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《袴田巌さん無罪確定へ》14時間の拘束、捜査官の見ている前で糞尿まみれに…「袴田事件」と“あの日、清水署の取り調べでおこったこと”

文春オンライン / 2024年10月8日 19時0分

《袴田巌さん無罪確定へ》14時間の拘束、捜査官の見ている前で糞尿まみれに…「袴田事件」と“あの日、清水署の取り調べでおこったこと”

©iStock.com

〈 《袴田巌さん無罪確定へ》「今、恐れているのは、僕を犯人にでっち上げた警察ですよ」“ねつ造”証拠と袴田事件の58年 〉から続く

 1966年の静岡県一家4人殺害事件で死刑が確定した袴田巖さんの再審=やり直しの裁判で、静岡地裁が無罪を言い渡したことを受け、検察側が控訴しない方針を固めたことが報じられた。

 9月に下された再審判決では、有罪の決め手とされてきた「自白」の調書や犯行着衣とされた「5点の衣類」など3つの証拠を、捜査機関による「捏造」と指摘されている。

 事件発生から約60年。その間、袴田さんの身に何が起こったのかーー。刑務官としても関わり、長年支援を続けてきた坂本敏夫氏のインタビュー記事を再公開する。(初出:文春オンライン2021年12月12日配信。年齢・肩書等は公開当時のまま)

「これ以上袴田さんの拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」

 1966年に静岡県で起きた「袴田事件」。袴田巌元被告は公判で無罪を主張したが、静岡地裁は68年に死刑を言い渡し、80年に確定。ところが2014年になって、静岡地裁は3月27日に再審開始を認める異例の決定を下した。それに際して、村山浩昭裁判長が述べたのが、冒頭の批判である。

 村山裁判長は、「(有罪の最有力証拠とされた物品は)捏造されたものであるとの疑問は拭えない」「捜査機関により捏造された疑いのある重要な証拠によって有罪とされ、きわめて長期間死刑の恐怖の下で身柄を拘束されてきた」と強く批判。問題の根深さを指摘した。

 今年9月には、67年に茨城県で起きた強盗殺人事件について、無期懲役で29年間収容された後、再審で無罪となった桜井昌司さんの損害賠償訴訟が、国と県に計約7400万円の支払いを命じた東京高裁判決で確定。いまなお、「不当捜査」は大きな問題になり続けている。

 なぜこのような事件が繰り返されてしまうのか。元刑務官で実際に袴田氏とも関わり、長年支援を続けてきた坂本敏夫氏に、ノンフィクション作家の木村元彦氏が迫った――。

◆◆◆

日弁連の支援と一変した刑務所の対応

 1年が経過した。1982年7月、袴田をずっと案じ続けていた坂本は予算要求書作成作業中に3回目の面接要請を行った。驚くべきことに官による対応が、これが同じ東京拘置所かと思えるほどに変わっていた。

 面接場所が冷房の効かない取調べ室に格下げになり、そこでは待てど暮らせど、袴田が訪れる気配は無かった。開始予定時刻から1時間が経過すると、副看守長がやって来た。そして、「今日は本人の心情が不安定なので面接はさせられない」と告げられたのである。

 坂本は他の日はスケジュールが埋まっているので、ならば所長に直接お願いさせてくれと食い下がった。いやしくも袴田との面接は、死刑確定囚についての書類作成という法務省事務官の公務のひとつである。妨害をされる理由など無いはずである。副看守長はしぶしぶ折れて、それから30分後、袴田はようやく刑務官と共に現れた。

 袴田は1年ぶりの再会を喜び「久しぶりです。お元気でしたか」と先にあいさつをよこした。刹那、そばにいた刑務官が怒鳴った。「袴田! 勝手にしゃべるな!」面接自体を潰したいかのような扱いと、手のひらを返したような高圧的な態度が露見した。なぜ対応が変わったのかは、刑務官が席を外した後に袴田が誇らしげに語った言葉で明らかになった。

「日弁連が私の応援をして下さることになったのです」と坂本に告げたのである。日本弁護士連合会が袴田支援の委員会を設置して立ち上がったのである。裁判を考えれば、これ以上無く心強い体制である。

「これはまずいことになるのではないか」

 しかし、刑務所、拘置所の実態を知る坂本は絶句した。

「拘置所側からの対応が一気に悪くなったことが、それで腑に落ちました。日弁連がついたことで袴田さんは、東京拘置所にとって極めて面倒な煙たい存在として認識されてしまったのですよ。これはまずいことになるのではないか。私は自分の立場を考えて迷いましたが、やはり大事なことを伝えることにしました」

 坂本は袴田の顔を凝視した。「今から話すことは拘置所の内部における情報です。絶対に手紙や日記に書かないで下さい。もちろん誰にも他言しないで下さい」と念を押した。

 袴田は「はい。もちろん事務官のお立場は分かっています」と答えた。

「ではお話をします。拘置所は法務省の管轄です。法を司る役所ですから、本来であれば、収容されている囚人の人権を公正に尊重する立場になくてはなりません。当然のことです」

 続いて、坂本は長い刑務官生活から骨身に染みて感じていたその拘置所の体質を袴田に踏み込んで伝えた。

「喜んでいる刑務官は、この拘置所にはほとんどいません」

「しかし、実際は法務省の主要ポストのほとんどは検察官に占められています。検察官の役所ですから、冤罪なんてありえないという幹部と現場は乖離しています。さらに日弁連がバックについた袴田巌に甘くすると幹部たちは自分の出世があやうくなるのを知っています。

 つまり、拘置所に公正は無く、有罪判決を求め勝ち取った検察の意向を代弁するような構造になっています。検察に対して裁判で戦うことになる弁護士は、拘置所にとっても敵なのです。

 だから袴田さんが日弁連の支援を受けることになって、喜んでいる刑務官は、残念ながら、この拘置所にはほとんどいません。あなたの無罪を信じてくれている人たちだけです。少なくともここの管理職は全員が日弁連を敵視している、つまりはあなたも敵視していると思って下さい」

 坂本は最後に変化の事実を述べることで、袴田に注意を促した。「私とあなたとの面接は去年まではクーラー付きの会議室で行っていましたよね。しかし、日弁連が支援を表明した今年はエアコンの無いこの取調室に変わった。そして担当は私にあなたに面接をさせないとまで言い切ったのです」。

「冤罪は存在しない」と思い込める理由

 袴田はじっと聞いていた。拘置所にとって自分は敵になったという。これまでの処遇の変化で思い当たる節があるのは顔をみれば分かった。坂本は自分の体験から訴え続けた。

「日弁連の弁護士とのやりとりは絶対に文書にしてはいけません。必ず送る手紙も届けられる手紙も両方とも検察に通知されますから、何かを伝えたいことがあるときは必ず面会にして下さい。弁護人との面会には刑務官は立ち会うことができません」

 袴田はうなずいた。

「それから刑務官に対しては『自分は冤罪だから、他の囚人とは違う』という様な態度を取らないで下さい。何度も言いますが、彼らは冤罪はありえないことだと思っているのです」

「それはなぜですか」

「戦前の特高警察が行ったような拷問が今の時代は禁止されています。だから暴力によって無理やりにさせられた虚偽の自白は無い。冤罪は存在しないと思っているのです」

 拷問は存在しないから、自白は正しい。その言葉に袴田は反応した。「取り調べに暴力は無いと事務官もそう思っているのですか?」顔が青ざめていた。

清水署で、何があったのか

 坂本はとっさに清水署で何があったのかを聞かなければならないと思った。これほどまでに自らの潔白を訴えている人間が、なぜ自白をしたのか。今、聞かなければ、来年はもう部署が変わって袴田に会う事はできない。坂本は覚悟を決めた。予算要求書作成のための面接は清水署のブラックボックスの蓋を開ける取材に変わった。

 そこから、袴田は取り調べで何があったのかを語り出した。

 袴田は一日12時間から14時間に渡る長時間の取り調べにも音を上げず、否認を続けた。清水警察は拘留期限の約3分の1が経過した頃から、拷問を始めたという。取調室には子どもが用を足すおまるのような簡易便器が持ち込まれ、排せつは捜査官が見ている前でしろと命じられた。便意に耐えている下腹に向かって何度も何度も警棒が打ち据えられ、袴田は自分の糞尿にまみれるという屈辱を強いられたと語った。

「顔を殴られ、投げ飛ばされ、蹴られ、意識を失うと水をかけられ、また棍棒で何十回も殴られるという責め苦が連日続けられました。意識は朦朧として記憶が飛びます。私が自白したとされる9月9日までの23日間、清水警察署は悪魔の館でした」

 警察の留置場を監獄代わりに使用できるという旧監獄法時代からの代用監獄制度によって袴田は清水警察の収容施設に確保されていた。被疑者を24時間いつでも取調べ可能な状況に置くことができ、それによって毎日、拷問に遭わされていたというのだ。

 袴田は一審の静岡地裁の公判で証言台に立った際にも、「(小便を)やらせないことが多かったです。まともにやらしちゃくれなかったです」「取調室の隅でやれと言われてやりました」などと取調室での排尿を強要されたと証言。

 これに対し、証人として出廷した取調官は「そのようなことはありません」などと否定。警察はその後も拷問の存在を認めてはいない。また、取り調べが録画されてもおらず、全容はいまだに明らかになっていない。

 ただ、2014年に静岡県警の倉庫で発見された取り調べ録音テープでは、この頃のやり取りが音声に残されているという。

 それによれば、否認を続ける袴田に、取調官が「やったことはやった」「間違いないだろ」などと繰り返し迫る中、「すいません。小便行きたいですけどね」「(小便を)やらしてやる」「その前に返事してごらん」と、引き続き自白をさせようと要求。

 その後、テープには「便器もらってきて。ここでやらせればいいから」という取調官の声が入り「そこでやんなさい」と促す様子や、「出なくなっちゃった」という袴田さんの声、続いて実際に用を足す水音なども確認できるという。

「手足の指の先に激痛が走りました。見るとすべての爪の間に…」

 袴田は坂本に言った。

「私は清水署の取調べで45通の調書を取られたことになっています。しかし、捺印したのは最初の数通だけです。あとは全く記憶にありません。私は9月9日に自白したと検事の調書に記載されていますが、罪を認めた記憶が無いのです。深夜に気絶から目が覚めたら、留置場の床に転がされていて、手足の指の先に激痛が走りました。見るとすべての爪の間に針で抉られた傷痕がありました」

 袴田は取調べの最後の日の記憶を「自分は蒸し風呂に入れられていて、私の顔を悪魔がじっと覗き込んでいました。そして富士山が真っ赤に燃えているのを見ました」と告げた。坂本は、袴田の精神が異常に錯乱していたのは想像に難くない、彼は自白すらしていない、とこのとき確信したという。

 3回目の面接はこうして終わった。

2人の「最後の会話」

 翌年から、坂本は所属部署が変わり、東京拘置所から離れた。次に訪れた袴田との4度目の接触は1988年の暮れであった。監獄法改正に向けて改訂作業を行うチームのメンバーになっていた坂本は、やはり現場の調査のために東京拘置所の視察に出向くことになった。

 この年、昭和天皇が危篤状態に陥り、崩御による恩赦が近くなったと予測した東京拘置所は、その前に刑を確定しようとしており、異様な空気に包まれていた。坂本は刑務官時代に出遭っていた死刑確定囚たちのことが気になっており、舎房の巡回時に独房の窓越しから、ひとりひとりに声をかけ、励ました。その中には、連続射殺事件の永山則夫(1997年刑死)や冤罪が長年争われた波崎事件の富山常喜(2003年病死)がいた。そして袴田の房に来た。

「私です。覚えていますか?」と坂本が顔を見せると、「事務官、もちろん覚えています」という言葉が返って来た。短い会話が交わされた。「がんばって下さい」「はい、がんばります。ありがとうございます」互いを認識し、しっかりとした会話を袴田と出来たのは、これが最後となった。

2021年の秋、対面した2人

 2021年10月。

 目指すマンションに到着すると、坂本は腕時計を確認した。「約束の10時よりも少し早いですけど、お邪魔しましょう」。

 インターホンを押すと、中から「ハーイ!」と快活な声がした。ドアを開いて招き入れてくれたのは、袴田巌の姉である秀子だった。

 秀子は袴田が逮捕をされてから、現在に至るまで弟を支え続けて来た。苦境を前を向くエネルギーに変えていくその様は多くの支援者からも尊敬を集めている。

「坂本さん、久しぶりです」。坂本と秀子は、袴田の再審を静岡地裁が認め、拘置の執行が停止されて以来の交流を重ねている。

「そう、初めて会ったのは、48年ぶりに弟が釈放されてすぐに開かれた支援集会でしたね。元刑務官というので、どんな人かと思っていましたが、巌のこともよくご存じで、こんな看守さんがいたんだと改めて驚きましたよ」(秀子さん)

「私もこんな明るいお姉さんが支援されているとは知りませんでした」

 日当たりの良い奥の間に通されると、そこには袴田が背もたれ椅子にポツネンと座っていた。

 しかし、今、袴田の目には坂本は映らない。「事務官、お久しぶりです」と、挨拶を交わすこともなく、視線は宙をさまよう。

「死刑確定囚のいる独房に移ってから、突然の変化が起きました」

 長期間に渡って拘束された人に起きる精神障害、いわゆる拘禁反応が袴田に現れ始めたのは、1980年に最高裁によって死刑が確定し、独房に移されてからのことだった。

 秀子は言う。「死刑確定のときは、味方の弁護士も200人の報道陣も世の中のすべてが敵に見えましたよ」。坂本は自分の責任に手繰り寄せた。「それは私にとっても重い言葉です」。

 少し間を置いて秀子が記憶の中から時系列を整理する。

「巌は最高裁の判決から、一気に変わりました。それまでは面会に行くと事件のことを一生懸命語っていました。それが死刑確定囚のいる独房に移ってから、突然の変化が起きました。ある日の面会で『昨日、死刑があった。となりの人だった。お元気でと言っていた』と言い出したんです。

 私はじっとして聞いていました。その日から、言う事がおかしくなっていったのです。『ここには電波を出す奴がいてかなわん』『サルがいるんだ』『俺は殺される』。とにかく面会に行ってもほとんど普通の話はできなくなった。挨拶以外はほとんど妄想の世界になったんです。そしてもう面会室にも出て来ないようになっていきました」

3年7ヵ月ぶりの面会…「俺が誰か分かるか?」

 信頼していた司法に裏切られ、いつ執行されるか分からない死刑の日を待たされているという状況になり、袴田の心は大きく壊れていった。

 姉との面会も拒否する姿勢を示し、拘置所に行って面会要請をしても姿を現さなくなった。俺に姉さんはいない、今はだめだ、俺は忙しい、という回答が返ってくるばかりで、送った手紙も読まなくなった。

 しかし、秀子はそれでも足しげく通い続けた。何年も空振りが続いた。1999年2月に3年7カ月ぶりの面会が出来た。現れた袴田はいきなり、「俺が誰だか分かるか?」と言い出した。「あなたは袴田巌でしょ」弟は「違う!」とだけ言い残して帰っていった。

 時間にして30秒だった。それからまた面会拒否が続いた。それでも秀子は東京拘置所に足を運んだ。次に会えたのは3年10ヵ月が経過した2002年だった。

再審の開始、そして48年ぶりの釈放

「もう事件のことについては一切聞かないようにしました。巌はすべてが妄想の中で、事件は無かったことだと言っていたから。

 俺は刑務所なんか入っていない。神の儀式があった。バイ菌が攻めて来る。法務省の言う事は聞かないといけない。法務省は誰? それは俺。こんな人知らん、もう帰る、そんなふうにあっと言う間に5分の面接が終わりましたけど、私は巌が息をしているのが見られればそれで良かったんですよ」

 袴田に面会さえ出来ないという状況の中、秀子は闘い続けたが、抗告はことごとく撥ね返された。2004年、東京高裁が即時抗告を棄却、2008年最高裁が特別抗告を棄却。それでもあきらめなかった。

 そして2014年3月27日。ついに静岡地裁が再審開始を決定した。村山浩昭裁判長がシャツの血液のDNAが袴田のそれと一致しないこと、新証拠として発見されたズボンも袴田のサイズが全く合わないことなどから「捜査機関によって証拠がねつ造された疑いがある」という判決を下したのである。これにより、袴田に対する死刑の執行と拘置が停止された。

 48年ぶりに釈放された袴田は2ヵ月の入院生活を終えて浜松に帰って来た。自由の身となった袴田はしばらくすると何かに憑りつかれたように家を出て連日、浜松の町を歩きまわるようになった。朝、家を出て3時間、昼食時に帰宅して、それからまた4時間。炎天下でも台風の日でも呟きながら、徘徊を続けた。支援者の猪野待子が言った。

「袴田の再収監は無いが、死刑囚のままである」

「『自分の命を狙う者がいるから、見張りに行かないとそいつらが出て来るから行くんだ』と怖い顔して同じルートを歩いていました。半年くらいで『あそこは終わった』と言って道を変えられるんです。そして私たちが付き添っているとパンや飲み物をご馳走してくれるんです」

 袴田はボクサー時代の記憶があり、よくロードワークで走った馬込川の方をてくてくと昇って行った。そのルーティンは知られたこととなり、浜松市民も時折、市中で困った表情の袴田を見かけると、巌さんがこの地点で道に迷っているよと電話をくれたりした。

 2017年7月13日。一人で歩いていた袴田は自宅そばの石段から転げ落ちた。それを見た通行人が救急車を呼んでくれた。以降、猪野は袴田の町歩きに同行するメンバーを募り、通称「見守り隊」を組織してサポートに入った。シフトを組んですでに4年間続けている。

 支援の輪は地元のみならず、全国に広がったが、東京高裁は2018年6月にまたも再審を認めない決定を下した。袴田の再収監は無いが、死刑囚のままである(2020年12月最高裁は審理差し戻しを決定)。

「看守が来た」と飛び出し、追いかけると…

 直後、坂本は袴田を訪ねた。秀子は「巌、今日は刑務官だった坂本さんが来られたよ」と告げた。しかし、あれだけ熱い交流をかわした坂本に対する記憶は現在は無い。「俺は町に行かないといけない」と言って袴田は表に飛び出した。看守が来た、また連れ戻されるという危機感が全身を覆ったのである。

 追いかけていった坂本はやさしく声をかけた。どうやら自分に危険を及ぼす人物ではないと気が付いた袴田はそばにあった自販機でトマトジュースを買って口にした。

「巌はトマトが大嫌いなんですよ。だから、どれだけ気が動転していたか、それで分かりました。

 お姉さん、今まで大変でしたねとよく言われるけど、私は私なりに生きて来た。死刑囚の姉ということで、世間とは距離を置かれてきたけど、巌は48年も苦労していた。だから、もうクダクダいうよりも好きにやらせてやるんだ」

 快活に語る秀子の横で坂本は言った。

「私は袴田さんと初めてお会いしたときに、冤罪は存在するのだと考えをあらためました。人相から発するオーラが違ったし、立ち振る舞いも。何よりもメチャクチャな拷問で無理やり書かせた供述以外に何も出て来ないじゃないですか。ねつ造した証拠なんて、卑劣なことまでして死刑を確定させるなんて官による殺人ですよ。それ以来、私は検察庁が大嫌いになりました。私は46歳で刑務官を辞めるんですが、それには袴田さんの影響がありました」

 半世紀以上が経った今も未だ全貌が見えない「袴田事件」。全ての真実が明らかになる日は来るのだろうか。

(木村 元彦)

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