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「メイクを落とす概念がなかった」肌はボロボロ、鏡も見れず…“伝説のヤマンバギャル”あぢゃ(41)の衝撃の現在

文春オンライン / 2024年12月15日 11時0分

「メイクを落とす概念がなかった」肌はボロボロ、鏡も見れず…“伝説のヤマンバギャル”あぢゃ(41)の衝撃の現在

当時のあぢゃさん

“伝説のヤマンバギャル”として雑誌モデルやタレント、俳優として活動していたあぢゃさん(41)。

 ギャルを引退後は、フットサルプレーヤーやホステスとして生計を立てていたが、36歳の時に結婚。今は2児の母として子育てをしながらタレント活動をしている。

 そんな波瀾万丈な彼女に、ヤマンバギャルとして注目されたきっかけや、ボロボロの肌だった20代、周囲から言われた衝撃の言葉などを聞いた。(全2回の1回目/ 続きを読む )

◆◆◆

気づいたら渋谷でホームレス生活に

――ギャルとして注目され始めた頃、あぢゃさんはホームレスだったそうですね。どういったきっかけで?

あぢゃ ずっと横浜に住んでいたんですけど、高校が渋谷乗り換えだったんです。で、毎日渋谷で降りて、プリクラ撮って、パラパラ踊っていて。当然友達もたくさんできるので、渋谷から離れられなくなって、気づいたら住み着いていました。高校も退学になったので通信制に通って。

――ご両親に何か言われたりは?

あぢゃ 母は中学の時に乳がんで亡くなっていて、父は何も言ってこなかったです。悪いことだけはするなよ、とにかく楽しく生きていてくれればいいからって感じで。でも、内心はすごく心配していたと思います。

 小学生の頃は日能研に通っていて、中学受験もしていたんです。両親も勉強にお金をかけてくれていたんですけど、中学生くらいの時からグレちゃって。父には反抗的な態度ばかりとっていて、家出のようなものだったと思います。

センター街でパラパラを200人くらいで踊って

――寝る場所はどうしていたんですか。

あぢゃ 宮パ(宮下パーク)です。友達何人かとホームレスしていたので、二つのグループに分かれて、睡眠班と見回り班で交代しながら生活してました。前からいたホームレスの方と仲良くなっていろいろとルールを教えてもらったりもして。

 当時は今と違って平和だったので犯罪とかはないと思っていたけど、用心の為交代制で見張りしたり寝たりしてました。

――食事はどうしていたんですか。

あぢゃ ホームレスの方からいただくこともありました。数日前のおでんをいただいたり、飲みかけのジュースも。でももらったものは食べないとと思って、全部食べてました(笑)。

 あとは、街頭インタビューしている人に「面白いこと言ったらハンバーガーおごってね」って言って片っ端から答えていました。「インタビューで大人数必要なんだけど」って言われたら、渋谷中からギャルを連れてきて。

 あと、センター街でパラパラを200人くらいで踊っていたんですけど、外国人とかの観光客も多く見に来るんですよね。そうすると投げ銭みたいな感じで、お菓子やサンオイルをくれるんです(笑)。

 今考えるとそんな数の人が観てる中でパラパラ踊るなんてよくできたなって思うんですけど、当時は水着で歩いていても何も言われなかった。ゆるい時代ですね。

日焼けサロンは「週8」で

――お風呂などは?

あぢゃ お風呂に入りたくなったら、ヒッチハイクで海に行って、ワキと股間を洗ってまた渋谷に戻って。そのまま海の家でアルバイトをすることもありました。

 あと、日焼けサロンのチラシを150枚配ったら30分無料みたいなのもあったので、そういうのも駆使しながらお金がなくても暮らしていました。

――家はないけど、日サロには通っていたんですね。

あぢゃ 日焼けサロンは「週8」で通っていました。最初は、センター街の真ん中でみんなで川の字で寝て焼いていたんですけど、それじゃ全然足りなくて。

 日サロで焼いたら一発でしたね。色むらもないし、短時間で綺麗に焼ける。あと、歩く時は日陰を絶対に通らなかったですね。直火(太陽光)も絶対に無駄にしないみたいな。少しでも日焼けをサボると白くなった気がするので、日サロだけは欠かさずに行っていました。

派手なギャルがたくさんいたから目立つためにガンガンに黒くして

――その頃はあの「ヤマンバギャル」は完成していたのでしょうか。

あぢゃ いや、当時はただの黒ギャルでした。元々母がミニクラブを経営していたので、派手なメイクの道具が家にたくさんあったんですよ。そのノリで「Popteen」や「egg」、「Ranzuki」を見てギャルかわいいって思って。中学の先輩にも急にヤンキーからギャルに転身したかわいい人がいたんです。

 それに憧れてメイクを始めたんですけど、最初の頃は「チャンプロード」に出てくるような金髪で赤い口紅みたいな、そういうメイクをしていました。

 で、そこからだんだんと黒ギャルになって、家の屋上でほぼ毎日友達と体を焼いていました。高校生の時はメッシュ入れて、青のアイシャドウをガン塗りして。

――だいぶ派手な高校生ですね。

あぢゃ 中学の時は髪色が金髪だったんですけど、高校受験で一回黒染めしないといけなくて。その反動で入学してからは、やりたい放題でした。ミニスカでルーズソックス履いて、持ち物はとにかくデコるみたいな。

 それでも渋谷に行くと全然目立たないんですよ。もっと派手なギャルがたくさんいたから。で、目立つために、日サロで焼いてガンガンに黒くして。顔とかも隠さずに焼いていました。日焼け止めとか意味わかんねーみたいな。

 ちょうどその頃、ゴングロ三兄弟っていうのが流行り始めたんです。ヤマンバギャルの走りみたいな。全身真っ黒で唇は真っ白。それを見たときに、こっちも進化しないとと思って、メイクをどんどん濃くして。

メイクは落とさないから衛生状態は酷かった

――具体的にはどんなメイクを?

あぢゃ 肌も真っ黒に焼けているので、茶色のアイシャドウを顔中に塗ってさらに黒くして、ポスカで鼻筋とハイライトを描いて、瞬間接着剤でつけまをつけて、まぶたのアイシャドウは白と青。目の下にはキラキラのシールをたくさんつけて、唇も真っ白。

――それがあの伝説の写真ですね。

あぢゃ そうですね。あれはとにかく一番目立ちたいという気持ちでやっていたんです。しかも基本的にメイクは落とさないから、メイク時間は10分くらいで終わっちゃう。毎回秘伝のタレみたいな感じで、継ぎ足していました(笑)。

  落とさずにその上からどんどんメイクを重ねていくから、近くで見ると本当に汚くて。今考えると衛生状態はすごく酷かったと思います(笑)。ホームレス状態だからメイクを落とす概念がないんですよ。

――肌の状態はどうでしたか。

あぢゃ 当時はばんばん焼いていたし、スキンケアなんてことしたことなかったので、めちゃくちゃ汚かったと思います。

――当時の渋谷での人気ぶりはすごかったみたいですね。

あぢゃ センター街を歩くたびに「あぢゃだ~」って声をかけられて。一種の観光スポットでしたね。トイレに入ると「あぢゃがトイレに入った!」って上から写真を撮られたりとか。毎日誰かと写真を撮っていましたね。プリクラ帳も広辞苑くらい分厚くなっていました(笑)。

〈 「顔がダルメシアンみたいに…」ホームレス→“伝説のヤマンバギャル”→ギャルママになったあぢゃ(41)が明かす、ギャル時代と育児生活 〉へ続く

(「文春オンライン」編集部)

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