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《追悼・大山のぶ代》「やっぱりペコは認知症なんだ」夫・砂川啓介が愛妻の病状を実感した瞬間

文春オンライン / 2024年10月11日 14時45分

《追悼・大山のぶ代》「やっぱりペコは認知症なんだ」夫・砂川啓介が愛妻の病状を実感した瞬間

90歳で亡くなった大山のぶ代さん ©文藝春秋

大山のぶ代さんが9月29日、老衰のため90歳で亡くなったことがわかった。

 

おしどり夫婦として知られた、大山さんと砂川啓介さん。砂川さんはいつ、妻の認知症の症状に気付き、受け入れていったのか。

 

長年のマネジャーである小林明子氏が語った記事「 大山のぶ代は夫 砂川啓介の棺に涙ぐんだ 」(2017年9月号、「文藝春秋 電子版」掲載)を、一部紹介します。

夫・砂川さんが亡くなったとき

 砂川(さがわ)さんが亡くなったことを大山にどう説明するか、最後のお別れをしてもらう前の日から悩みました。「亡くなった」という言葉は使いたくなかったし、どうしたら理解してもらえるか。小さな子どもに話すようにしなければ、いまの大山には伝わらないのです。そこで、こう話しました。

「砂川さんが病気で、何度も病院へ会いに行ったよね? いま眠っているんだけど、これからも眠り続けてもう起きないのね。だから会いに行こうね」

 大山は「うん」と答えました。その「うん」が、いつもお見舞いに行くときの「うん」と同じだったかどうか、大山の顔を見ることができなかったので、私にはわかりません。

 お線香をあげてから棺の前へ連れて行き、砂川さんのお顔を見てもらったら、大山は、

「お父さん」

 と、涙ぐみながら言いました。でも次の瞬間には、出口へスタスタ歩き始めていました。

「えっ? ちょっと待って。もう帰るの?」

「帰る」

 ふわっと砂川さんのお顔を見て、すうっと出て行ってしまったんです。帰りのタクシーでは、もういつも通り。「ここは昔、何とかの建物だったんですよね」と運転手さんが言えば、「ああ、そうそう」と軽く答えていました。数分前の出来事は忘れてしまいますから、そのときにはもう忘れていたと思います。

 だから、砂川さんの死を理解したのかどうか、本当のところはわかりません。理解したからスッと行ってしまったのか。棺の前で涙を流した。それだけは確かです。

《俳優の砂川啓介さんが7月11日、尿管がんのために亡くなった。80歳だった。妻で女優の大山のぶ代さん(83)は、2012年秋にアルツハイマー型認知症の診断を受け、昨年春から老人ホームで暮らしている。

 小林明子さんは、砂川・大山夫妻を担当してきたマネジャー。その付き合いは30年に及び、子どものいない夫妻にとって家族も同然の存在だ。

 大山さんは、2001年に直腸がんを手術した。このときの検査で、糖尿病が判明。74歳だった2008年には、脳梗塞で倒れている。その後遺症が認知症にスライドしたのではないか、と砂川さんは考えていた。》

認知症と診断されるまで

 2008年4月、専門学校で声優部の講師をしていた大山から、「なんかちょっと、具合が悪い」と電話がありました。私は事務所からタクシーで学校に駆けつけ、そのまま大山を乗せて慶應義塾大学病院へ向かいました。

 どこが悪いのかわからずに心電図やCTを撮ったのですが、神経内科の先生に「ちょっと呂律が回ってないみたいですね」と言われ、検査の結果、脳梗塞だと診断されました。「今夜もう1度、血栓が飛ぶかもしれません」とも告げられました。

 翌日、病室へ行くと、様子がガラッと変わっていました。血栓が詰まったのは前頭葉で、身体の麻痺は残らないけれども、記憶が混乱するということでした。会話も、うまくできなくなっていました。

 ひと月後、リハビリが始まりました。最初は簡単な足し算でしたが、たとえば「2+4」という問題に、大山が出す答えは「8」。全部掛け算になってしまって、なぜか足し算がまったくできないのです。

 慶應義塾大学病院に2カ月いてから、杉並のリハビリ病院へ転院するとき、会話は少しできるようになっていました。さらに2カ月してから退院し、自宅からリハビリに通いました。

 びっくりしたのは、ヘビースモーカーだった大山が、灰皿を見て「これ、何?」と言ったことです。「灰皿ですよ」「誰の?」「えっ。大山さん、タバコ吸ってたんですよ」「えっ、私が吸ってた?」って。タバコを止めたことだけは、記憶をなくして正解でした。

 脳梗塞から1年半後、おもしろい仕事が入り、これならやれると思い、1度だけ仕事に復帰しました。『ダンガンロンパ』というアニメの声録りです。先に声を録っておいてから絵を作るやり方だったので、楽だったのです。「やりますか」と訊いたら「うん」と言う。台本はちゃんと読めたし、仕事だとわかるとピッとスイッチが切り替わった感じがしました。

 ところが徐々に徐々に、大山の態度や行動が変わっていきました。台所に立ち、鍋を空焚きしていることに気づかず、横で野菜を切っている。残った料理を詰めた容器を、リビングの引き出しにしまう。「テレビのチャンネルが替わらない」と怒っているので見てみると、エアコンのリモコンを手にしている――。そのうち砂川さんが、「ちょっとおかしいかもなあ」と言うようになりました。

「私はどこへ行くんだっけ?」

 私自身が変だなと思い始めたのは、会話がかみ合わなくなったのと、服を二重にも三重にも着てしまうことでした。Tシャツを3枚も着ていて、「暑くないんですか」と訊いても、「ううん、大丈夫」と言うのです。

 感情も激しくなりました。横断歩道の青信号が点滅してそろそろ赤に変わりそうなとき、走って渡る人がいるじゃないですか。「危ないじゃないのー!」と、その人に向かって大声で怒ることがありました。

「私はどこへ行くんだっけ?」という電話も増えました。タクシーに乗ったのに、行き先がわからないのです。地名や、山手通りとか目黒通りという名前も言えません。けれども道順は覚えているので、「次の信号を右に曲がって、左に曲がって」は言えます。だから、自宅に帰って来ることはできるのです。

 きれい好きだったのに、お風呂を嫌がるようにもなりました。砂川さんが「入っておいで」と言うとしぶしぶ行くのですが、1分もたたないうちに上がってくるらしいのです。ところが、まったく濡れていないので「入ってないじゃないか」と言えば、「入ったわよ!」とカッとなる。

 そんなことが続き、砂川さんが入れるようになったのですが、男性ですし、うまくいきません。「ちょっと小林、ペコをお風呂に入れてやってくれないかな」と頼まれ、「ええ、いいですよ」と引き受けて、そこから私も介護に加わるようになりました。砂川さんは大山のことを、俳優座以来の愛称の「ペコ」と呼んでいました。

 ちゃんとしているときはちゃんとしているのですが、していないときはしていない。その差が激しいのです。ついに脳の精密検査をすることになりました。ところが、砂川さんは病院という場所が大嫌い。いつも大山には私が付き添っていました。直腸がんのときも、脳梗塞のときもそうでした。

 アルツハイマーという診断を受けて、私は「ああ、やっぱりな」と思いました。砂川さんに伝えたら、ショックだったようで何にも言いませんでした。予想はしていたけれど認めたくない、という様子でした。

 子どものいないお二人は、老後について40代の頃から考えていたようです。四字熟語の尻取りをしたり、「あれ」や「それ」という代名詞を使ったら罰金としてドラえもんの貯金箱に100円入れる、というルールはボケ防止のためでした。

 2013年、砂川さんに胃がんが見つかり、入院して手術をしました。病室へ毎日お見舞いに行ったのですが、大山は「具合はどう?」などと聞くわけでもなく、ボーッとしているだけ。それを見たとき、砂川さんはようやく「やっぱりペコは認知症なんだ」と実感したそうです。

 本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「 大山のぶ代は夫 砂川啓介の棺に涙ぐんだ 」)。

〈 〈90歳で死去〉「啓介さ〜ん」「お父さ~ん」認知症の妻・大山のぶ代は、闘病中の夫・砂川啓介の病室で声を掛けた 〉へ続く

(小林 明子/文藝春秋 2017年09月号)

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