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12歳年下の女性からプロポーズされたが…「半年後、すでに離婚を考えた」心理カウンセラーの30代男性が“モラハラ加害者”になってしまうまで

文春オンライン / 2024年11月4日 11時10分

12歳年下の女性からプロポーズされたが…「半年後、すでに離婚を考えた」心理カウンセラーの30代男性が“モラハラ加害者”になってしまうまで

太田基次さん 本人提供

 かつて、年下の妻が自分の思う通りに動いてくれないことに憤り、離婚寸前まで追い詰めてしまったという心理カウンセラーの太田基次さん(49)。自身の“モラハラ加害者体質”と向き合い始めると、育った環境から受けた負の影響の大きさにも、向き合わざるを得なくなってしまったそうだ。

 この記事はノンフィクションライター・旦木瑞穂さんの取材による、太田さんの「トラウマ」体験と、それを克服するまでについてのインタビューだ。

 旦木さんは、自著『 毒母は連鎖する 子どもを「所有物扱い」する母親たち 』(光文社新書)などの取材をするうちに「児童虐待やDV、ハラスメントなどが起こる背景に、加害者の過去のトラウマが影響しているのでは」と気づいたという。

 親から負の影響を受けて育ち、自らも加害者となってしまう「トラウマの連鎖」こそが、現代を生きる人々の「生きづらさ」の大きな要因のひとつではないか。ここではそんな仮説のもと、太田さんの半生に迫る。(全3回の1回目/ 続きを読む )

◆◆◆

DVの父親と信頼できない母親

 関西在住の太田基次さん(49歳)は、鉄工所を経営する父親と、専業主婦の母親のもとで、一人っ子として育った。

 両親の出会いは父親が27歳、母親が25歳の時の知人の紹介がきっかけだった。もともと鉄工所に勤めていた父親は、30代の時に独立してからというもの、早朝から深夜まで働き、日曜日も仕事をしていたため、家にはほとんどいなかった。だが、たまに家にいる時は、家事が得意でなかった母親を怒鳴りつけたり、時には平手打ちするなど、常にイライラしている様子だった。

 幼い頃から落ち着きがなく、食べ物の好き嫌いが多かった太田さんも、日常的に父親に怒鳴られ、殴られることも珍しくはなかった。

「嫌いなものを残すと、父にゲンコツで殴られました。泣くと『泣くな!』と怒鳴られ、またゲンコツで殴られました。頬を平手打ちされたこともあります。そんな時母は、『やめて! なんでそんなことするの!』と止めてくれたり、『いい加減にして! もう離婚する!』と庇ってくれましたが、父がその場からいなくなると、『お父さんを怒らせないようにして』と父を擁護するので、心からは母を信頼できないと感じていました」

 家族3人で揃って食事をした記憶は、両手で数えるほどしかなかった。早朝から深夜まで働き、日曜日もいない父親はもちろんのこと、母親も自分のタイミングで食事をする人だったため、太田さんはいつも1人で食事をしていた。

「今思えば、母は多動で不注意なところがあり、在庫管理ができないため、食材や調味料、カバンや洋服、日用品など、同じものを何個も買って来てしまっていました。家全体の片付けもまったくできず、特に母の部屋は服が山積みで、足の踏み場もありませんでした。そうしたことを父に咎められ、怒鳴られたり平手打ちをされたりして、泣いていることもありました」

 小学校に上がった太田さんが、たまに家にいる父親に学校であったことを話し始めると、「うるさい!」「黙れ!」「しょうもないことを言うな!」と聞く耳を持ってもらえなかった。それでも食い下がると、「口答えをするな!」と怒鳴られる。そのため太田さんは、父親に話しかけなくなっていくだけでなく、次第に他人も話しかけなくなっていった。

「僕は40歳の時にADHD(注意欠如・多動性障害)とASD(自閉スペクトラム症)の混合型と診断されたのですが、おそらくそうした発達特性と父からのDVの影響で、誰に対しても自分のことを話さない、口数の少ない子どもになりました。他人に対して意思表示があまりできず、言語化能力が低いまま成長した僕を、母は不憫に思い、先回りして色々とサポートしてくれていたようです。

 当時の僕は、『ありがとう』と感謝の言葉を口にすることはほぼなく、かろうじて『嫌だ』という意思表示だけはしていたため、両親にとっても学校の先生にとっても、可愛げのない子どもだったと思います」

 母親は基次さんが嫌いな食べ物を極力出さないようにしたり、毎晩ランドセルの中をこっそり確認し、学校で困ることがないように対応してくれていたようだ。そのことに気づくのは、30年近く先のことだった。

父親からの暴力が減った代わりに教師からの体罰が増えていった

 父親の顔色を窺って過ごしていた基次さんだったが、小学校高学年になるにつれて、父親からの暴言や暴力は鳴りを潜めていった。

「おそらく単純に、僕が成長したことと、今まで以上に父が仕事で忙しくなったこと、そして僕が少年野球やソフトボールを始めたことで、父との接触機会が減ったのが理由だと思います。その代わり、教師からの体罰が増え、中学に入ってからは入部した野球部の顧問の先生から怒鳴られたり殴られたりすることが加わりました」

 基次さんが通っていた小・中学校はかなり荒れていたようだ。

 所謂“ヤンキー”たちが毎日のように生活指導の教師とやり合い、教師の車のフロントガラスが割られたり、校庭の隅にある焼却炉が爆破されたり、授業中に隣町の“ヤンキー”たちが角材や金属バットを持って乗り込んできたりと、暴力的な光景が日常的にあったという。

 そんな環境もあってか、基次さんは教師や顧問からの体罰について、誰にも相談しなかった。

「僕が人に相談しない体質になったのは、『男は弱音を吐くな』『泣くな』と父親から繰り返し言われてきたことが影響しているのだと思います。それに加えて、時代背景的に『金八先生』や『ビー・バップ・ハイスクール』などが賞賛されていた時代なので、ムカついてはいましたが、こういう環境が普通だと思い込んでもいました。

 僕自身、当時は友だちから相談を受けたことはなく、生徒の親が学校を訴えたという話も一度も聞いたことがなかったので、他人に文句を言ったり、悩みを相談したりという発想がなかったのかもしれません」

 確かに30年ほど前は、現代と比べると学校での問題が可視化されにくかったのかもしれない。また、女子中学生以上に、男子中学生が友だちや親に自分の悩みを打ち明ける姿は想像しにくい。もともと家庭で必要最低限の会話しかしない基次さんが、部活の顧問から暴力を振るわれることを親に相談できるわけがなかった。

 野球部の顧問は、気に入らない生徒には「このボケが! 殺すぞ!」「お前らなんか生きている意味ないんじゃ、クソが!」などと罵詈雑言を浴びせ、近距離からボールをぶつけたり、平手打ちを喰らわせたりして、ろくに野球の練習をさせず、引退までひたすら外周を走らせた。

イエスマンとして扱われるように

 顧問の暴力は基次さんに対してだけではなかったが、口下手な基次さんは次第に、友だちたちからも都合よく利用されるようになっていく。

「相手から嫌なことを言われると、頭が真っ白になり、言葉が出ず、その場で言い返すことができませんでした。何も言わないと、相手には同意したと思われてしまい、結果的に都合良く『イエスマン』として扱われるようになりました」

 高校生になると、基次さんの家に悪い友だちが集まるようになり、朝まで麻雀をして居座られたり、部屋の中で喫煙されたりするほか、基次さんのお金でカラオケに行くようにもなった。

 車の免許を取得してからは、友だちと会うときは必ず全員を家まで送迎させられた。

「当時は『人に嫌われたくない』という気持ちが強くて、後から自分の意見や言い返したいことが思い浮かんでも何も言えず、嫌な人間関係も自ら断ち切ることができず、嫌々付き合っていました……」

プロポーズを受けての結婚

 高校を卒業した基次さんは、音響の専門学校に入学。卒業後は3年ほど、バンド活動をしながらアルバイト生活をしていた。

 そのあとは倉庫内作業員として働き、24歳の時に、父親の鉄工所を本格的に手伝い始めた。

 やがて30歳の時、インターネットの野球好きが集まる交流サイトで後に妻となる瑠美さんと出会い、すぐに交際がスタート。瑠美さんは高校を出たばかりの18歳で、飲食店に勤めていた。

 ところが基次さんが32歳の時、父親の会社が倒産。持ち家だった実家も手放すことになり、両親と共に借家に移った。

 基次さんは、工場関係の仕事を転々とするが、体調を崩してしまう。

「子どもの頃からコミュニケーション能力が低く、手先も不器用だったので、なかなか新しい環境に馴染めず会社の先輩にいじめられたりもして、精神的に病んでしまったんです。そのときは病院には行っていないのですが、今思えばうつ状態でした」

 その後、基次さんは1年ほど実家に引きこもっている間に、インターネットで「心理カウンセリング」を知る。自身の回復のため、そして好奇心を満たすために「心理カウンセリング」を学び、実践するようになった基次さんは、少しずつ回復していく。

 そして35歳の時、「心理カウンセリングを仕事にしたい」と思っていた基次さんは、これまで学んだ知識を活かし、公的機関や福祉施設、企業内でのカウンセリングに従事するようになった。

 その3年後、基次さんが38歳、瑠美さんが26歳の時、基次さんは瑠美さんからプロポーズされる。

「妻を養えるほどの収入がなかったので、かなり躊躇したのですが、妻から『生活費も結婚にかかる費用も折半でいいから』と提案してくれて、それなら自分にもできそうかなと思い、結婚しました」

 交際時から瑠美さんを実家に連れて行っていたため、両親はすぐに祝福してくれた。

 ところが結婚から半年ほど経った時すでに、瑠美さんは離婚を考えていたというーー。

〈 12歳年下の妻に「思い通りに動いてくれよ」とモラハラを繰り返して…ついに離婚を突き付けられた夫が至った“意外な思考” 〉へ続く

(旦木 瑞穂)

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