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「クマ出没注意」のエリアをかき分けると、ポッカリと空いたトンネルが現れて...足尾銅山に残る“産業遺産レベル”の廃線跡をたどる

文春オンライン / 2024年11月24日 6時0分

「クマ出没注意」のエリアをかき分けると、ポッカリと空いたトンネルが現れて...足尾銅山に残る“産業遺産レベル”の廃線跡をたどる

わたらせ渓谷鐡道の終点・間藤駅

 群馬県の東端、栃木県との県境の近くに桐生という町がある。古くから織物が盛んな産業都市だ。この町の玄関口・桐生駅を起点とするローカル線・わたらせ渓谷鐵道は、北に進んで山の中に分け入ってゆく。

 路線の名の通り、渡良瀬川上流の渓谷沿いを走り、途中で群馬県から栃木県に入って、銅山の町・足尾に向かう。足尾銅山の観光もさることながら渓谷沿いの車窓は四季折々の姿を見せて美しく、トロッコ列車なども運転されており、人気のローカル線といっていい。

◆◆◆

「足尾銅山」に残された“貴重すぎる”産業遺産と廃線をたどる

 以前はJR・国鉄足尾線として運行されており、現在のわたらせ渓谷鐵道になったのは1989年のことだ。1914年に私鉄の足尾鉄道として開業し、1918年に国有化。長らく足尾銅山の鉱石輸送を担ってきた、いわば足尾銅山と一体不可分の関係にあった産業鉄道である。

 つまり、足尾の銅山としての賑わいを背負って走り続けたのが、わたらせ渓谷鐵道というわけだ。その終点となるのは、栃木県日光市足尾町にある間藤駅は終点だからもちろん線路はここで途切れていて、ホームの端からのぞいてみるとちゃんと車止めも設けられている。駅そのものも、目の前には古河機械金属の子会社の工場があるくらいで、あとは人気もない山の中。ここから先、およそ町といえる町があるとも思えない。終着駅・間藤は、まさしく終着駅然としたローカル線の終点である。

 ……と言いたいところだが、実は間藤駅から先にも線路は伸びている。いまはもう廃止されていて列車が走ることはないから、伸びていた、というのが正しい。それでも、いまだに草むす中にレールが残っているのだ。足尾本山駅までの1.9km。1914年の開業当初から貨物専用の区間で、1980年代後半まで運行を続けていたという。ほんの少し、間藤駅から先の廃線跡を辿ってみようと思う。

 間藤駅前を通っている道は、銅街道という(他にも足尾銅山街道、銅山街道などと呼ばれる)。江戸時代、足尾で産出された銅を江戸に運ぶために設けられたのがはじまりだ。足尾の銅は、日光東照宮や江戸城の銅瓦にも使われ、17世紀後半には国内では使い切れずに長崎に輸出するほどの産出量を誇っていたという。しかし、江戸時代後半には衰退、ほとんど廃坑状態で明治を迎えている。

 そんな歴史を伝える街道を、間藤駅前から北にゆく。駅前の工場を過ぎれば、古い建物が並んでいるけれど、人通りはほとんどない。ほどなく右に曲がる角があったので曲がってみると、足尾銅山の社宅の跡を横目に上り坂。坂の先では廃線跡を跨ぐ跨線橋に繋がっていた。見下ろしてみれば、レールが残っているのかどうかもよくわからない。それでも、木々の隙間からいかにも廃線跡らしい堀割が見える。間藤駅からは50メートルほどといったところだろうか。

 再び銅街道に戻って北に進むと、すぐに見えてくるのは“廃踏切”だ。さすがに遮断桿は残っていないけれど、遮断機の柱や警標はそのままに残っている。右手は間藤駅方面、左手は足尾本山方面。使われなくなったレールは少し先で川を渡って銅街道の対岸へ向かっている。近づいて見ることはできないが、まだ橋梁もしっかりと残っている。

足尾銅山と歩みをともにした鉄道の歴史

 そんな踏切跡には、有刺鉄線やロープが張られており、危険なので立ち入り禁止といった注意看板が立てられていた。その注意看板にはわたらせ渓谷鐵道に加え、古河機械金属の名も。足尾銅山は、明治初期に民間に払い下げられて、1877年には古河財閥の創業者・古河市兵衛の手に渡る。以後、古河鉱業によって開発が進み、明治半ばには日本の銅生産量の約40%を占めるまでに成長した。

 この急速な発展の裏では、渡良瀬川下流域での鉱毒汚染や、足尾周辺の山がハゲ山になったことによる下流域での水害頻発などの副作用ももたらしている。また、過酷な労働環境から大規模な労働争議も起こっている。そして、この頃にはまだ鉄道は開通しておらず、産出された銅の輸送も艱難辛苦。桐生方面に向かうにも、また反対に山を越えて日光方面に向かうにも、道幅は狭く人がすれ違うのもやっとだったという。

 さすがにそれでは急増した産出量に対応することができず、ケーブルカーや馬車鉄道が設けられている。そして事実上、これらが発展する形で開業したのが、足尾鉄道であった。つまり足尾線、わたらせ渓谷鐵道は開業したときから足尾銅山の銅を運ぶことが最大の役割だった、というわけだ。なお、馬車鉄道は大正末にガソリンカー(つまりバスだ)に置き換わり、足尾の人々の日常の足として活躍するようになる。

「クマ出没注意」の看板が...

 さて、このあたりでもう一度廃線跡に戻ろう。

 といっても、廃線跡が通っているのは川の向こう。しばらくは、対岸に廃線跡を見ながら歩くことになる。川岸の木々の切れ目から川の向こうを眺めると、確かにそこには線路の跡を見ることができる。足尾線の廃線跡は、ほぼ全線に渡って廃止時のままの姿で残されているようだ。

 間藤水力発電所跡の案内板がある脇を抜けて北に歩くと、左に折れて川を渡る橋が見えてきた。橋の入口には、クマが出ますよ、などというおっかない注意書き。もしもクマに出会ったら後ろを向いて逃げると追いかけてくるからうんぬんかんぬんと、ますます恐怖心をあおるような注意も付記されている。

 お願いだからクマさんに出会いませんように、とおっかなびっくり橋を渡ると、確かにそこは人の気配がまったくない世界。銅街道沿いはまだ民家の類いが並んでいるから町の様相はあるものの、橋を渡るとそうしたものは何ひとつ存在しない。少し歩くと、跨線橋の下には廃線跡がこれまたはっきり残っていた。すぐ脇にはトンネルの入口も口を開けている。それ以外には人工的なものは何もないから、確かにこれじゃあいつクマさんに出会っても不思議じゃないですね……。

クマが出没するエリアを抜けて見えてきたのは...

 クマさんも怖いし、そもそもお目当ての廃線跡がトンネルの中に入ってしまって並行する道もないので、橋を渡ってまた銅街道に戻る。ここから銅街道は、「上間藤」と呼ばれる地域に入る。町中のところどころに置かれている案内を見ると、足尾銅山が活況を呈していた頃にはたいそう賑わっていた中心市街地だったという。

 割烹料亭や劇場にはじまり、料理屋や雑貨店、乾物や酒屋、鮮魚を扱う店までずらりと揃い、小学校まで。大正時代、足尾の人口は3万8000人を超えていた。“鉱都”などと呼ばれており、かなり大規模な“都市”だったのだろう。

 いまも上間藤の町並みにはそうした時代の面影がほんのりと残る。廃線跡とは少し離れてはいるけれど、こうした町の中を歩くのもまたなかなか楽しいものだ。上間藤の町はそのまま赤倉という町に続き、郵便局の前を過ぎた先でまた橋があった。今度はクマ出没注意の注意書きがないので、なんとなく安心して橋を渡る。

 その先には、トンネルから抜けてきた廃線跡がまたちゃんと残っている。川沿いの道よりも一段高いところを通っているから近くにはいけないが、北にあるトンネルに入る手前には腕木式信号機も残っている。国内では津軽鉄道だけで使われている、かなり古いタイプの信号機。トンネルを出るとすぐに橋を渡って足尾本山駅だから、駅に入っていいのかどうかを示す信号機だったのだろうか。

見えてきた足尾銅山のそばには重要文化財が...

 ここから線路に沿った道も続いているのだが、治山工事の関係なのか、途中で通行止めになっていた。なのでまたも橋を渡って銅街道へ。古い街並みを歩いて抜けると、すぐにこれまでとはまったく違う立派な橋が見えてきた。ふたつの橋が並んでいて、その片方が「古河橋」。1891年に架けられたトラス橋で、国の重要文化財にも指定されているという。

 そんな橋の向こうには、高いところを渡る廃線の線路が見えて、そのままでっかい建物の中に消えてゆく。その先にはさすがに行くことはできないが、足尾本山駅である。駅そのものが足尾銅山の製錬所(つまり工場)の中にあって、いまも古河機械金属の所有地だ。広大な工場群はまだ形がほぼ完全に残っていて、奥には巨大な煙突も見える。幸いにして対岸の銅街道からそうした工場の様子がよくわかる。

 足尾銅山は明治時代に全盛期を迎え、その後もしばらくは繁栄の時代を過ごす。しかし、銅が枯渇して産出量が減っていったこと、また安価な輸入鉱石の増加によって衰退してゆく。江戸時代以来続いていた足尾での採銅が終わったのは1973年のことだ。ただ、それ以後も輸入鉱石を用いた製錬が行われ、足尾線も製錬に必要な硫酸の輸送、また生産された銅の輸送も続けられている。

 わたらせ渓谷鐵道の終点の先にある、壮大な製錬工場が役割を終えたのは、1989年のことだ。きっかけは、足尾線がJRから第三セクターのわたらせ渓谷鐵道に移管されて貨物輸送を終えたから。全盛期を迎えたのが明治から大正という、100年以上も昔の足尾銅山。そこにあって活躍した足尾の鉄道の廃線跡が、いまもここまで鮮明に残っているのは、閉山から20年以上も製錬所への輸送で命脈を保ってきたからだ。いまも製錬所の建物ともども、足尾の鉱都としての栄華を物語る産業遺産になっている。

足尾に今も残る「近代化」の夢の跡

 こうして足尾の町を歩いて、思い出したのが夕張だ。夕張も、足尾と同じように鉱山によって栄えた。足尾が銅ならば、夕張は石炭。日本有数の産出量を誇っていたこともよく似ている。そして、そこに通じる鉄道が産業鉄道として産出された銅や石炭の輸送で繁栄したのも変わらない。山間部の渓谷沿いに町が広がっていたというところもそっくりだ。

 そして、どちらの町も役割を終えて久しい。夕張では炭鉱の中心部に続いていたレールはすべて剥がされて、のちに遊園地などができたがそれも閉園。広大な廃墟のような駐車場になっている。その点、足尾はまだまだ工場の跡も廃線跡もそのままに残っている。廃線跡を歩けるように整備してほしい、などという向きもあるだろう。が。こうして取り残されたかつての産業鉄道が朽ちてゆくようすを見せられるというのもまた、歴史の1ページ。日本の近代化を支えた鉱都・足尾の息づかいは、消えゆく廃線に残っている。

写真=鼠入昌史

(鼠入 昌史)

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