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JR南武線“ナゾの途中駅”「武蔵溝ノ口」には何がある?

文春オンライン / 2024年10月28日 6時0分

JR南武線“ナゾの途中駅”「武蔵溝ノ口」には何がある?

JR南武線“ナゾの途中駅”「武蔵溝ノ口」には何がある?

 旧国名を冠している駅の名は少なくない。具体的にいえば、「上総一ノ宮」「安房鴨川」みたいな駅のことだ。同じ地名は日本中あちこちにあり、その地名だけを駅名にすると区別できずに紛らわしい。なので、頭に旧国名を頂くことで、間違えちゃったりしないようにしている、というわけだ。

 駅が名付けられた時代にはスマホの乗換案内のようなものはなかったが、もしも同じ名の駅がいくつもあったら、青海に行こうとしたら青梅だった、みたいなトラブルが日常茶飯事になっていたかもしれない。

 そんなことはさておき、駅名に頂かれている旧国名でとりわけ多いのが、武蔵国だ。武蔵国は東京、埼玉、そして神奈川県の一部、つまり日本で最も人口が集中しているエリアなのだから、駅の数も多い。必然的に武蔵○○駅も多くなるというわけだ。

 そして、武蔵○○駅がさらに特に多く集まっているのが、JR南武線である。なんと、武蔵小杉駅から武蔵中原駅、武蔵新城駅、武蔵溝ノ口駅と4連発。これではかえってややこしいのではないかと思うくらいだ。

 この南武線武蔵4兄弟のなかで、いちばん知られているのはやはり武蔵小杉駅だろう。東横線と南武線、湘南新宿ラインや横須賀線が乗り入れて、駅の周りにはそびえ立つタワマンの森。ここ数年、良くも悪くも注目を集めることが多い駅のひとつだ。

 が、そんな武蔵小杉駅の陰に隠れてはいるけれど、武蔵溝ノ口駅の存在を忘れてはならない。

JR南武線“ナゾの途中駅”「武蔵溝ノ口」には何がある?

 武蔵溝ノ口駅は、南武線と東急田園都市線(東急は溝の口駅)が交差するターミナルだ。

 他にも南武線には登戸駅や稲田堤駅、分倍河原駅のように、都心から郊外に伸びてくる路線と交差する駅がある。これらの駅の存在こそが、南武線の存在意義といっていいくらいだ。そうした意味合いにおいて、最も歴史が古い、つまり南武線の存在意義といちばん密接な関係にあるのが、武蔵溝ノ口駅なのである。

 武蔵溝ノ口駅とその周辺、かつて溝ノ口村といった一帯が特別な地域だったということは、歴史も証明してくれる。多摩川沿い、東西に細長く広がる川崎市にあって、その中部の中心は長らく武蔵溝ノ口。武蔵小杉がまだまだ工業地帯一色だった頃から、繁華街として開けていたのは、溝ノ口だったのである。

 そんな武蔵溝ノ口、ただ田園都市線と南武線の乗り換えで通り過ぎるだけというのはあまりに惜しい。いったいどんな町なのか、歩いてみなければならない。

 そういうわけで、南武線に乗って武蔵溝ノ口駅にやってきた。

階段を登って改札を抜けるとたくさんの人の流れが…

 地上のホームから階段を登って橋上駅舎の改札を抜ける。たくさんの人の流れに身を任せれば、そのまま北口のペデストリアンデッキに出て、流れ流れてそのままデッキで連絡する東急田園都市線の改札へ。乗り換えに使う人が、いかに多いのか。この駅にやってきていちばんに実感するのはその点である。

 ただ、デッキを取り囲んでいるのはふたつの駅ばかりではない。田園都市線の駅とは反対側を見れば、マルイの看板を掲げた大きな商業ビルが見える。

 NOCTY(ノクティ)と名乗るビルで、マルイが入るノクティ2と多くの専門店が入るノクティ1から構成される、武蔵溝ノ口駅前のシンボルだ。なんでも、武蔵溝ノ口、人呼んで「のくち」。それをもじってノクティなのだとか。

賑わいの絶えない「ポレポレ通り」を東に歩く

 デッキで直結するノクティの前を抜け、ペデストリアンデッキから降りて町中へ。ノクティの脇を通る「ポレポレ通り」と名付けられた道筋は、これまた実に賑やかな商店街だ。かつては長崎屋だったというドン・キホーテを中心に、飲食店からゲームセンター、金融機関まで、ありとあらゆる店や施設が並んでいる。

 平日の昼間から人通りが途切れない賑わいぶりからは、この武蔵溝ノ口という町の持つパワーが感じられる。そんな道の真ん中でキャッチボールをしている若い男女を見かけたんですが、あれは何だったんでしょう。

 それはともかく、ポレポレ通りの賑わいぶりは田園都市線のガード下、さらにガードを潜って田園都市線の西側にまで続いている。東は東でかなり長く、東西にぐーっと延びている中心繁華街といったところだ。駅の近くには川崎市高津区役所もあり、まさに川崎市中部の核というのにふさわしい活気に満ちている。

 ポレポレ通りを東へ歩き、駅前から少し離れてみよう。

 5分ほど歩いて賑やかな商店街から外れると、イトーヨーカドーに巨大なマンションが見えてくる。その周囲も住宅地だ。ふたつの路線が交わる駅を中心に、近くには大きな商業ビルと賑やかな商店街。少し離れたら住宅地へ。

 住宅地の中には、西から東へと小さな川も流れている。これが町にほどよくのどかさを加えていて、実にバランスの取れたベッドタウンといっていい。少し都心から離れているきらいもあるが、交通の便なら申し分はない。それでいて、武蔵小杉などと比べればいくらか庶民的な印象も抱く。暮らしやすさという点でもケチのつけどころがなさそうだ。

 この町は、いつからこのような姿になったのだろうか。話は、鉄道がまだ開業するより前の時代にさかのぼる。

運命を変えた「2本の街道と1本の用水路」

 江戸時代、溝ノ口村と呼ばれていた武蔵溝ノ口駅周辺の一帯は、2本の街道が交差する町だった。ひとつは大山街道、もうひとつは府中街道である。

 大山街道は、現在の国道246号のルーツだ。江戸から世田谷を抜けて厚木、そして大山へ。大山参詣のルートであり、東海道の脇往還としても賑わった。だいたい東急田園都市線と並行しているのも特徴だ。

 もうひとつの府中街道は、古代武蔵国の国府があった府中と多摩川河口の港町だった川崎を連絡する街道で、鎌倉時代には鎌倉に通じる街道の一部でもあった。府中と川崎というなら、南武線そのものである。

 この2本の街道が交差する地点が溝ノ口。ちょっとした宿場のような位置づけで、大山街道沿いを中心に市街地が形成されていたという。

 そして、江戸時代の初めには二ヶ領用水が整備されている。住宅地の中を流れていた小さな川がそれだ。徳川家康が関東に入ってすぐに整備がはじまった用水路で、完成後は多摩川沿いの低地に過ぎなかった溝ノ口村を田園地帯に生まれ変わらせた。

 2本の街道と1本の用水路。これが、溝ノ口の運命を作ったのである。

「工場と繁華街の町」として発展したが…

 明治以降、川崎の海沿いからはじまって、多摩川沿いは次第に都市化が進んでゆく。それに拍車をかけたのが、鉄道だ。

 溝ノ口には、1927年に南武鉄道(現在の南武線)と玉川電気鉄道(現在の東急田園都市線)が相次いで乗り入れる。現在の南武線では初めて“2路線が交わるターミナル”だった。大山街道と府中街道が交差するという、江戸時代以来の役割をそのまま鉄道も踏襲することになった形である。

 そして、そこに二ヶ領用水の豊富な水が加われば、工場の立地としては抜群だ。昭和初期、溝の口には相次いでいくつもの工場が進出する。わかりやすいように現在の社名で主だったところを列挙すれば、東芝、NEC、ニコン、富士通、ミツトヨ、池貝。こうした工場が武蔵溝ノ口駅北口から東側にかけて、次々に現れた。

 2路線が乗り入れる駅があって、たくさんの工場。そうなれば、駅の周りが賑やかになるのもとうぜんのなりゆきだ。

 当時はまだ溝ノ口止まりだった玉電と、南武線。その駅舎があった北口周辺には、所狭しと商店が軒を連ね、繁華街を形成してゆく。工場で働く人たちをあてにした町だから、いくらか歓楽街の要素もあったのだろう。

 その頃の溝ノ口は、工場とそれに紐付く繁華街の町として発展していった。1937年には川崎市に編入されているから、すでにそこそこの規模の町に成長していたのだろう。

 戦後になってもその傾向は変わらず、そこに経済成長に伴う人口増加で住宅地としての一面も加わってくる。1966年には玉電をルーツに持つ東急田園都市線が延伸し、多摩田園都市の足がかりにもなっている。

 そして、1980年以降、溝ノ口のシンボルだった工場群は姿を消してゆく。その跡地が、ポレポレ通りを抜けた先にあった巨大なマンションだったり、さらにその奥にあるかながわサイエンスパークだったり。駅前広場も持たない北口のごちゃごちゃした繁華街はしばらくそのまま残っていたが、1990年代末にはようやく再開発。商業ビルのノクティが生まれ、立派なペデストリアンデッキも整備された。

 そうして工業地帯ではなく住宅地としての側面が強くなり、いまの武蔵溝ノ口が形作られたのである。まだまだ武蔵小杉にはタワマンもなく、工業地帯一辺倒だった時代の話である。

街道沿いに漂う“工業地帯・溝ノ口”の面影

 2本の街道が交わっていたのは、田園都市線沿いに少し北に歩いてお隣の高津駅すぐ近く。大山街道沿いは、いまも江戸時代から続く店がいくつか残る商店街になっている。工場ができる以前からの市街地だから、いわば溝ノ口の原点といっていい町並みだ。

 せっかくだから、大山街道を少し歩く。府中街道と交差するあたりはいかにも昔ながらの街道筋の商店街。そこから南に進んで駅が近づくと、ポレポレ通りの賑わいの影響を受けたのか、少しずつ活気づいてゆく。

 南武線の踏切の脇には、駅方面に通じる抜け道をそのまま活かしたような「西口商店街」がある。バラック建てで、歴史を感じさせる飲み屋が並ぶ。戦前からのものなのか、それとも戦後の闇市が発祥か。そのあたりは不明だが、少なくとも“工業地帯・溝ノ口”の面影を感じる一角といっていい。

 南武線の踏切を渡ってさらに南に進むと、大山街道は坂を登り始める。直線ではなくカーブを繰り返しながらうねうねと、ゆっくりゆっくり坂を登る。それほどキツい坂ではないのに、気がついたときにはかなり高いところから駅周辺を見下ろすほどのところに出ていた。その周辺は、完全なる住宅地。溝ノ口の市街地としての賑わいから離れた高台は、どちらかというと高級住宅地といったところだろうか。

 つまり、東西に走る南武線の南側はすぐに山。北は多摩川沿いの低地だ。こうした地理的な条件も、溝ノ口の発展にいくらか寄与したのかもしれない。

神社の脇の急坂を下りて駅に戻る。ホームに立つと聞き覚えのあるメロディが…

 神社の脇の急坂を下りて、再び駅前へ。かつては北口しかなかった武蔵溝ノ口駅も、いまではホテルメッツも併設される立派な南口駅前広場ができている。ごちゃごちゃしていた北口の繁華街も見てみたかったような気がするが、やはりこうして南北ともに再開発されたほうが、ベッドタウンとして、そしてターミナルとしての質が高まることは間違いない。

 いずれにしても、2本の街道と1本の用水路からはじまった溝ノ口。それがいまの南武線・田園都市線が交差するターミナルとしての溝ノ口にまで繋がっているというのは、なかなか興味深いではないか。この町は、本質的に“重要な交通路が交差する町”として、いまに至るまで歴史を刻んできたのである。

 そうして再び、南武線の武蔵溝ノ口駅のホームに戻ってきた。

 南武線武蔵溝ノ口駅の発車メロディは、平原綾香さんの「Jupiter」だ。なんでも、平原さんが武蔵溝ノ口駅近くの洗足学園音楽大学在学中にリリースした楽曲とかで、その縁で2024年7月から発車メロディに採用された。もちろん名曲であることは論を俟たない。が、乗り換え客を含めて実にたくさんのお客が行き交うせわしない駅にしては、のんびりしすぎのメロディのような気がしなくもない。

 いや、もしかすると、このゆったりとした「Jupiter」の旋律が、気の急いたお客の心を鎮め、無用なトラブルを未然に防ぐことに繋がっているのかも……と思うのですが、いかがでしょうか。

写真=鼠入昌史

(鼠入 昌史)

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