「独り者で、家族もいないので、自分が行きます」被ばくの危険がある中で…《福島第一原発事故》で若い運転員たちが迫られた“決断”
文春オンライン / 2024年12月6日 6時0分
福島第一原発 写真提供:東京電力
2011年3月11日、東日本大震災に端を発する福島第一原発事故が起きた。当時の菅直人総理大臣が原子力委員会の近藤駿介委員長に依頼してシミュレーションした「最悪シナリオ」では「東日本壊滅」も想定されていたというが、実際には回避された。どのような経緯があったのか。
ここでは、NHKメルトダウン取材班が10年をかけて、1500人以上の関係者取材で事故の真相を追った『 福島第一原発事故の「真実」 』(講談社)より一部を抜粋して紹介する。
震災発生から9時間以上が経過した3月12日の午前0時すぎ、原子炉1号機の格納容器の圧力が通常の6倍に達しているのがわかり、2号機もやがては圧力上昇するとみて、当時の所長であった吉田昌郎さん(56歳)は1号2号とも「ベント」という圧力を下げるための緊急措置を行う決断をした。
霞が関では東京電力・本店対策本部の代表代行がベントの戦略について咀嚼しきれず苦しい説明を続ける一方、現場では若い社員たちが究極の選択を迫られていた――。(全4回の1回目/ 続きを読む )
※年齢・肩書はすべて当時のものです。
◆◆◆
霞が関 紛糾する会見
午前3時すぎ。霞が関の経済産業省で、東京電力が緊急の記者会見を始めた。会見に臨んだのは本店対策本部の代表代行の小森明生(58歳)だった。経産大臣の海江田万里(62歳)と保安院院長の寺坂信昭(57歳)も陪席した。
小森は、開口一番、ベントを実施すると述べ、「午前3時くらいを目安に速やかに手順を踏めるように現場には指示しています」と語った。
すかさず、記者から疑問の声があがった。
「3時って、もう3時ですよ」
すでに午前3時を10分回っていた。
小森は「目安としては早くて3時くらいからできるように準備をしておりますので、少し戻って段取りを確認してから……」と返すのがやっとだった。
当初、東京電力は、午前3時を目標にベントをすると考えていたが、準備をしているうちに、あっという間に午前3時になっていたのだ。
小森はベントについて説明を続けた。
「まずは2号機について圧力の降下をするというふうに考えております。2号機は、夕方くらいから、原子炉に給水するポンプの作動状況がかなり見えない状況になっています」
にわかに会見場がざわついた。
記者の誰もが、1号機の格納容器の圧力が異常上昇したので、当然、1号機からベントすると思っていたからだ。混乱する記者から矢継ぎ早に質問が飛んだ。
「まず、1号機ではないのですか?」
「今、1号機の話をしているんじゃないの?」
小森が答える。
「圧力が上がっているのは、1号機でございますが、1号機も2倍にいっているわけでなくて……。注水機能がブラインドに(見えなく)なっている時間が長い2号機のほうが本当かと疑っていくべきだと」
1号機の格納容器の圧力は8.4気圧。設計時に想定した最高圧力の5.28気圧の2倍までには達していないため、まだ猶予がある。むしろ全電源喪失以降、注水が確認できていない2号機のほうに不安要素があるという説明だった。
しかし、8.4気圧は通常、格納容器にかかる圧力のおよそ8倍にあたる異常な値である。納得できない記者から、質問が投げかけられる。
「1号機は、もうレット・イット・ゴー(対応必要)の状態なんですよね。2号機はなぜですか? 突然、出たのでびっくりです」
小森はあくまで2号機の危機を強調する。
「本当に給水できているかどうかというのが、一番最初に怪しくなったプラントが2号機です」
「我々が技術的に理解しているものから見て、なかなか説明がつかないというのが2号機であります」
錯綜する情報
会見が始まる直前の午前2時半すぎ、免震棟と本店は2号機のベントを優先する方針を決めていた。1号機のベント弁を開ける作業は、高い放射線量のため、準備に時間がかかる。1号機は深刻な状況にあるが後回しにして、まず放射線量が高くなく、作業が可能な2号機からベントを実施するという戦略だった。
しかし、刻々と変わる情報の中で、小森はこの複雑な戦略を咀嚼し切れずに会見に臨んでいた。その後も、小森は繰り返し、1号機ではなく、2号機が危機的状況にあることをことさらに強調するという奇妙な説明を続けた。納得できない記者の質問が、次第に詰問調になり、記者会見は紛糾し始めた。
会見が始まって30分近くが経った頃だった。突然、東京電力の原子力担当の社員が会見を遮り、怒鳴るように告げた。
「今、入った情報でございますけど、現場で、RCICという設備で2号機に水が入っていたことが確認できたという話が、今入りました! 申し訳ありません」
午前2時55分に、2号機の原子炉建屋に入っていた運転員が、RCICの作動を確認したという情報が、免震棟の吉田から東京の本店を経由して、ようやく経済産業省の会見場に届いたのだった。
すかさず、記者から確認の質問が飛んだ。
「それを受けて2号機からやるか1号機からやるか判断し直すということですね」
「そういうことですね。申し訳ございません。申し訳ございません」
一転して2号機ではなく、1号機の危機がクローズアップされてくる。錯綜する情報に小森は、翻弄されるばかりだった。
中央制御室 未明の志願
霞が関で小森がベント方針について説明を二転三転させる苦しい会見をしていた頃、中央制御室は、ベント準備の動きがほぼ止まり、重苦しい空気に包まれていた。
室内では、運転員たちが防護服姿に全面マスクを着けて膝を抱えるように床に座っていた。地震発生時、中央制御室には、当番だったA班の運転員14人と操作を補佐する作業管理グループの10人がいたが、非番だった別班の当直長や当直副長が次々と応援に駆け付け、その数はおよそ40人に膨れ上がっていた。
部屋のほぼ中央にある当直長の机には、原子炉建屋の図面やマニュアルが広げられていた。当直長と、駆け付けた別班の当直長らリーダー格の5人がホワイトボードにベントの弁の位置や開ける手順を書き込み押し黙っていた。その後方に控えるようにしゃがみ込んでいた運転員たちは、部屋の2号機よりのスペースに肩を寄せ合うように集まっていた。
50メートル先の原子炉建屋から放射性物質がひたひたと忍び寄っていた。放射性物質を遮る換気装置が電源喪失で止まってしまい中央制御室でも天井近くや原子炉建屋に近い1号機側のスペースから放射線量が上昇し始めていた。このため運転員は、少しでも被ばくを避けようと2号機側にしゃがみ込んでいたのだ。運転員の中には、30代前半や20代の若い社員も少なくなかった。入社8年目の井戸川隆太(26歳)もその一人だった。
井戸川は、非番のD班の主機操作員だったが、地震直後、自発的に応援に駆け付けていた。原子炉水位や格納容器圧力の調査に奔走していたが、この頃になると、ほぼやることはなくなり、指示を待つだけとなっていた。放射線量の上昇に、井戸川は異常な状態だと感じていた。もはや悪化するのみなのだろうか。「もう駄目かもしれない。最悪、死もあるかもしれない」そう思っていた。しかし、そうした思いは決して口にも顔にも出すことなく、なるべくマイナスに考えないように、時折、同僚に世間話風にとりとめのない言葉を掛けたりしていた。
「やばい。逃げたい」
30代のA班の運転員はそう思っていた。怖かった。おそらく周りの仲間もそう思っているだろうと感じていた。だが、その思いを口にすると、みんながパニックになるだろうから、決して誰も言わないと思っていた。ひたすら格納容器もってくれと祈っていた。
時折、沈黙を破るように当直長机のホットラインのベルが響いた。その瞬間、座っていた運転員たちの視線が一斉に当直長に集まった。当直長は、いつもと変わらず落ち着いた声で免震棟と何事かをやりとりしていた。「この人だから」30代の運転員は、思った。「パニックを起こさないでいられるのかもしれない。僕らも冷静でいられるのかもしれない」当直長は怒鳴ることも焦るそぶりも見せなかった。いつも通りだった。
「希望者は、手をあげてほしい」
午前3時45分。1号機の原子炉建屋の放射線量を測定するため、免震棟から派遣された保安班員が二重扉を開けた瞬間、扉の向こう側に白いもやもやとした蒸気が充満しているのを見て、すぐに扉を閉めた。保安班員は、放射線量測定ができないまま引き返さざるを得なかった。
その様子を聞いて井戸川は、「ああもうすごいことになっているんだな」と思った。おそらく格納容器にある弁のいくつかが、完全ではないにせよ、ある程度開いてしまって、蒸気が漏れてきてしまっているのではないか。井戸川はそう思った。
中央制御室には、耐火服や空気ボンベなど、被ばくをできる限り避けるための防護装備が運び込まれていた。さらに、免震棟から緊急時の被ばく限度である100ミリシーベルトの手前の80ミリシーベルトになるとアラームが鳴るようにセットされた線量計が届けられた。
再びホットラインのベルが鳴った。運転員たちは、一斉に当直長を見つめた。免震棟とのやりとりが、これまでより少し長いように感じられた。電話を置いた後、当直長は、部下を見つめながら口を開いた。
「ベントに行く人を決めたいと思う。希望者は、手をあげてほしい」
そして自ら手をあげて、こう言った。「まず自分が行く」
どれほど放射線量が高いかも正確にわからない現場に若い社員には、行かせられない。最初からそう決めていた。即座に、近くに立っていた最年長の作業管理グループ長が口を挟んだ。
「駄目だ。お前は最後までここで指揮をとらなければならない。俺が行く」
当直長はうなだれて押し黙った。静まり返った中央制御室の中で、しかし次の瞬間、若い運転員の声が響いた。
「自分が行きます」
一瞬の沈黙の後、今度は、別の若い運転員が声をあげた。
「自分は独り者で、家族もいないので、自分が行きます」
運転員たちが、一人また一人と手をあげ、この危機的状況を救うために自ら現場に行くと志願し始めた。当直長は、呆然と、部下たちの姿を見つめていた。涙が出る思いだった。だが感傷にふけっている暇はなかった。ベントに行く人間を決めなければならない。
当直長は、放射線量や余震の強さによっては途中で引き返すことを考慮して、ベントに行くのは、2人一組3班にすることを決めた。1班ずつ原子炉建屋に入り、中央制御室に戻ってから、次の班が出発することを申し合わせた。若い者は行かせられない。当直長がベントに行く者を告げた。
第1班は、作業管理グループ長とE班副長。第2班は、C班当直長とE班当直長。そして第3班は、3、4号機のB班副長と5、6号機のD班副長。いずれも40代後半から50代の1号機をよく知っているベテラン運転員だった。この布陣が、中央制御室の答えだった。
ベントに行くことになったE班の当直長は、「放射性物質を地元にばらまく行為を若い運転員にやらせて、後々まで悔いを背負わせるわけにはいかない」と考えていた。「高卒の自分をここまで育ててくれた会社に恩を返したい」そう思っていた。
〈 「今何やってるんだ」「いつになったらできるんだ」東京電力副社長はイラだった菅直人の問いに答えられず…《福島第一原発事故》早朝の総理来訪の裏側 〉へ続く
(NHKメルトダウン取材班/Webオリジナル(外部転載))
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