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結婚指輪は「いらないです」、夫婦関係が「緊張感にも満ちている」理由は…60歳になった山口智子の“刺激的な人生”

文春オンライン / 2024年10月20日 6時0分

結婚指輪は「いらないです」、夫婦関係が「緊張感にも満ちている」理由は…60歳になった山口智子の“刺激的な人生”

山口智子 ©時事通信社

 今年1月にFOD(フジテレビの動画配信サービス)で配信が始まったドラマ『ペンション・恋は桃色 season2』には、山口智子がゲスト出演している。山口の演じた“東京のヒカリちゃん”ことヒカリという女性は、リリー・フランキー演じるペンションオーナーのハトコで、毎年夏になるとそのペンションへやって来ては、オーナーの娘と楽しくすごしていた。だが、その娘にヒカリが、自分と一緒に東京で暮らそうと提案したことをきっかけに、オーナー親子と彼女の過去の因縁があきらかにされていく。

モデル出身、朝ドラで俳優デビュー

 このオーナーの娘を演じるのが伊藤沙莉で、山口とは劇中、本当の親戚のように自然なやりとりを見せている。伊藤といえば、この9月までNHKの朝ドラ『虎に翼』でヒロインを演じたことが記憶に新しい。対して山口は、いまから36年前の1988年秋から翌春にかけて、折しも昭和から平成へと移るタイミングで、やはり朝ドラ『純ちゃんの応援歌』でヒロインを務めた。

 もっとも、近年の朝ドラの主演者が、伊藤を含めそれなりにキャリアを積んだ演技力のある俳優から選ばれているのに対し、山口はもともとモデル出身で、朝ドラで俳優デビューしたという点で異なる。それだけに苦労もしたらしい。『純ちゃんの応援歌』の撮影中には、実力がともなっていないところを努力と謙虚さで乗り切ろうと必死で、ときには「女優としてやっていく自信がない」と口にすることもあった――。そう著書で明かしたのは、このときの共演が馴れ初めとなった現在の夫・唐沢寿明だ(『ふたり』幻冬舎、1996年)。

実家は栃木県の老舗旅館

 きょう10月20日に60歳の誕生日を迎えた山口は、栃木県で老舗旅館を営む家に生まれ育った。もともとは小料理屋のような小規模な旅館だったのを、嫁いできた山口の祖母が夫の死後、女将として切り盛りしながら、結婚式場もある6階建てのビルにまで大きくしたという。

 山口は幼い頃に両親が離婚し、父親に引き取られた。父は風来坊なタイプで商売向きでなかったため、祖母は孫の彼女に旅館を継がせるつもりでいた。おかげで山口は子供の頃から将来自分が何になりたいか考えないようにしてきたが、一方で、《決められたレールがあることがすごくイヤで、反発したい自分もいる。その狭間で揺れ動きました》ともいう(『週刊現代』1988年12月10日号)。

すべてを捨てて家に帰ろうと思っていた

 地元の高校を卒業した山口は、すぐにでも女将修業をさせたかった祖母を説得して東京の短大に進学する。それというのも、在学中に自分がやりたいことをやり尽くして、そこから先はすべてを捨てて家に帰ろうと思っていたからだ(『週刊文春』2022年12月1日号)。

 そのつもりが、短大時代にスカウトされてモデルの仕事を始めた。祖母には「モデルは長くやる仕事でもないし、社会勉強になるから」などと言い訳しながら、何とかして東京にとどまる理由をつくろうと足掻くも、モデルを3年続けるうち、自分には向いていないとも感じるようになっていた(with編集部『わたしたちが27歳だったころ』講談社、2022年)。『純ちゃんの応援歌』のオーディションを受けたのはそんな時期で、ダメ元であったが思いがけず合格する。奇しくも同作で演じたのは、甲子園球場の近くの旅館の女将になる役だった。それもあって祖母も朝ドラ主演を喜んでくれたという。

伝説の“ジェットコースタードラマ”にも出演

『純ちゃんの応援歌』が終わり、その年(1989年)の夏には『同・級・生』で民放ドラマに初出演した。朝ドラではスタッフが守ってくれていたが、そこからいざ一人になると、自分が何をしたいのか、どういう女優になりたいのか、よくわかっていないことに気づき、迷う時期が2、3年続いたという。

 そこで一つの転機となったのは、1991年に『もう誰も愛さない』に出演したことだ。同作は、山口が主演の吉田栄作に足を舐められたり、ショッキングなシーンの連続だったことからジェットコースタードラマと呼ばれた。彼女によれば、《殺しとかレイプとか、すごい内容だったでしょう。それをまじめに受けとめて、考えすぎて私生活にまで持ち込むよりも、楽しんだほうがいいなと思ってやったら、結果がいいほうに出た。(中略)そしたら、だんだん自分のやりたいことも見えてき》たという(『ザテレビジョン』1994年2月18日号)。

 その後、1993年の『ダブル・キッチン』、94年の『スウィート・ホーム』『29歳のクリスマス』、95年の『王様のレストラン』と、山口が30歳前後に出演したドラマはことごとくヒットした。そのジャンルも恋愛ものから、ホームドラマ、コメディと幅広い。

結婚指輪は「いらないです」

『純ちゃんの応援歌』で出会った唐沢とは1995年、7年の交際を経て結婚した。会見は、山口が金屏風を背にするのはいやだと拒み、取材陣にごく簡素に報告するにとどまる。このとき彼女が結婚指輪をしていないので、記者から問われると、唐沢が「時間がなくて買ってません」と答える横で彼女は「いらないです」と繰り返した。照れ隠しとも思われたが、後日、唐沢が指輪を贈ると、彼女はしみじみとそれを眺めながら、《私には、もったいない。私、こういうものの価値がよくわからないのよ》と言ったという(前掲、『ふたり』)。

「主婦になりたい」という夢があった

 翌1996年にはドラマ『ロングバケーション』で木村拓哉演じる年下のピアニストと同居するモデルを演じ、社会現象を巻き起こす。同年には『ビリケン』『スワロウテイル』など出演映画もあいついで公開された。しかし、これを境に俳優業からしばらく遠ざかる。

 もっとも、本人に言わせると、《とくに大きな決断をしたというわけじゃないんです。/結婚した直後だったこともあり、小さい頃に漠然と抱いていた『主婦になりたい』という夢をちゃんと実行してみようかなと。主婦って衣食住に関わって生活をクリエイトする仕事でしょ。面白そうだなと思って。それで家のことを楽しんでたら、あっという間に4~5年経っちゃった(笑)》ということらしい(『FRaU』2016年3月号)。

職人の技と精神に関心を寄せるように

 40代に入るあたりからは、職人たちの技に関心を寄せるようになる。決定的だったのは2005年、オランダの画家ゴッホの葛飾北斎からの影響に焦点を当てたドキュメンタリー番組(BS日テレ『山口智子 ゴッホへの旅 「私は、日本人の眼を持ちたい」』)に出演したことだった。このとき、ゴッホがなぜ北斎の木版画に憧れたのかと考えるうち、《木版画というのは一枚にいろんな技が集約されているでしょう。刷り師、彫り師、紙を提供する人、それをプロデュースして世の中に広める人、とにかくたくさんのプロフェッショナルが集まっている、そこに魅力を感じたのではないかと思った》という(『婦人公論』2007年5月7日号)。

 番組のロケから帰国して、実際に木版画の彫り師の仕事を見学したところ、高度な技術を発揮しながらも、自分が芸術家だという気負いもなくこなす職人の精神に打たれた。それからというもの、日本各地を職人を訪ねて回るようになる。すてきなものに出会い、つくり手に会いたいと思うと、まず電話をかけ、《そのうち行きます、ではなくて、近くまで来ているのですがご都合は?とたずねると意外に実現します》というのが山口流だ(『AERA English』2011年5月号)。

2010年に新たなプロジェクトを始める

 職人たちと接することは、彼女を新たな挑戦に駆り立てた。かつてCM撮影で知り合ったアメリカ人ディレクターのギャリー・バッスンと組み、2010年にスタートさせた『LISTEN.』というプロジェクトがそれだ。これは世界各地の民族音楽を映像に記録してアーカイブ化するというもので、山口はその意図を《言い訳の効かない『形』の美で勝負する職人精神を学ぶうちに、私もエンターテインメント界に属する人間として、未来に誇れる職人仕事をしたいと思うようになりました。/そこで追いかけ始めたのが、世界の音楽文化です。音楽も『もの』と同じく、心から発せられた美しい音には、嘘や偽りがないものだから》と説明している(「OurAge」2024年9月17日配信)。

兼高かおる賞を受賞

『LISTEN.』はBS朝日で年に数回放送されたが、《私はあくまでカメラの後ろから、ホンモノだけを映像に収める仕事に徹したかった》として、彼女は画面に映ることを極力避けた(山口智子『LISTEN.』生きのびるブックス、2022年)。その制作も、まず彼女とバッスンが現地へロケハンに行き、さまざまな人に会いながら、その土地の音楽を探してまわると、そのあとでいったん自分たちの国に帰って準備を整えた上、撮影に赴くという地道なものであった。

 開始して10年が経ったころ、コロナ禍で新たな撮影ができなくなったこともあり、それまでの活動を本にまとめるとともに、集めた映像や録音をウェブを通じて発信することも始めた。こうした業績から、昨年には第2回兼高かおる賞が贈られている。山口は子供のころから、テレビの海外紀行番組の草分けである『兼高かおる世界の旅』が大好きだっただけに、この受賞は格別うれしかったことだろう。

 そんなふうにアクティブに世界中を飛び回る山口を、夫の唐沢は《“好きなことを追求すればいいよ”といつも気持ちよく送り出してくれます。例えるなら野生動物をのびのびと放し飼いにしてくれる感じ》といい、彼女は心から感謝している(「VOGUE JAPAN」ウェブ版、2019年6月25日配信)。

唐沢寿明との「緊張感にも満ちた」結婚生活

 もっとも、唐沢は夫婦で旅行しても、ホテルにこもったままテレビを見ていて観光はしないという。そのほかにも彼とは結婚するまでこれほど趣味嗜好が違うとは思わず、山口は歯がゆい思いをしたことも多々あったらしい。だが、それも20年が過ぎたころには《今は、互いに違うから面白いと思えるようになりました》と語るまでにいたった(『AERA』2016年5月23日号)。

 旅行でも唯一スペインだけは、夫婦でバル(スペイン式の飲食店)を巡ったり、庶民の踊るフラメンコを観て感動できるので、年に1度は出かけているようだ。コロナ禍のさなかには、唐沢が好きなクラシックカーを運転して、伊勢や日本海のほうまで旅をしたとか。

 山口は唐沢との関係について《私にとって、パートナーとの繋がりは何よりも大切です。良い関係を育もうという意欲のない結婚では意味がない。そのための努力は惜しまない。そういう意味では、私たちの関係は安心感とともに、毎日幸せを更新するぞという緊張感にも満ちています》とも語っていた(同上)。要は夫婦関係も、仕事と同じく日々営々と築いていくものであり、それ以外にお互いに幸せになれる道はないということなのだろう。

俳優業をセーブしているわけではない

 俳優の仕事では、2012年に16年ぶりの連続ドラマ出演となった『ゴーイング マイ ホーム』以来、作品数は限られるものの、冒頭にあげた配信ドラマのほか、昨年公開の映画『春に散る』でボクシングジムの会長を演じるなど活躍を続けている。本人としては俳優業をセーブしているわけではなく、《お声がかかれば喜んで参上する気満々ですが、「どうせ日本にいないだろう」と、皆さんに思われてるみたいで(笑)》ということらしい(『週刊文春』前掲号)。

SNSが苦手だったが、YouTubeを始めてみると…

 昨年には、YouTubeに公式チャンネル「山口智子の風穴!?」を開設し、日本を再発見する旅の模様を伝えている。じつはそれまで、どちらかといえば放っておかれたい性格の彼女はSNSが苦手で、携帯電話のような機械的なものに時間を割かれるのもいやだった。それがいざYouTubeを始めると、《新しい出会いが続々と飛び込んできて、人生がさらに面白くなってきました》という(「NEWSポストセブン」2024年1月29日配信)。テレビで番組を立ち上げるのは大変だが、YouTubeなら思い立ったらすぐ形にできる点も素晴らしいと話す。

「面白い刺激を発信できるバアさんになりたい」

 かねてより《歳を重ねると若い頃よりも、もっともっと心を鍛える努力は必要。気を抜いてトキメキを忘れたら、楽しくないジジババになってしまう。若い世代に、面白い刺激を発信できるバアさんになりたいです》(前掲、『わたしたちが27歳だったころ』)と語っていた彼女にとって、YouTubeは格好のツールとなっているようだ。今年、還暦を前に応えたインタビューでも《若者がこぞって話を聞きたくなるような、超エンターテインメントのストーリーテリングを目指したい!》と宣言していた(前掲、「OurAge」)。

 もっとも、いまの平均寿命からすれば60歳はまだまだ「ばあさん」と名乗るには早い。山口自身も、早く結果を出すことばかりがすべてではないと、時間がかかるものにはちゃんと時間をかけることの大切さを常々説いてきた。とすれば、「面白いばあさん」になるのも、それなりに時間をかける必要があるはずだ。

 8年前のインタビューで彼女は《俳優でいるためには人間として成長し続けなきゃいけない。年を重ねたぶんだけ、人間としてストンとそこに立っただけで人生の厚みを醸し出せる存在感を放てるようになりたい。『ザマーミロ、ここまで来てみろ』って言えるような、カッコいいオーラを発したい(笑)》と発言していた(『FRaU』前掲号)。その言葉どおり、旅先での感動や発見を糧にますます成長し、さらにそれを演じる役にフィードバックしていくのかと思うと、俳優・山口智子はさらに大化けしそうな予感を抱かせる。

(近藤 正高)

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