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「お酒は僕にとって“力の象徴”でした」飲酒量が増え、妻に隠すように…“毒父家庭”で育った男性がアルコール依存と復讐心から脱することができたワケ

文春オンライン / 2024年10月14日 11時0分

「お酒は僕にとって“力の象徴”でした」飲酒量が増え、妻に隠すように…“毒父家庭”で育った男性がアルコール依存と復讐心から脱することができたワケ

井上秀人さん 著者撮影

〈 妻に怒鳴り散らす父を母が羽交い締めにして…「今のうちに帰りなさい!」毒父に苦しめられ続けた男性がついに“反撃”した瞬間 〉から続く

 子どもの頃からずっと、自分や母親を支配してきた自己中心的な父親。それが自身の妻にまで及ぼうとしたとき、井上秀人さん(44)はついに父親を押さえつけ、こう叫んだ。

「こんなことをするなら、もう2度と実家には帰らない!」

 この記事はノンフィクションライター・旦木瑞穂さんの取材による、井上さんの「トラウマ」体験と、それを克服するまでについてのインタビューだ。

 一時はアルコール依存症に陥り、父への復讐で頭がいっぱいになってしまったという井上さんに、『 毒父家族 ―親支配からの旅立ち 』(さくら舎)という著書を出し、心理カウンセラーとして活躍するようになるまでの「トラウマ」との向き合い方について伺った。(全3回の3回目/ 最初から読む )

◆◆◆

復讐と限界

 井上さんの飲酒の機会と量は、年々増える一方だった。

「お酒を飲むと、普段思っていたことや言いたかったことが何でも言えました。馬鹿に徹して周囲を和ませることに、ある意味命をかけていたほどです。人から注目され、必要とされるのが嬉しかったのです」

 しかし、いいことばかりではなかった。ハメを外しすぎて本気で注意されることもあり、離れていく友人もいた。

「お酒は僕にとって、“力の象徴”でした。幼い頃から自分の無力さを嫌というほど実感してきたので、自分のことが情けなくて嫌いでした。でもそれを認めることができず、自分と向き合うことを避けていました。お酒はそんな自分の嫌な部分を、覆い隠してくれていたのです」

 ところが、無理や背伸び、偽りにはいつか限界が来る。

 アルコールによる失敗を繰り返すようになると、飲酒することを妻に隠すようになっていった。激しい夫婦喧嘩も増え、しばらく口を利かないことも。

「飲酒が原因で母方の祖母の葬儀に遅刻するという失態を晒してしまったこともありましたが、『まだ仕事に支障をきたしていないから大丈夫。コントロールできている』と言って現実から目を逸らし続けていました」

 父親の激昂事件以降、2年ほど実家に帰っていなかった井上さんだったが、祖母の葬儀から再び3ヶ月に1回は実家に顔を出すようになっていた。

 しかし27歳になった井上さんは、今度は父親に黙って転職した。井上さんにとって転職することは、父親への復讐だった。

 転職先はこれまでと全く畑違いの広告代理店。知らない専門用語に翻弄され、激務が続く。それでも自分で決めた仕事であり、幼い子どももいるため、井上さんは無我夢中で仕事を覚え、働いた。

 そんな中、父親が飲酒して転んだ拍子に頭を強打し、入院したという知らせが入る。

「変わり果てた父の姿に平静を装っていましたが、本当は動揺していたのだと思います。居酒屋で1人で飲んで、初対面の客に喧嘩を売り、大喧嘩になりました。ことの発端は、『俺はこいつらみたいに毎晩飲んでは、社会や会社の愚痴を言って現実から逃げている奴らとは違うんだ!』と心の中で悪態をつき、僕が相手を見下す態度をとったこと。今思うとこの時の僕は、相手の中に自分を投影し、自分自身を見下していたのです。そしてその相手と自分自身から、『お前も一緒じゃないか! いい加減気付け!』と噛みつかれたのでした」

本屋での出会い

 父親との関係、妻との関係、仕事など、さまざまなことから目を逸らし飲酒に逃げてきた井上さんは、「今度こそ変わらなくては」と思った。

 しかしどうしたらいいのかわからない。井上さんは、とりあえず本屋に行ってみることにした。

「最初から心理学に興味があったわけではなく、本を読む方でもありませんでした。でも本なら、『1人で問題を解決する糸口を見つけられるのでは?』と思ったのです」

 この日から井上さんは、気になった本を片っ端から貪るように読んでいった。その中で、度々登場する「NLP」という言葉に引っかかる。『NLP』とは、Neuro Linguistic Programming(神経言語プログラミング)の略称で、別名「脳と心の取扱説明書」とも呼ばれる心理学の一つだ。

「僕はインターネットで『NLP』を調べ、1dayセミナーに参加したことをきっかけに、心理学に興味を持ち、さまざまな心理学のセミナーを受講し、1年後には心理的コーチングを受けるに至りました」

父親への手紙

 井上さんは心理的コーチングを受けることで、生まれて初めて自分自身や家族、仕事や過去に向き合い、“逃げない時間”を過ごした。それはすなわち、「自分軸」を見つける作業だったという。

「自分の強みや弱み、コンプレックスや好きなこと、嫌いなことがわかりました。喜怒哀楽を感じることができるようになり、僕の『価値観』が炙り出されると、これまで抱えていた悩みが解決できました。その上、自分の人生における目的や役割まで見つけることができたのです」

 目的や役割は、生きる上で迷った時にすぐに戻れる「自分軸」として機能し、他人の評価を気にして生きてきた井上さんの人生を大きく変えた。

 そのほか、井上さんが受けたコーチングの中で、最も有効と感じたのは、「書く」ことだった。

「書くことは、視覚・聴覚・触覚(体験覚)を刺激し、思考を見える化します。何度も取り組める『再現性』が高く、形に残り、後から振り返ることができます。そのため『自分の財産』になるだけでなく、『自分を客観視できる』という最大の効果があると思います」

 中でも井上さんが最も効果を感じたのは、父親への手紙だった。

「言葉で直接伝えるのは勇気が要る、恐怖心があるという場合は、無理せず手紙を書くことをお勧めします。『手紙』は、相手が他界している場合にも、自分の感情を客観視し、整理するのに有効だと思います。手紙は相手に渡しても渡さなくても良く、気持ちに区切りをつける意味で、自分で破って捨ててしまっても問題ないでしょう。手紙を書く目的は、無意識の深い部分にヘドロのように溜まってしまった心の叫びを、しっかりと表に出してあげること。相手は自分の思いを素直に受け止めてくれるとは限りませんし、相手の反応に期待すると、結果が違った時に新たな怒りがぶり返してしまいますから」

 井上さんは、幼い頃から抱いていた父親への思いを、時系列に沿ってひたすら書き出した。より鮮明に思い出すため、幼い頃の自分と父親の写真を手元に置き、「こんなことを書いたら傷つくかな?」という罪悪感は徹底的に排除して挑んだ。中途半端に取り組むと、効果が薄れてしまうからだ。

 井上さんは、書き上がった手紙を、父親に直接渡した。

「『手紙』を書くことで、自分の中の激しい怒りの感情の存在を知ることができました。その上で、『もう過去に縛られて生きるのはやめよう!』と思えて、心がスッキリと前向きになるのを感じ、初めて『自由』を体感することができたのです」

トラウマは連鎖する

 飲酒して転び、頭を強打した父親は、そのまま認知症を発症。母親が在宅で介護していたが、誤嚥性肺炎を起こし、病院で亡くなった。63歳だった。

 父親の育った家庭は、「あまり愛情を感じられない家庭」だったという。

 父親には7歳上に兄がおり、成績優秀。父親も負けていなかったが、猛勉強の末に兄が通った大学に落ちて、東北大学に進んでいる。兄弟仲はとても悪く、両親からもらった土地にそれぞれ家を建てたが、隣同士にもかかわらず、兄弟の付き合いは全くなかった。

 学歴至上主義家庭で育ったという井上さんの父親は、自分も学歴至上主義となる以外、子どもへの接し方がわからなかったのだろう。東北大学から一流企業に入社した父親は、自分の人生が“成功”であり、自分は“勝者”だと思いたかった。その裏には兄に負けた現実への「コンプレックス」があったのかもしれない。だから執拗に「俺はすごい」「俺の言うことが正しい」と言って、自分より力のない妻や子どもたちを力でねじ伏せてきたのではないか。

「祖父母によると、父には反抗期がなかったそうです。父の心の中にはずっと、面と向かって言えなかった両親への怒りがあったのでしょう。そして自分では認めたくない弱く情けない自分を、目の前の母に投影していたのだと思います。父にとっての母は、両親に対する怒りを出せる唯一の存在だったのかもしれません」

小さい頃から自身の感情を抑圧し続けた母

 一方、母親の育った家庭は、「“母親”の存在感がない家庭」だったようだ。

 母方の祖父は、外向きには明るい性格で人付き合いが活発な人だったが、身内には厳しかった。母方の祖母は、祖父のモラハラが原因で躁うつ病を患い、躁の時は明け方まで1人で騒ぎ、うつの時は夜でも暗い部屋で置物のように佇んでいた。

 病気のせいで家事があまりできない祖母のため、母親は小さい頃から3歳上の姉と共に、家の手伝いをしていた。井上さんが母親から直接聞いた話によると、幼い頃母親は、「態度が気に入らない」という理由で怒った祖母から手にアイロンを当てられたことがあるという。

 “母親”不在の家庭で育った母親は、自分を支配する夫の元で、コントロールされて結婚生活を送る。アイロンで自分の子どもの手を焼くような親に育てられた母親は、元々“何をするかわからない相手”と暮らすことには慣れている。自身の感情を抑圧し、そのことに気付かないようにしているうちに鈍麻し、「自分が本当はどうしたいのか」がわからなくなり、「自分の人生を生きること」ができなくなっていたのかもしれない。

 井上さんはこれまで何度も、母親を助けられない自分を責めていたが、無理もないように思う。物心ついてから成人するまで父親が母親を罵倒する姿を見てきて、母親は一度も父親に逆らったことがないのだ。住宅ローンのことで父親と井上さんの妻が口論になった時は、咄嗟に妻と孫を庇ったが、それは井上さんの成人後だ。子どもにとって、自分を守ってくれるはずの母親が自分を守ってくれず、父親に虐められている様子を見せられ続けていれば、「自分が敵うはずがない」と思ってしまうのも仕方がないだろう。

 父親は母親といることで自尊心を保つことができ、母親は経済的に父親に頼らざるを得ない。両親は共依存関係に陥っていた。そして井上さんも、「父に認められたい」という依存をし続けていたのだった。

パラダイムシフト

 父親に囚われて生きていた頃の井上さんは、飲酒に逃げ、妻と激しい夫婦喧嘩を繰り返していた。それはまさに、父親と同じだった。

 井上さんは、父親を反面教師にした「家族は仲良く、温かい関係でいるべき」「良い夫、良い父親でなければならない」という強い思いと、「男はしっかりと稼ぎ、家族を養うべき」という父親に叩き込まれた教えに縛られ、苦悩していた。

「自分が気づいていないものも含めて、強い思い込みは時に大きな足枷になります。足枷を解くには、まずは自分の思い込みを認め、『自分にはこんな思い込みがあったんだ』と客観視すること。その上で実践するといいと思っているのは、思い込んでいたことと真逆の言葉を口に出して繰り返し言ってみることです」

 井上さんは、

「家族は仲良く、温かい関係でいなくていい」「良い夫、良い父親でなくてもいい」「男はしっかりと稼ぎ、家族を養わなくてもいい」

 と繰り返し言うように習慣づけた。これにより井上さんは、夫婦喧嘩も飲酒の量も減っていった。結局自分を苦しめていたのは、他でもない、自分自身だったのだ。

 井上さんは、広告代理店に勤めながら、少しずつカウンセリングの仕事を増やしていき、35歳で「親離(しんり)カウンセラー」として独立。毒親問題に悩む人たちに、「親との関係から自分の人生を見つめ直すカウンセリング」を行っている。

「毒親の毒や、受けてきたトラウマを子どもたちに連鎖させない方法は1つではないと思いますが、僕は、自分の過去を受け入れることだと考えています。僕は今、過去の自分が一番他人に言いたくなかったことを伝える仕事をしています。これって結局、コンプレックスを強みに変えたということ。僕の経験が人の役に立つと気づくことができたことが、僕自身を変えたのだと思っています」

父と戦わなかったために、結局自分と戦うことになった

 30年近く抱えてきた「そのままの自分には価値がない」という思い込みから解放され、会社員ではない生き方ができているという点でも、父親へのコンプレックスを見事に克服している。

「考え方は極端でしたが、父なりに妻や子どもが苦労しないように必死だったのだと思います。父がいなかったらこの仕事にも出会えませんでしたし、今は感謝しています」

 そう言って井上さんは、こう続ける。

「その家族のルールみたいなものを代々守ってきて、何の疑問も持たずに『みんながやっているから自分もやる』『中の上くらいでいられればそれが幸せ』と思い込んでいる人は、自分で考えて行動したり、他人と共同創造することはなかなか難しいですよね。変わることができない人って、友達がおらず、家族からも避けられてしまえば、『裸の王様』です。自分の本当の姿を見る機会がなくなってしまうんですよね。父の場合は、僕たち家族が父を避け、気づかせてあげられなかった。だから父のことばかりを責められないというのもあります。僕が父と戦わなかったツケは後で巡ってきて、結局自分と戦うことになったのだと思います」

 自分と戦った井上さんは現在、高校3年生、中学2年生、小学2年生の3人の父親だ。妻とは週に1回は2人きりで出かけるほど仲が良いという。

 母親は、井上さんや姉が結婚して家を出てしまった後、父親が仕事から帰宅する時間になると動悸がして息苦しくなったそうだが、最近では見違えるように元気になった。おそらく母親にとって、井上さんと姉が生きる支えだったのだろう。

40~60歳は板挟みの世代

「最近、40~60歳くらいの僕と同世代のクライアントさんが増えているのですが、親世代とかそれ以上の人たちから『凝り固まった古い価値観』を押し付けられてきた僕たち世代と、僕たちの子ども世代の『個を大切にする自由な価値観』の板挟みになっていることが、僕たち世代の生きづらさの一因なのではないかと感じています」

 毒親育ちの人が、「自分の親は毒親だった」と気づくタイミングは、人生で4回ある。1回目は一人暮らしをするとき。2回目は結婚するとき。3回目は自分の子を持ったとき。最後は、親を介護するときだ。40~60歳くらいの人は、3回目と4回目を同時に経験する人も少なくないため、「生きづらい」と悩む人が多いのも不思議ではない。

 いずれにせよ、「国や社会が決めたから」「みんながこうだから」と、長いものに巻かれ、朱に染まって生きてきた古い価値観のままでは、もう幸せには生きられない。個人がしっかりと自分と向き合い、「幸せとは何か」を追求し続けることが、実は幸せへの一番の近道なのかもしれない。

(旦木 瑞穂)

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