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サム・ペキンパーの真似で8ミリ映画制作を始めた黒沢清監督が、大学時代に出会った未来の映画作家たち

文春オンライン / 2024年11月6日 6時0分

サム・ペキンパーの真似で8ミリ映画制作を始めた黒沢清監督が、大学時代に出会った未来の映画作家たち

大学の先輩・後輩である黒沢清監督(右)と小中和哉監督(左)©藍河兼一

 いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちには、8ミリ映画を自主制作し、才能を見出され、商業映画にデビューした者たちが少なくない。今年『蛇の道』『Chime』『Cloudクラウド』と公開作が相次いだ黒沢清もその一人。自身、自主映画出身監督であり、黒沢監督の大学の後輩でもある小中和哉氏が聞き手として振り返る好評インタビューシリーズの第6弾。(全4回の1回目/ 2回目 に続く)

◆◆◆

 フランスでの映画制作など、活動の場を海外にも広げている黒沢清監督は、大学の映画サークルでお世話になった大先輩だ。僕が立教大学在学時に黒沢さんは既に卒業していたけれど、よく学校に来て僕らの作品を見てくれたり、自分でも8ミリを撮ったりしていた。黒沢さんが商業映画を撮り始めると、サークルの仲間と共に僕も黒沢さんの現場に参加させていただいた。そんな黒沢さんから、8ミリ映画作り、商業映画デビューの頃を改めてお聞きしたインタビューをお届けする。

くろさわ・きよし 1955年兵庫県生まれ。高校時代から自主映画を制作し、立教大学では蓮實重彦に師事した。長谷川和彦、相米慎二作品に参加した後、『神田川淫乱戦争』で商業映画デビュー。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』『地獄の警備員』などで話題となり、97年の『CURE  キュア』で世界的に注目された。以後、『アカルイミライ』『トウキョウソナタ』『岸辺の旅』『ダゲレオタイプの女』『スパイの妻』など話題作を多数発表。世界でも称賛を浴び続ける、現在日本を代表する映画監督の一人。最新作『Cloud クラウド』が公開中。

8ミリを撮り始めたころ

―― 初めて8ミリに触れたのはいくつの時ですか?

黒沢 高校生の時です。友人がたまたま8ミリカメラを持っていたので、いろいろ撮って遊んでいました。当時のアメリカ映画好きの男の子はみんなやるんですけれども、サム・ペキンパーの真似をしてピストルに撃たれて倒れていくところをスローモーションで撮ったり。

―― まだ映画の体裁じゃなくて?

黒沢 映画ではないですね。今とは全く違う時代なので、映像が撮れること自体が驚異でした。小中の『Single8』でもやっていましたけれども、撮っている時には本当に撮れているかどうか分からない。下手すると露出を間違えて真っ暗だったり、ピントが全然合ってなかったり。回してみて、1週間後ぐらいに現像が上がってきて、「ああ、撮れてる」。撮れてることが喜びだった。

―― サム・ペキンパーの真似は、カメラでスローができたんですか?

黒沢 そうです。血のりが入ったビニール袋を自分の手で押して、ブシューッと血を吹き出しながら倒れる友人を撮って。でも3倍とかのハイスピードで撮っても、出来上がったものを見ると全然サム・ペキンパーじゃない。あれは10倍とか20倍とか恐ろしいハイスピードで撮っているわけで。

―― 3倍程度ではたいしたことないですよね。

黒沢 たいしたことないです。撮れてるという喜びと同時に、「全然ペキンパーじゃない。ガッカリ」というのを同時に味わってましたね。

―― 初めて作品になったのはいくつの時ですか?

黒沢 作品らしきものを撮ったのは高校3年生の時ですね。全く恥ずかしいような、15分ぐらいの短編でサイレントでした。内容はその時通っていた高校に対する批判のようなもので、そういう時代だったんですけど、学校のやり方は間違ってる、「これを乗り越えねばならない」みたいなことを友人2~3人でドラマ化した。

―― タイトルは何ですか?

黒沢 六甲学院高校というところに通っていたので、『六甲』というタイトルでした。

立教大学の映画サークルで撮った『暴力教師』

―― 本格的に映画を作るようになったのは大学に入ってからですか?

黒沢 大学に入ったらサークルに入って、もう少しちゃんとした映画を作りたいという欲望はありました。ただ、いわゆる商業映画を作りたいというのとは違っていたと思います。当時の幼い自分の考えを思い出すのはなかなか難しいんですけれども、映像を使って広い意味での物語のようなものを語るにはどうしたらいいんだろうということと、大好きだったアメリカ映画に近づくにはどうすればいいのかということを考えていたと思います。

 高校生で受験勉強が嫌になったりして、東京に出てきて1年浪人した挙句に立教大学に入ったわけですが、東京に来るといろいろな映画が見れるということが分かって、アメリカ映画に限らず、やたら何でも映画を見始めてはいました。

―― その頃好きな映画というのは、ペキンパーの他には?

黒沢 当時僕らの世代だと、『仁義なき戦い』ですね。『仁義なき戦い』を中心とした日本映画。東映やくざ映画なども古いものも含めて浴びるように見ておりました。同時に高校生ぐらいから映画の本を読むようになるんです。新書判で出ている佐藤忠男さんが書いた『ヌーベルバーグ以後』という本があって、熟読しました。そこに全然知らなかったいろんな映画があって。全く見てもいなかった大島渚とかね。「大島渚ってそんなすごいの?」と、大島渚の映画を見たり。あとはイタリア勢、フェリーニ、パゾリーニ、それから新人として注目され始めたベルトルッチ、もちろんジャン=リュック・ゴダールも。「そんな人がいるんだ」と、アメリカ映画だけではないいろいろな映画に興味を持ち、上映していたら勇んで見に行くというような時を過ごしていました。

―― 立教に入った時、SPP(注1)はもうあったんですか?

黒沢 もちろんありました。立教大学に入ってすぐに、8ミリ映画を作っているサークルはないかと探したら、映研はあんまり作ってなさそうだったんです。「8ミリ映画を作っています」というのを大々的に掲げていたのがSPPでした。

―― 最初は先輩の映画に参加してスタッフをやったんですか?

黒沢 それまでは先輩が撮るものを新入生は手伝うという、何となくの慣習があったようなんですけど、僕が入ってごく初期のミーティングで、「先輩が撮って後輩がそれを助けるのが決まりだというのはおかしい」ということになって。それで、新人であれ先輩であれ、誰でも撮りたい人が手を挙げて、脚本を書いて、「こういうものを撮りたいです」と一種の小さなコンペですけれど、それでみんなで「これは面白そうだね」となれば、それをみんなで手伝うというふうにしようよとなったんです。それなら、と僕はものすごい勢いで脚本を書いたんですよ。まあ、短いものですよ。その時に他に脚本を出したのが、同じ1年生だった森達也ですね。そしたら、「その2本を今年は撮ります」となったんです。だから、SPP史上初めて1年生が、しかも2本とも撮るということになったんです。クラブの会費、制作費みたいなものが数万円ですけどあったんですね。だから、僕が個人的に負担するのではなく、数万円の予算で僕と森が2班に分かれて、夏休みを使って撮影しました。

―― それはどんな内容でしたか?

黒沢 『暴力教師』という作品ですね。

―― タイトルは聞いたことあります。

黒沢 20分ぐらいの……ほんと恥ずかしいですよね。大学の中で、先生が生徒を人質に取って何か要求するというような馬鹿げた内容だったんですけど。当時のアメリカ映画、ヨーロッパ映画なんかでもありがちな、反体制学生アクションみたいなノリのものですね。森達也はもうちょい青春映画みたいなのを撮ってましたね。

―― 森さんは黒沢さんの『しがらみ学園』の主役をやってますよね。

黒沢 森はSPPで映画を撮りたいと言いつつ、一方で立教の演劇のサークルにも入っていて、俳優が主な活動みたいな雰囲気でしたね。だから、映画もやるけど、基本的にはこの人は演劇の俳優をやりたい人なんだろうなという感じがあったものですから、その後も監督というよりは俳優として、僕の映画も含めてSPPが作る映画にいろいろ出ていました。

石井聰亙との出会い

―― 『暴力教師』を作って、反響はどうだったんですか?

黒沢 テレビでやったりはしたんですよ。

―― エッ、そうなんですか。

黒沢 そういう時期だったんです。僕が2年生になった時でしたけど、テレビで「今、学生たちが自主映画を作ってます」と特集する番組があって、どうしてうちに声がかかったのか分からないですけど、SPPから何か代表作を出してくれと言われて、『暴力教師』をやった。初めてテレビ局というところに行ったら、控室に和田アキ子がいました。

―― そうですか(笑)。

黒沢 「あっ、和田アキ子だ」と思って、「おはようございます」とか言ってて、「あ、おはようございますって言うんだ」とビックリした記憶があります。

―― 他の自主映画の方はどなたでしたか?

黒沢 他に何人かテレビ局に呼ばれていたけど、ちょっと覚えてないですね。でもよく覚えているのは、その頃立教大学の上映会で『暴力教師』をやったら、「日芸の学生です」という若い人が来て、「大変感激しました」と。「今、自分は逆に生徒が先生とか他の学生たちをみんな人質に取って反乱を起こすという映画を考えてます」と言っていた人が石井聰亙だったんです。

―― ああ、その話は聞いたことがあります。

黒沢 のちに『高校大パニック』になるんですけどね。

―― 影響を受けた部分もあったんですかね。

黒沢 まあ、影響というのはないでしょうけど、向こうは向こうで何かシンパシーを感じたんでしょうね。8ミリ映画というのはもちろんもっと前からあったわけですが、8ミリ映画を、特に大学生たちが商業映画まがいのものを作るブームが起こりつつあった時代なんですね。だから、石井聰亙、今は石井岳龍ですけども、彼もその流れに乗って撮り始めたし、僕も気づいたらその流れの中にいたという感じですね。

撮影 藍河兼一

注釈
1)SPP 立教大学の自主映画制作サークル。

<聞き手>こなか・かずや 1963年三重県生まれ。映画監督。小学生の頃から8ミリカメラを廻し始め、数多くの自主映画を撮る。成蹊高校映画研究部、立教大学SPPなどでの自主映画制作を経て、1986年『星空のむこうの国』で商業映画デビュー。1997年、『ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影』でウルトラシリーズ初監督。以降、監督・特技監督として映画・テレビシリーズ両方でウルトラシリーズに深く関わる。特撮、アニメーション、ドキュメンタリー、TVドラマ、劇映画で幅広く活動中。主な監督作品に、『四月怪談』(1988)、『なぞの転校生』(1998)、『ULTRAMAN』(2004)、『東京少女』(2008)、『VAMP』 (2018)、『Single8』 (2022)、『劇場版シルバニアファミリー フレアからのおくりもの』(2023)など。

〈 「邦画は全然ダメだ。僕らが8ミリで撮っている方が面白いんじゃないか?」黒沢清監督を動かした“不遜な思い” 〉へ続く

(小中 和哉/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)

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