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地下鉄サリン事件の朝の“一部始終”「痙攣を起こしていたり、泡を吹いたり…」「瞳孔がピンホールのように小さい」

文春オンライン / 2024年10月26日 6時0分

地下鉄サリン事件の朝の“一部始終”「痙攣を起こしていたり、泡を吹いたり…」「瞳孔がピンホールのように小さい」

地下鉄築地駅で汚染された電車内の除染作業をする自衛隊員[陸上自衛隊提供] ©時事通信社

 猛毒サリンを使った無差別テロ「地下鉄サリン事件」からおよそ30年。『 警視庁科学捜査官 』(文春文庫)より一部を抜粋。著者で科捜研研究員だった服藤恵三氏が取材を受けたNHK「オウム VS. 科捜研 ~地下鉄サリン事件 世紀の逮捕劇~」(新プロジェクトX〜挑戦者たち〜)が10月26日に放送される。本書ではオウム真理教教祖・麻原彰晃(松本智津夫)逮捕のためサリン製造の全容解明に尽力した知られざるドラマに迫る。(全4回の1回目/ #2 に続く)

◆ ◆ ◆

鳴りやまない救急車のサイレンが…

 その日も、いつものように6時ごろ起きた。毎朝のバタバタを経て、急いで子供を保育園へ連れて行く。駅までは恒例の駆け足。飛び乗った満員電車に揺られ、地下鉄の桜田門駅で降りて、職場である警視庁の科学捜査研究所(科捜研)に着いたのは8時前だった。科捜研は、警視庁本部庁舎の隣にある警察総合庁舎の7、8階に入っていた。

 私は係長として、毒物や薬物の鑑定と検査を担当していた。白衣に着替え、仕事に取りかかる準備をしていると、救急車のサイレンが聞こえ始めた。この時間の霞が関では珍しい。「どこかの役所で急病人でも出たのかな」と思った。ところが、サイレンの音は鳴りやまないどころか、数がどんどん増えていく。時計を見ると、8時20分前後だった。

 これは普通じゃない。何かが起こっていると感じ、科捜研の庶務にある警察無線・同時通報を聴きに行った。

「地下鉄の築地駅構内で、人がたくさん倒れている」

「小伝馬町駅で、多数の人が倒れている」

「人形町駅、八丁堀駅、霞ケ関駅でも同様」

「築地駅に停車中の車両内で異臭」

 情報は錯綜していた。

 直感的に「来る」と思った。科捜研に、緊急鑑定が持ち込まれるのである。

 地下鉄の車両や駅構内で、多数の人が同時に体調を崩している。半密閉空間という状況から考えると、ガス化する何かの毒物が発生しているに違いない。違和感を覚えたのは、いくつもの場所から同じような状況が報告されていることだ。広域かつ同時に起こっているとすれば、人為的な原因である可能性が出てくる。

 ふと、前の年に佐藤英彦刑事部長(後に警察庁長官)からかけられた言葉が蘇った。

「服藤君。もし東京都心でサリンが撒かれたら、すぐに対応できるようにしておいてくださいね」

 前の年、つまり平成6年6月27日、長野県松本市の住宅街で猛毒の化学兵器サリンが撒かれ、死者8人、重軽傷者約600人の被害が出た。犯人は、まだ捕まっていなかった。警察庁の科学警察研究所(科警研)が分析を担当したが、毒物が国内で初めて使われたサリンだったため、突き止めるのに苦労した話を聞いていた。

「準備は、すでにできています」

 佐藤刑事部長に向かって、そう答えたのを覚えていた。しかし今は、考えないようにしようと思った。とにかく自室へ戻り、何が持ち込まれても鑑定できるように、準備にかかった。

「痙攣を起こしていたり、泡を吹いたりしています」

 緊急鑑定は、持ち込まれた資料から溶媒抽出という方法で原因物質を取り出し、分析機器にかけて同定する。一般に毒物は、水溶性、非水溶性、その中間の性質に分けられる。酸性・アルカリ性の液性によって、分解してしまうものもある。大切なのは、資料から対象物質をどのように抽出するか。抽出する溶媒は、鑑定人が各自の処方箋で調整するから、力量が問われるところでもある。

 当時の私は、3種類の溶媒を用意していた。水に溶けやすい場合は、アルコールを主体としたもの。油性には、ヘキサン(ベンジンの主成分)を主体としたもの。中間の場合はヘキサンとクロロホルムの混合液に、状況によってアルコールを混ぜたものを主体とし、鑑定資料に応じて使いわけていた。分析機器は、ガスクロマトグラフ質量分析装置(通称ガスマス)だった。

 通常は、原因と思われる液体や固体が現場で発見され、慎重に持ち込まれる。発生した物質が気体である場合は、特殊な資機材がないと収集・運搬・分析は難しい。突発的な事態だったり被害者への対応に追われる現場では、気体の採取は不可能に近いといえる。

「急いで頼みます」

 9時5分ころだった。緊張した声と同時に、捜査員が駆け込んで来た。

 鑑定資料の受付は、若手の職員が行なうのが慣例だ。しかしこのとき、受付には誰もいなかった。部屋の責任者である管理官は、所長と一緒にすでに霞ケ関駅へ行っている。

 ビニール袋を差し出す捜査員と目が合った。自分が鑑定すべきとすでに決めていたので、自然に歩み寄った。

「お願いします。築地駅構内に停車中の、車両床面の液体を拭き取ったものです」

 受け取るが早いか、

「現場の状況はどんな感じですか。被害者の方々は?」

 と訊いた。鑑定に際し、少しでもいいから現場の情報を知りたかった。

「たくさんの人が咳き込んだり、うずくまったりしています。吐き気や、目や喉の痛みを訴えている人がほとんどです。症状のひどい人は、痙攣を起こしていたり、泡を吹いたりしています。心臓マッサージを始めている人もいます」

 一呼吸おいて、

「それから、みんな一様に『暗い暗い』と言っています。実は私も今、暗いんです。この部屋、電気ついてますよね? でも、夕方のように暗いんですよ」

「ちょっと目を見せてくれる?」

 捜査員の目をのぞき込んだ。瞳孔がピンホールのように小さくなっていて、手で影を作ってもピクリとも開かない。

「縮瞳が起こってる。早く警察病院に行ったほうがいい」

 と声をかけて、捜査員を帰した。

 心肺停止の人がいる。泡を吹いているのは、肺水腫を併発しているためだ。骨格筋の痙攣を起こしている人もいる。そして縮瞳―。「有機リン系の毒物だ」と、直感的に思った。普段なら、有機リン系の毒物といえば農薬を想定するのだが、いやな予感が再び脳裏をよぎる。

モニター画面に映し出された〈Sarin〉の文字

 さて、受け取ったビニール袋をどこで処理するか。通常、ガスが発生する毒物資料を処理する際は、ドラフトチャンバーを使う。壁面に設置された、上下スライド式のガラス窓が付いた小型作業装置で、内側に吸気装置が付いており、排気は無毒化されて屋外へ排出される。ドラフト内に空気が吸引されるため、室内に危険なガスは出てこない構造になっている。そこへ手だけ入れて作業する。

 ところが、当時の警視庁科捜研にあったのは簡易ドラフトで、排気の無毒化装置が付いていなかった。しかも吸引したガスの一部が、廊下へ排出される仕組みだ。

「これじゃダメだ」

 とっさの判断で、ピンセット、溶媒の入った共栓付き三角フラスコ、受け取ったビニール袋を持って、屋上へ駆け上がった。屋上に着いてからゴム手袋とマスクを忘れたことに気づいたが、部屋に戻る時間が惜しい。少し吹いていた風を背にして、息を止めて作業しようと決めた。

 ビニール袋は三重になっていた。中には、薄黄色の粘性のある液体で湿った脱脂綿が入っている。1つ目のビニール袋をほどいた時点で、共栓付き三角フラスコをその中へ入れた。最も内側の袋を開くときは息を止め、長さ約30cmのピンセットで慎重に脱脂綿を摘まみ上げ、フラスコに入れて素早く蓋をした。

 これで一安心。溶媒に溶かしてしまえば、ほとんど揮発しないのである。このあと、通常は薄層クロマトグラフィーなどで精製したのちに分析するのだが、時間がない。資料が汚染されていなかったことと緊急性・安全性を考慮し、そのまま分析装置にかける選択をした。

 9時34分、ガスクロマトグラフ質量分析装置のモニター画面に、構造式と共に文字が映し出された。

〈Sarin〉

「やっぱり」と「なぜ」が交錯した。サリンの実物を見たことはないが、無色の液体とされている。分析では、サリンと共にN,N‐ジエチルアニリンが検出された。反応促進剤として用いられることもある物質で、脱脂綿に付いていた液体の薄黄色は、これが由来だと推定できた。

「すると不純物の混在した、精製されていないサリンか?」

 通常の鑑定では、複数の分析・検査によって物質を特定する。しかし本件の場合、結果の特定は緊急を要する。危険性も高く、他の検査法を併用する余裕がなかった。そこで、資料の性状や被害者の症状なども総合的に踏まえ、サリンで間違いないと結論付けた。

 一方で、同時多発的に起こっているとすれば、複数の者が関わっていることになる。日本にそのような組織が存在し、その組織の中にはサリンを生成できる人物がいることに驚愕した。

 何よりも、誰が何のために……との思いが駆け巡った。

 平成7年3月20日月曜日。地下鉄サリン事件の朝である。

〈 「処置に困っています」地下鉄サリン事件発生直後、被害者が次々に運び込まれ…病院からの切迫した“電話の内容” 〉へ続く

(服藤 恵三/文春文庫)

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