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2025年大河ドラマ「べらぼう」で風間俊介演じる鶴屋喜右衛門は蔦屋重三郎のライバルだった!?

文春オンライン / 2024年11月5日 6時0分

2025年大河ドラマ「べらぼう」で風間俊介演じる鶴屋喜右衛門は蔦屋重三郎のライバルだった!?

谷津矢車『憧れ写楽』11月8日発売予定

 2024年9月、大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」に関する公式発表があった。鶴屋喜右衛門のキャストが発表されたのである! 「3年B組金八先生」第五シーズン最大の敵役である兼末健次郎の好演が当時リアタイ勢だったわたしの胸に刺さり続けている、あの風間俊介さんである。おお、イメージ通りだ! 風間さんが演じるということは鶴屋喜右衛門の扱いが大きいのではないか? と一人SNSで騒いだ今日この頃である。

 ブラウザ越しに本稿を読んでいる皆さんの、醒めた視線を感じてならない。皆さんの多くは「鶴屋喜右衛門って誰?」状態であろう。

 鶴屋喜右衛門は、「べらぼう」の主人公、蔦屋重三郎のライバルといっても過言ではない人物だ。代々続く版元(出版社兼書店)の主で、蔦屋と同時期に活躍している。寛政期の一時期、どうしたわけか蔦屋と疎遠になった喜多川歌麿(創作物ではこれを二者の仲違いと見る向きも多い)を迎え美人画を刊行している。戯作者への原稿料が存在しなかった(!)時代に、蔦屋と一緒になって山東京伝に原稿料を用意したのも鶴屋喜右衛門である。後世、柳亭種彦の代表作『偐紫田舎源氏』を版行したことでも知られる。

◆◆◆

鶴屋喜右衛門は蔦屋と同年代?

 東洲斎写楽の正体を追い、蔦屋の思惑を暴く時代ミステリ『 憧れ写楽 』を企画した際、探偵役を鶴屋喜右衛門に据えたのは、ざっとこうした史実からである。

 だが、鶴屋喜右衛門を探偵役にするに当たり、一つ厄介な点があった。

 彼の年譜がはっきりしないのだ。

 そもそも「鶴屋喜右衛門」は三代続く名とされていて、蔦屋と同時代だったのが何代目だったのかも明らかではない。

 江戸期の町人は生没年すら判明しない時がある。この点、蔦屋は例外といっていいくらいである。もちろん、小説は創作物であるから適当に書いてもよい。が、適当に書く前にあがいておくのは、作家の職業倫理というやつである。そんなわけで、企画段階で、彼の生まれ年について考察を試みたのだった。

 曲亭馬琴が『近世物之本江戸作者部類』に書き残したところによると、先代の実子の鶴屋喜右衛門が、天保四年十二月、享年四十六歳で急死したらしい。これを信じれば、この項目における喜右衛門は天明(1781-1789)末期の生まれということになり、寛延3年(1750念)生まれのの蔦屋とは親子以上の年齢差があることになる。ということは、蔦屋と同時代に活躍した鶴屋喜右衛門は、天保年間に死んだ喜右衛門の父親なのだろう。そんなわけで、蔦屋と同時期に活躍した鶴屋喜右衛門は、蔦屋と同年代、あるいは少し下の世代、くらいのところまで絞り込めたわけだ。風間俊介さんを指してイメージ通りとわたしが感じた所以である。

実は分かっている、「写楽の正体」

 さて、拙作『憧れ写楽』は、名前の通り、浮世絵師東洲斎写楽の正体に迫る、いわゆる写楽正体説ものである。

 東洲斎写楽は活動時期の短さもあって実像が見えない。その割、世界的に知名度の高い絵師だ。写楽正体説ものは、写楽のそうした特徴を逆手に取って盛り上がった、時代小説、歴史ミステリ、ノンフィクションに跨がる定番の謎である。小説分野においても、この謎を扱った名作が生まれた。高橋克彦『写楽殺人事件』、泡坂妻夫『写楽百面相』、島田荘司『写楽 閉じた国の幻』などを挙げることが出来よう。

 一方史学分野では、写楽の正体はほぼ比定されている。

 阿波蜂須賀家のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛だ。

 天保期に著された斎藤月岑『増補浮世絵類考』の写楽の項目に「俗稱(称)斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」の記述がある。これ自体は古くから知られていたが斎藤十郎兵衛の実在が確認できず、写楽正体説ものが過熱、百花繚乱の様相を呈した経緯がある。だが、平成に入り、八丁堀地蔵橋に能役者の斎藤十郎兵衛がいたという記述が他史料から発見され、『増補浮世絵類考』の記述を裏付ける格好となった。二〇二四年現在、写楽正体説もののフィクション、ノンフィクションが下火になったのは、こうした研究の進展を受けてのことだ。

 歴史学の観点からは写楽=斎藤十郎兵衛でよかろうし、誰かに聞かれたら、わたしも「史実ベースなら写楽は斎藤十郎兵衛でいいと思います」と答えることだろう。

 しかし、である。

 この研究状況を前提にしてもなお、写楽正体説ものの小説を書けるのではないか。斎藤十郎兵衛が写楽であると認めた上で、実は写楽はもう一人いて……と物語を運べば誰も書いたことのない正体説をでっち上げられる、わたしはそう考えたのである。

 最近、ファクトとフェイクを分別せよとやかましい。そうした時代にあって、フィクションは潜在的に公共の敵になり得る存在である。事実、歴史小説界隈には、そのように扱われてしまった作品が数多ある。

 事実を伝える使命を持ったメディアは、フェイクを排除すべきだろう。だが、小説は、嘘でもって形作り、事実では描きようのない何かを読者に届けるメディアだ。

 わたしが読者さんに何を届けようと嘘を紡いだのか、是非、見定めていただきたい。

『憧れ写楽』、書店様などでお見かけの際にはなにとぞ。

(谷津 矢車/文藝出版局)

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