるようになったという。

 レジスタンスも重要な要素である。とりわけレッテルを貼られることには抵抗感が強く、17歳で再デビューするに際し「子役あがりは大成しない」というジンクスを覆そうと誓って以来、それをはがすことを生きがいのように感じてきた。アクションスターとして人気を集めていたころには、そのイメージを崩すべく、コメディタッチのミュージカル『リトルショップ・オブ・ホラーズ』(1984年)で三枚目の役を演じた。

 もともとNHKの大河ドラマが好きではなかったにもかかわらず、1991年の『太平記』に主演したのも、その役が後醍醐天皇に抗ったがゆえ長らく逆賊とされてきた足利尊氏だったからだ(『婦人公論』1992年12月号)。真田からすれば、大河ドラマのように世間でイメージが固定されているものはすべて抗うべき対象であった。

 それだけに、真田が『ラスト サムライ』に出演時、ハリウッド映画における日本人や日本文化への誤解を正そうと、これを最後に干されてもいいと覚悟するくらいアメリカ側のスタッフに口を出したのは自然な流れであった。それでも現場で揉めることはなく、やがてスタッフのほうから教えを請うてくるまでになり、ついには“ミスター・スーパーヴァイザー”の称号まで与えられたという。

『SHOGUN 将軍』は日本の映像コンテンツを変える契機となるか

 その後も真田の孤軍奮闘は続く。赤穂浪士をモチーフにした『47RONIN』(2013年)では、日本人の役には全員日本人俳優を使うことを出演の条件とするも受け容れられず、興行的にも厳しい結果となったが、それでも彼は《日本が題材の映画がハリウッドで、大予算で作られるということ自体は1つの布石になったと思います》と顧みる(『日経エンタテインメント!』2024年5月号)。同年公開の『ウルヴァリン:SAMURAI』の撮影現場ではスタッフからよく意見を求められたという。そのころには、ハリウッドのほかの現場でも日本文化について日本人に訊くという習慣が定着してきたと、真田は実感し始めていた。

『SHOGUN 将軍』はこうして彼が20年にわたって地道に積み上げてきたことの集大成と位置づけられる。原作であるジェームズ・クラベルの小説は1980年にもアメリカでドラマ化され、ちょうど日本経済の伸張がアメリカを脅かすまでになっていた時期とあって、日本への関心の高さから話題をさらった。しかし、そこには日本に対する誤解も多分に含まれていた。だからこそ今回、日本人である真田がプロデューサーも兼任して、同作をハリウッドでリメイクしたことには大いに意義がある。

 一方で、真田は海外で活動するなかで、日本の現状を変えたいとも常に考えてきた。10年ほど前には、日本のテレビドラマが視聴者のターゲットを国内市場に絞り込んでいるという現状を指摘した上で、《日本の映画やテレビ番組が海外に広がってほしいと願っています。そのために、僕は米国で吸収してその種まきをしたい》と語っている(『週刊ダイヤモンド』2012年2月18日号)。『SHOGUN 将軍』のエミー賞受賞は、内に向きがちな日本の映画やテレビ業界を変える契機となるのだろうか。

 真田自身は、レッテルはがしを生きがいのように感じてきただけに、今回の受賞を機に「世界のサナダ」「ハリウッド俳優」などと呼ばれるのを良しとしないだろう。今月12日に64歳となる彼が、すでに制作が決まっている『SHOGUN 将軍』の続編とは別に、このあと新たにどんな展開を考えているのか、気になるところだ。

(近藤 正高)

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