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年賀状に一番書かれた文字は「死ね!」、割れたビール瓶でいきなり襲われかけたことも…“日本一の嫌われ者”になった女子レスラー・ダンプ松本(63)の人生がヤバすぎた

文春オンライン / 2024年10月6日 11時0分

年賀状に一番書かれた文字は「死ね!」、割れたビール瓶でいきなり襲われかけたことも…“日本一の嫌われ者”になった女子レスラー・ダンプ松本(63)の人生がヤバすぎた

あまりの人気ぶりから1985年にはCDアルバムを出したことも…(写真:ダンプ松本さんInstagramより)

〈 「お母さんに家を買ってあげたい」だけじゃない…極悪女王・ダンプ松本(63)が「ヒールレスラー」の道を選んだ“もう1つの理由”「怖い外国人選手と闘うのは嫌だなぁ~って」 〉から続く

「毎年、お正月に年賀状が一番多かった選手には会社からお年玉が出たんだけど、いつも私がダントツだった。枚数がとんでもないから。ただ、そこに書かれているのは全部『死ね!』なんだけどね(笑)」

 1980年代、“極悪女王”として日本中にその名を轟かせた女子レスラーのダンプ松本さん。日本一の悪役にまで上り詰めた彼女が直面した、今ならありえない“非日常”の数々とは? 新刊『 全日本女子プロレス「極悪ヒール女王」列伝 』(双葉社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 最初 から読む)

◆◆◆

一躍、日本一の悪役に

 1984年8月、クラッシュがダイナマイトギャルズ(ジャンボ堀&大森ゆかり)からWWWA世界タッグ王座を奪取すると、クラッシュブームが大爆発。クラッシュvs極悪同盟の鉄板カードで、全女の興行は日本中、どこに行っても超満員。クラッシュ人気だけでなく、ダンプ松本も一躍、大スターとなった。

 時代背景を考えると、この時期、ダンプが人気を博するのは必然でもあった。なぜならば、日本のプロレス界に絶対的な悪役がいなくなっていたからだ。

 新日本プロレスではラッシャー木村が国民的ヒールとなっていたが、1982年に長州力が反乱を起こすと、観客は長州を悪役ではなくヒーローとして持てはやした。同じタイミングでタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンが新日本から離脱し、ハルク・ホーガンが外国人エースとなったことで、新日本から悪役は事実上、消失した。

 一方の全日本プロレスでも1983年にテリー・ファンクが引退。敵役のアブドーラ・ザ・ブッチャーが新日マットに転出しており、わかりやすい善玉vs悪玉の図式はなくなっていた。ロード・ウォリアーズの出現など善悪を超越したスターが誕生し、こちらも新しいスタイルが構築されていった。

 ダンプ松本の人気に火がついたのは、ちょうどそんなタイミング。もはや男女の壁を越えて日本一の悪役になっていた。もっとも、当時の全女の客層はクラッシュに夢中になっていた女子中高生がメインで、いわゆるプロレスファンとはまたちょっと違っていたのだが、そんな女子中高生たちは、クラッシュを蹂躙する極悪同盟を本気で憎んだ。いまの時代では考えられないかもしれないが、おそらく、あの当時、日本で一番「死ね!」という罵声を浴びせられていたのがダンプだった。

「大変だったでしょ?ってよく言われるけど、私はファンに憎まれようと思って悪いことをやってきたんだから、ああやって国民から本気で憎まれるってことは、プロレスラーとしては“成功”なの。そこは覚悟を決めてやっているわけだから、けっしてつらいことばかりじゃなかった。

 そういえば毎年、お正月に年賀状が一番多かった選手には会社からお年玉が出たんだけど、いつも私がダントツだった。枚数がとんでもないから。ただ、そこに書かれているのは全部『死ね!』なんだけどね(笑)。

 みんなお年玉ありがとうねって気持ちですよ。カミソリも山ほど送られてきたけど、全部、有効に利用させてもらいましたよ。私、引退するまで一度もカミソリを買ったことがなかった。それだけ日本中からガンガン送られ続けていたからね(笑)。

 ギャラもどんどん上がっていって、母親に家を買ってあげることもできたけど、私がいると石を投げられたりするから『引退するまでは帰ってこないで!』って母親に言われたりしてね(笑)。街でご飯を食べている時に、いきなり割れたビール瓶で襲いかかられそうになったこともあった。その時はブル(中野)ちゃんと真知子ちゃん(コンドル斎藤)も一緒だったから、私を守ってくれたんだけど、やっぱり危ないよねってことで、巡業の時には外に出なくてもいいように『極悪弁当』が用意されるようになった。移動用のバスも極悪同盟専用のもの(通称・赤バス)ができたりね」

アメリカでは刺されないよう鎧のコスチュームを新調

 日本中から本当に憎まれるようになった極悪同盟。会場でダンプたちが入場すると、観客は本気で怖がり、誰も近寄ってこないようになった。

「だから、入場する時に刺されたり、襲われたりする心配はなかったんだけど、困ったのはちょっと離れたところからモノを投げられること。トイレットペーパーとかならまだいいけど、一度、カップラーメンを投げつけられてね。麺がそのまま背中に入っちゃって、あれは気持ち悪かったね」

 そんな事件から、極悪同盟のスタイルに変化が生じる。

「入場する時に大きな旗を背負うようにしていたでしょ? あれはじつをいうと、お客さんからモノをぶつけられても避けられるようにするためのガード用だった。憎まれれば憎まれるほど、モノを投げられるから旗の面積が大きくなっていく(笑)。

 WWFに行った時(1986年に参戦)には鎧よろいのコスチュームを新調したんだけど、あれはアメリカでは刺されるかもしれない、という判断で会社がつくってくれたのね。和風な鎧だから違和感もないし。そういうお金は全部、会社が払ってくれた。消耗品の凶器……そう、竹刀なんかも全部、会社持ちだった」

 入場時のコスチュームに関しては、こんな逸話もある。

「あの頃『積み木くずし』(TBS系)ってドラマが流行ったでしょ? まさにウチの妹があんな感じで、部屋が真っピンクだったのね(笑)。不良が着るような服もたくさんあったから、それをそのまま借りて、コスチュームにしていたこともあった。

 当時の不良とかワルのお手本が身近にあったのは大きかったよね。なにかをマネしてコスチュームをつくったんじゃなくて、ホンモノをそのまま着ていたんだから、見ている人にも凄味は伝わったんじゃないかな?」

 ヤンキー文化最盛期の80年代中盤ならではのお話である。日本中のヤンキーが極悪同盟を尊敬した、という噂まであるが、もっとすごいホンモノの方々からも極悪同盟は大人気を博していた。

ヤクザとの接待に呼ばれたことも…

「当時は試合後に接待の席があってね。まぁ、興行を買ってくれたり、協力してくれた地元のヤクザのみなさんなんかに呼ばれるわけですよ。クラッシュか極悪か選べるんだけど、極悪同盟のほうが人気あったね。みんなヒールの私たちが好きなわけだから、酒の席でもあのままのキャラで、若い衆をイジメたりね。

 いま考えたら、怖くてそんなことできないけどさ、当時はそれが当たり前だった。まぁ、裏で阿部ちゃんや会社の人が謝ってくれていたみたいだけどね。

 全女は三禁(酒、たばこ、男性との交際を禁止)があったから、酒を強要されても、それを理由に逃げられたし。ただ、どこに行ってもプロレスラーには肉を食わせろって感覚だから、接待が続くと毎晩焼肉が続いて、それには参ったね。そう、だから、晩御飯にはお金はかからない。そりゃ、家も建つよね(笑)」

(双葉社/Webオリジナル(外部転載))

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