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「出世のチャンスじゃないか、カネをもらうってことは」田中角栄が霞が関にカネを配っていた時代の“官僚の常識”〈拒否した元検事の告白〉

文春オンライン / 2024年10月30日 6時0分

「出世のチャンスじゃないか、カネをもらうってことは」田中角栄が霞が関にカネを配っていた時代の“官僚の常識”〈拒否した元検事の告白〉

逮捕時の田中角栄元首相 Ⓒ時事通信社

ロッキード事件が発生して50年が経つ。在米大使館の外交官として田中角栄元首相の訪米に立ち会い、東京地検特捜部検事としてロッキード事件の捜査と公判に携わった堀田力さんは、事件発覚以前から田中に対して、基本的な態度や金銭感覚の面で違和感を覚えていたという。

◆◆◆

ハワイでの遭遇

 田中角栄は1972年7月7日に総理大臣に就任し、翌8月末、リチャード・ニクソン米大統領との初めての日米首脳会談に臨むため、米国・ハワイのオアフ島を訪問した。

 堀田さんは、法務省から外務省に出向し、ワシントンDCの在米大使館で勤務を始めて半年ほどたったころだった。

 秘密指定を解除されて閲覧可能となっている日米両政府の外交文書によれば、田中首相は、オアフ島の南端に近いワイキキビーチ沿いにあるサーフライダーホテルに宿泊するつもりで、米政府にもその意向を伝えていた。ところが、このホテルについて「田中の主要な資金支援者である小佐野氏が所有している」と知るや、ホワイトハウスは8月9日、オアフ島の北端にあるクイリマホテルを会談場所に指定し、田中首相一行の宿泊場所もクイリマホテルとするよう日本外務省に申し入れてきた。

 ワイキキとクイリマは直線距離で50キロ離れており、ホノルルの日本総領事が実際に車で移動してみて、要する時間を片道1時間15分と見積もった。

 日本側はクイリマ宿泊を断った。

 堀田さんによれば、大使館には「大きな動揺」が走った、という。

「その国に行った立場としては、その国の指定するというか接遇するホテルに泊まり、その国のしきたりに従って接遇を受けて、そこで交流をするのが、これはもう外交の常識、しきたりとして確立している、外交上の儀礼で、それに田中さんが従ってくれないというので、非常に動揺しておりまして」

 大使館勤務を始めて間もない堀田さんは、要人の接遇を担当していた。どこに泊まるかは接遇のおおもとであるため、大使館の幹部とホテル問題の経過を共有していた。

「田中さんが国際儀礼を知らない、言ってみれば恥ずかしいことをして、しかもそれをいくら本省を通じてそれが礼儀に反するということを申し入れても聞いてくれないということで、本省のほうもそこをそれ以上押し切れないというので、そうとう外務省の、出先の外務省の幹部たちも、そこで大きなショックを受けておりました」

 田中首相が誕生して1カ月ほどしかたっていなかった。

「外交上の礼儀にすら従ってくれない、外交上マイナスになるような総理大臣だということで、しかも、がっかりすると同時に、それを説得できない本省に対しても、出先でも幹部たちは大きな不満を持っておりました」

「危ういタイプ」

 東京の外務省本省に対し、出先の大使館の堀田さんらは「直接、田中さんと談判するなり、もっとしっかりしてくれよ」という思いを抱いたが、刑事事件を扱う検事に比べて、外務省は「紳士の方々」。堀田さんの目から見ると、押しが弱くて、「歯がゆかった」という。

 外交文書によれば、米国務省は日本側に対し、「大統領の招待」「ホワイトハウスの指示」を盾にクイリマホテルへの宿泊をさらにねじ込んできた。結局、田中首相は、大統領主催の晩餐会が開かれる一夜だけ少人数でクイリマホテルに泊まり、その前後の一夜ずつ二夜は、盟友の小佐野賢治のサーフライダーホテルに泊まるとの妥協を成立させた。

 こうした田中のふるまいに接して、堀田さんは「ある意味、我欲の強い、最も汚職なんかに、走りやすいタイプではないかな」と思った。

「この田中総理てのはやっぱり腕力があるし、そういう自分の欲目と言いますか、それを実現するためには相当な剛腕を発揮する人で、汚職という点から言えば、危ういタイプだ」

 そして、堀田さんは「いろんな物事を実行する実力はすごい、実力がすごい、それがかえってそういう我欲と結びつくと危ない事態になりやすいんで、これは検察側としても、もっとしっかりフォローしてないといけない」と考えたという。

 田中首相の訪米とカネをめぐって堀田さんがショックを受ける出来事が1974年にもあった。

カネをばらまく角栄

 ホワイトハウスでの首脳会談のためにワシントンを訪問した際、田中首相は「館員にお世話になったから」と大使館に「金一封」の現金を託し、その一部が堀田さんの分として回ってきたのだ。

 大使館の当時の総務担当参事官で、のちに外務省の中南米局長やメキシコ大使を歴任した堂之脇光朗さんは2015年7月、亡くなる直前、筆者(奥山)のインタビューに次のように明かした。

「今だから言ってもいいでしょうけど、館員に金一封を持ってこられたです。100万円なんです。それをぼーんと渡されるわけです」

 堂之脇さんによると、安川壮(たけし)・駐米大使(当時)に「これをどうしたものでしょう」と相談した。すると、「みんなに配ったら」と言われたという。館員は100人ほどおり、「1人1万ずつ配った」という。「そしたら2人が『これは為替管理法違反です』と言ってお断りした。そんなことありましたね」

 堂之脇さんによると、外国為替管理法違反を理由に現金受け取りを断ってきたのは、法務省出身の堀田力・一等書記官と警察庁出身の職員だった。

 この堂之脇さんの話について、堀田さんは、2016年の筆者(奥山)のインタビューに、1万円ではなく、5ドルだったと記憶していると答えた。

 1974年当時はいまとは違って、外国とのお金のやりとりへの法規制は非常に厳しく、許可が必要だった。堀田さんは「正規の手続きで持ち込まれた現金ではないな」と直感。「これは受け取れないな」と思ったという。

 今年5月のインタビューでこの経緯について改めて確認したところ、堀田さんの説明は、2016年のインタビューの際よりもさらに理路整然としていた。

「もちろん、当時は許可が必要であるということもありましたし、その前に、職務上の職務をしている人間に、現金を渡すというのは、額は小さくても賄賂に当たりますので、こんなカネは絶対に受け取っちゃいけない」

 堀田さんは、田中首相からのカネを大使館幹部に突き返すにあたって、他省庁から大使館に出向してきている同僚に「こんなカネ、いろんなことでもらってるのか」と、それとなく尋ねてみた。

 すると、どうやら、それは当たり前の“しきたり”となっているようだった。政治家が官僚にカネを渡すことがあるというのだ。

 総理大臣になる前、田中は1962年に大蔵大臣に就任した。高等小学校卒の学歴しかない田中が、東大法学部卒の大蔵キャリア官僚を掌握し、自在に操ったといわれ、その実績が田中の上昇を後押しした。

 大蔵省(現・財務省)で政界との交渉を長年担当した元キャリア官僚が筆者(村山)に語ったところによれば、予算編成が山場を迎えた暮れのころ、田中首相から来たとされるカネが職員に配られ、自身も受け取ったことがある、という。

「ロッキード事件が起きてからは知らないが、角さんは大蔵大臣を辞めたあとも毎年、欠かさず、カネを持ってきていたようだ。大蔵省だけでなく関係した各省に配っていたのではないか。田中さん以外の政治家で官僚にカネを配ったという話は聞いたことがない」

 堀田さんは、そうした“しきたり”を非難したりはしなかったが、「私はもらわない」と同僚に言った。

 すると、経済官庁出身の同僚は次のような言い方で堀田さんを批判したという。

「自分の出世のチャンスじゃないか、カネをもらうっていうことは。そこを喜んで、もらって、それを利用して政治家と結びついていくのが官僚としての仕事をしやすくというか、仕事の範囲を広げることになる。(中略)それを返すっていうのは、人間として馬鹿であると同時に、そんなところで逆らって自分の職務を放棄するのか」

 役人というのは自分の出世のためなら何でもチャンスをつかみ、何をしてもいい、そんな考え方を持っていると知って、堀田さんは「そっちのほうが私はショック」だった。

 この2年後に検察が田中前首相を逮捕したときの容疑は、まさに外国為替管理法違反だった。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「 ロッキード事件捜査 カミソリ検事が明かした異常な命令 」)。

 

記事全文 では、堀田氏が、P3C疑惑を解明させたくない「力」が当時の特捜部に働いていた状況について、詳細に証言している。

(村山 治,奥山 俊宏/文藝春秋 2024年11月号)

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