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「豪州からVIP待遇で」初来日“コアラフィーバー”から40年…輸出禁止だったコアラが日本に来るまで

文春オンライン / 2024年10月25日 6時10分

「豪州からVIP待遇で」初来日“コアラフィーバー”から40年…輸出禁止だったコアラが日本に来るまで

オーストラリアから初来日し、多摩動物公園に到着したコアラ。愛くるしい姿に、日本中が「コアラフィーバー」に沸いた ©時事通信社

 いまから40年前のきょう、1984(昭和59)年10月25日、オーストラリアからコアラが初めて来日した。この日早朝、成田空港に到着した6頭の雄コアラは機内で検疫を済ませ、簡単な引き渡し式のあと、受け入れ先である東京都多摩動物公園、名古屋市東山動植物園、鹿児島市平川動物公園へ各2頭ずつに分かれて向かった。

 6頭のうち東京と名古屋の各2頭はシドニーのタロンガ動物園、鹿児島の2頭はクイーンズランド州のローンパイン・コアラ保護区から寄贈された。成田には100人を超える報道陣が待ち構え、餌となるユーカリなど植物の検疫中、オーストラリアから付き添ってきたローンパイン・コアラ保護区の代表取締役が鹿児島に行くコアラをケージから出して抱き上げると、一斉にカメラが向けられた。

「この飛行機には“VIM”が搭乗しています」

 その前日、コアラたちをシドニー空港とブリスベン空港から乗せて日本へ出発したカンタス航空の特別便は「コアラ・エキスプレス」と名づけられ、客室の後部3分の1を間仕切りしてコアラ専用室に充てていた。まさにVIP待遇で、機内ではシドニーを離陸してしばらくすると「この飛行機には“VIM”が搭乗しています」とのアナウンスが流れたという。VIP(Very Important Person=重要人物)のPをMarsupial(有袋類)のMに置き換えたのだ。

 日本に着いたコアラはそれぞれ成田および名古屋、鹿児島の空港から車に乗せられると、やはりVIP待遇で、各園までパトカーの先導で運ばれた。いずれも午前中には到着し、地元の幼稚園や保育園の園児らに出迎えられる。ただし、一般公開は、日本での生活に慣らせるため約1ヵ月を置き、3園とも11月20日となった。

 公開に先立ち、それまでブラックやオレンジなどの仮名で呼ばれていたコアラ6頭の正式な名前が全国から公募のうえ、11月10日に決定する。各園の2頭はそれぞれ、東京は「トムトム」「タムタム」、名古屋は「モクモク」「コロコロ」、鹿児島は「はやと」「ネムネム」と命名された。

コアラを見るために行列ができた

 公開初日は平日(火曜)にもかかわらず、東山動物園では午前9時半の開園とともにコアラ舎の前に行列ができたため、10時半から公開開始の予定を15分早めた。この日、名古屋でコアラを見たのは1万1200人におよんだ。これに対し、多摩動物公園はあいにくの雨で、気温も下がったこともあり、6439人にとどまる。平川動物公園でも予想に反して2700人ほどの入場者だった。それでも一般公開が始まって最初の休日となった11月23日には、両園とも1万人を超える人がコアラと対面する。東山動物園にいたっては3万8000人が詰めかけた。

半世紀にわたって“輸出禁止”だった

 先に紹介した機内アナウンスにあったとおり、コアラは哺乳類のうち子供を育児嚢(のう)と呼ばれる袋で育てる有袋類に属する。生息するのはオーストラリアの森林に限られ、ユーカリの木の葉しか食べず、水分もそこから摂取するので、水はめったに飲まない。その個体数は、20世紀前半までに毛皮を取るための乱獲や生息する森林の破壊により従来の半分にまで減ってしまい、オーストラリア政府は1933年以来、半世紀近くにわたり国外への輸出を禁止してきた。

 しかし、アメリカでは飼育・繁殖で実績を出し、例外的に輸出が認められていたこともあり、コアラを呼ぼうという動きが日本でも起こる。東京の上野動物園は1971年、11年後の開園100周年に向けてコアラを誘致する計画を立て、ユーカリの育成を始めていた。計画自体は、翌1972年に同園が中国から日本に贈られたパンダの受け入れ先に急遽決まったこともあり頓挫するものの、このときの準備はその後、同じ都立の多摩動物公園がコアラを受け入れる下地となる。

コアラをめぐって日本各地が誘致競争

 鹿児島市では1975年に「コアラを鹿児島に連れてくる会」という市民グループが発足し、誘致活動が始まる。名古屋市でも1980年にシドニー市と姉妹都市の提携を結ぶに際し、コアラ寄贈の話が持ち上がる。東京都も同様に、コアラ受け入れが具体化したのは、1984年にオーストラリアのニューサウスウェールズ州(シドニーはその州都)と友好都市関係を結ぶ過程においてであった。

 この間、1980年9月にコアラ輸出が解禁された。これを受けて、上記の3都市に埼玉県・兵庫県・横浜市・大阪市も加わり、熾烈な誘致競争が繰り広げられる。この事態を収めるため、オーストラリア政府のコーエン内務・環境大臣が1984年4月の来日時に記者会見を行い、コアラはまず東京・名古屋・鹿児島の動物園へこの秋にもほぼ同時に送られるだろうと述べた。3都市の動物園はこのときには、オーストラリア側がコアラを提供する条件の一つにあげたコアラ舎の建設を進めており、ユーカリの育成にも数年前より取り組んでいた。

日本にやってきたが…コアラの死があいつぐ

 こうして来日したコアラだが、最初の6頭は先述のとおりみんな雄だった。雌コアラはまず翌1985年5月、平川動物公園に4頭がやって来る。東京と名古屋にも同年9月に雌が各3頭来園する運びとなった。だが、出発前の検疫で、名古屋へ送るコアラのうち1頭が伝染病にかかっていることがわかり、同室にいたほかの2頭ともども輸出できなくなってしまう。そこで急遽、ニューサウスウェールズ州政府とタロンガ動物園および多摩動物公園が協議して、東京に送る予定の3頭のうち1頭が名古屋へ譲られることになった。

 しかし、日本に来た雌のうち、東京の「パープル」と鹿児島の「ユカリ」が来園して間もない9月、10月に立て続けに死んでしまう。いずれも死因は、環境の変化になじめないためのストレスによるものと見られた。東京ではこのあと11月にも雄のトムトムが急性腎盂膀胱炎で死んでいる。この年の10月には新たに埼玉県こども動物自然公園にもコアラが来る予定であったが、日本であいつぐコアラの死を受け、オーストラリア政府は一時輸出を禁止する。おかげで埼玉にコアラが来たのは半年遅れ、1986年4月となった。

日本で初めてコアラの赤ちゃんが誕生

 こうして不幸が続いたあと、日本初のコアラの赤ちゃんが誕生する。出産したのは、東京に行くはずが先述の事情から名古屋に譲られたあの雌コアラだった。ブルーというその雌は来園した翌年、1986年2月末に雄のコロコロとの交尾が確認され、10月4日には育児嚢から赤ちゃんが全身を出す。これをアウト・オブ・ポーチあるいは出袋(しゅったい)と呼ぶ。この子供(雌)は「ハッピー」と名づけられた。

 じつはこの時点で、日本の動物園にはコアラの出産日を決める統一見解がなかった。それというのもコアラの分娩を確認するのが難しかったからで、そのためハッピーの誕生日も当初は出袋した日とされた。だが、その後、各個体の登録書をつくる上で統一見解が必要になり、分娩を確認した場合はその日、確認できない場合は出袋日から180日さかのぼった日を出産日とすると定められた。これにより、ハッピーの誕生日も180日さかのぼって同年の4月4日となった。

 平川動物公園でも翌月に「ミナミ」がはやととの子供「アスカ」(雌)を産んだ。その後、同園はコアラの繁殖で他園をリードし、1990年代から現在にいたるまで国内最多頭数をキープしている(2024年10月現在は18頭)。

 国内では、先述の埼玉に続き1986年10月には横浜市金沢動物園がコアラを導入し、その後も1987年に兵庫県の淡路ファームパーク イングランドの丘、1989年に大阪市天王寺動物園(現・地方独立行政法人天王寺動物園)、1991年に神戸市立王子動物園、1996年に沖縄こどもの国と、飼育する動物園が増えていった。沖縄のコアラは2010年を最後にいなくなったものの、ほかの園ではいまも飼育中である。

日本で育ったコアラが飼育下での史上最高齢に

 コアラが日本に来て以来、飼育する各園から飼育係員や獣医師、またユーカリ担当者など現場関係者が集まって会議を開き、情報を交換するなど、相互に協力を行ってきた。この会議は「コアラ会議」と呼ばれ、現在は日本動物園水族館協会の生物多様性委員会・コアラ計画推進会議として開催されている。先述したコアラの出産日の統一見解もここで決められた。このほか、動物園の使命の一つである種の保存のため、コアラの飼育園のあいだではブリーディングローンと呼ばれる繁殖のための個体の貸し借りも盛んに行われている。

 人間でいえば100歳を超える長寿のコアラも多く、最初に来日したコアラの1頭である多摩動物公園のタムタムは、来園からじつに20年あまりを経た2005年2月まで生きた(享年22)。淡路ファームパークで2022年11月に25歳で死んだ雌の「みどり」は、その前年に飼育下での史上最高齢コアラとしてギネス世界記録に認定されていた。

 とはいえ、日本のコアラは必ずしも安泰ではない。全国での飼育頭数は1997年の96頭をピークとして、以後少しずつ減少し、2024年10月現在で57頭である。そのなかでコアラを飼育する7園では、将来的に「100頭のコアラを飼う」という目標を立て、遺伝的な多様性を維持しながら、安定した個体数の確保を目指している。

野生のコアラは絶滅危惧種

 他方、オーストラリアの野生のコアラは、2019年から翌年にかけての大規模な森林火災により多くの個体が犠牲となった。火災の原因は地球温暖化による異常気象にあると考えられる。オーストラリア政府はこの事態を受け、自国版のレッドリストでコアラを危急種から絶滅危惧種へと引き上げた。

 40年前のコアラ初来日と前後して1983年にはラッコが初来日し、さらにテレビなどを通じてエリマキトカゲが人気を集めるなど、世の中は珍獣ブームのさなかにあった。それもあって、コアラの導入に対しては、当時どこも来場者数が伸び悩んでいた動物園が集客の目玉にするため、莫大な費用をかけてまで進めているといった批判も少なからずあった。来日まもなくしてコアラがあいついで死んだときには、日本での飼育を疑問視する声も上がった。

 しかし、各園では、コアラたちの嗜好に応じたユーカリの葉を日々提供し続けるなど努力を重ねながら、日本の環境に慣れさせてきた。だからこそ、コアラはここまで長く飼われ、増え続けてきたのだろう。種の保存への貢献はあきらかであり、元気なコアラの姿は私たちにこの動物への興味を抱かせてくれる。それはコアラが、人間の所業のために直面する危機について考えるきっかけにもなるはずだ。


■参考文献
・中川志郎『動物たちの昭和史Ⅱ』(太陽企画出版、1992年)、『動物と私の交響曲(シンフォニー)』(東京新聞出版局、1996年)、『生き物はすべてつながっている』(ザ・ブック、2013年)
・鹿島英佑『恋するコアラはなぜやせる?――コアラ飼育10年のエピソード』(風媒社、1994年)
・財団法人鹿児島市動物公園協会『ひらかわ』no.24~31(1984~92年)
・橋川央「日本のコアラ飼育事情」(天王寺動物園情報誌『なきごえ』vol.44-10、2008年)
・平川動物公園『すごいコアラ!―飼育頭数日本一の平川動物公園が教えてくれる不思議とカワイイのひみつ―』(新潮社、2024年)

 このほか、『中日新聞』『朝日新聞』『毎日新聞』『読売新聞』などの各記事を参照しました。

(近藤 正高)

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