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aiko49歳に 「テレビいっぱい出ろとか言うのやめてください」→スタッフ全員が下を向き、その後…20代の頃にショックを受けた“出来事”とは?

文春オンライン / 2024年11月22日 11時10分

aiko49歳に 「テレビいっぱい出ろとか言うのやめてください」→スタッフ全員が下を向き、その後…20代の頃にショックを受けた“出来事”とは?

1999年にリリースされた「カブトムシ」(ポニーキャニオン)

 今年(2024年)のNHK紅白歌合戦に歌手のaikoの5年ぶり15回目となる出場が決まった。今月17日には、「花火」に続く彼女のヒット曲「カブトムシ」のリリースから25年が経った。

 aikoは「カブトムシ」リリースの前年、1998年7月に「あした」でメジャーデビューした。レコード会社とは当初、このシングル1枚だけのショット契約だったが、彼女の地元・大阪の外資系レコード店でB'zやL'Arc~en~Cielを押さえて売上1位となったことから、アーティスト契約を結ぶことができたというエピソードが残る。

2ndシングルの発売が「だんご3兄弟」と重なり…

 もっとも、全国的にはまだ無名であった。2年目の1999年3月3日に出した2ndシングル「ナキ・ムシ」は、ちょうど同日、同じレコード会社からテレビですでに人気だった「だんご3兄弟」が発売され、会社中が熱に浮かされていたためまったく気にかけてもらえなかった。そんな扱いに、来社していた彼女はつい腹が立って「aikoも発売なんです!」と大声で叫んだという。それも続く8月発売の「花火」、さらに「カブトムシ」のあいつぐスマッシュヒットにより笑い話となった。

好きなものを作りたいという思いで生まれた「カブトムシ」

「花火」は発売から3ヵ月をかけてヒットチャートの10位に登り詰め、世間からも周囲からも「次も『花火』っぽいキャッチーで元気な曲が聴きたい!」という期待が高まった。aikoはそれにプレッシャーを感じて悩みながらも、《やっぱり自分の好きなものを作りたい! その思いで生まれた曲が「カブトムシ」という、バラードだったんです》とのちに明かしている(『anan』2023年3月23日号)。

 カブトムシといえば夏の虫だが、この曲のリリースは冬を間近に控えた11月。スタッフにその意外性から「11月にカブトムシはどうだろう?」と提案されたとき、aikoはカブトムシが夏の虫とは知らず「何で?」と思ったという。しかし、これがもし、彼女のなかにカブトムシは夏の虫だという固定観念があったなら、四季を通じて恋人とすごした思い出も込められたその詞は果たして生まれただろうか。

「エロなイメージ」「性的なものも感じた」

 aiko自身の説明によれば、同曲の詞には、カブトムシは樹液を見つけると一目散にそこに行ったり、ほかのカブトムシが来たら角で木から落とすことから、《自分も恋愛にはそうでありたいな》との願望を込めたという(『JUNON』2000年1月号)。これに続けて彼女は次のように語っている。

《[引用者注:カブトムシに]エロなイメージ、性的なものも感じたんですよ。本能むき出しですごく貪欲やのに、見てくれは丸くって硬い羽根で自分を守ってる。あと、ゆっくりゆっくり地に足をつけて歩くでしょ。そこから長い人生をイメージしたんです。私も好きな人とゆっくり時間をかけて年老いていきたいなって。だけど、今したいことがいっぱいありすぎてどうすればいいかわからない。そういう葛藤を込めてます》(同上)

 そんなふうに自分の思いを率直にぶつけたことが、人々の共感を集めたのかもしれない。ちなみにaikoはこの曲を、そのころエフエム大阪でDJを担当していた土曜深夜の番組を終えて朝方に帰宅すると、そのまますぐピアノに向かってつくったという。徹夜明けではあったが、頭にはすぐ上記のようなイメージが連想ゲームのように浮かんできたらしい。

49歳の誕生日を迎えた

「カブトムシ」にかぎらず、《詞を書く時は、その時思ったことを、そのまま書き留める感じ。それがCDになって、みんなに聴いてもらえるわけだから、言ってみれば、めちゃくちゃ贅沢な日記を書いているようなものかもしれない》と、aikoは同曲がヒットしていたころに語っていた(『anan』2000年3月3日号)。きょう11月22日に49歳の誕生日を迎えた彼女だが、この制作スタイルは現在にいたるまで変わらない。

「カブトムシ」のように一気に書き上げることはまれとはいえ、ほとんどの曲は期限を決めて書いたことはなく、思いつくたびに書き留めてきた。2020年のインタビューでは、1コーラスだけでも書いてストックしている歌詞は40~50はあると言い、そうやって書き溜めたものを《後で見返して『あ、これ今メロディ付けてみよう』って、譜面台に置いて曲にする。そんな感じですね》と語っている(『SWITCH』2020年6月号)。彼女の曲づくりでは歌詞を伝えることが何より重要であり、つけたメロディに言葉の音の響きやリズムが上手く合わなくても詞を修正することは基本的になく、そういう場合は音符を足していくことが多いという。

 そもそもaikoがこうしたスタイルをとるようになったのは、デビュー前夜にさかのぼる。彼女は大阪音楽大学短期大学部に在学中の1995年、ヤマハ主催のコンテスト「ティーンズ・ミュージック・フェスティバル」でティーンズ大賞を受賞、さらに卒業後の翌年には同じくヤマハ主催の「ミュージック・クエスト・ジャパン・ファイナル」で椎名林檎らとともに優秀賞を受賞した。

「曲作りが追いつかなくなると、アーティストは消えていくんだよ」

 このときの受賞を機に複数の事務所からスカウトを受ける。そのなかにあって、スカウトするわけでもないのに電話をくれたのが、のちに所属する事務所の社長だった。社長は電話をくれるたび二言目には「曲書いてますか?」と訊いてきたという。それというのも、デビューしたら曲を書く時間がなくなるとの理由からだった。「気づいたらアルバム制作に曲が追いつかなくなって、書けないし、曲もできないし、CDも出せないしっていう悪循環のもと、アーティストは消えていくんだよ」とかなりシビアな話も聞かされたらしい(aiko『aiko bon』ソニー・マガジンズ、2005年)。

 おかげで彼女は日頃から曲を書くことを心がけるようになった。それが1997年末より半年あまりのインディーズ時代を経て、メジャーデビューしてからもずっと続いているというわけである。

 彼女の曲の大半はラブソングで、それらの詞はすべて自身の経験と妄想がベースになっていると、彼女はことあるごとに語ってきた。ただ、ときには思いがけない出来事が動機となって曲を書くこともあったようだ。

「テレビいっぱい出ろとか言うのやめてください」副社長にぶつけた言葉

 たとえば、2001年、NHKホールでライブがあった日のこと。このとき彼女はドラマの主題歌のオファーを受け、ちょっと切羽詰まっていたらしい。終演後、スタッフらと焼肉を食べに行くと、ちょうどレコード会社の副社長が来ていたので色々と話をするうちについ、「あたしたちはこうやって頑張ってきてるし、できれば音楽をずーっとやっていきたいんです。だからスポット打てとかテレビいっぱい出ろとか言うのやめてください」とぶつけてしまった。すると副社長は「汗ブワッとかなって」(aikoによる表現)、いつもは信頼を置いているスタッフも全員下を向いてしまい、彼女はショックを受ける。《それでガビーン、って家に帰って『見返してやれ!』くらいの気持ちで一気に5曲》書いたという(『ロッキング・オン・ジャパン』2002年5月25日号)。

泣きながら、悲しい悔しいの一心で書いた曲

 このとき書かれた曲の一つと思われる「陽と陰」(シングル「おやすみなさい」の収録曲)について、彼女は《すっごい泣きながら作って。悲しい悔しいの一心で書きましたね》と著書で明かしている(前掲、『aiko bon』)。このように落ち込んだときなどにつくられた曲は彼女には珍しくなく、以下の発言にあるように、それをさらにライブで歌うことで昇華させているところがあるらしい。

《私、イヤなことや嬉しいことがあると全部曲にして、そこではじめて気持ちが落ち着くところがあるんです。それをファンのみなさんの前で唄うとさらに違う感情が生まれて、その曲にはファンのみなさんの前で唄った思い出が宿るようになっていく。(中略)だからその出来事が起こった時は悔しかったり悲しかったりしたことでも、曲に変換してみなさんの前で披露することで全然違うものに変形していくんです。ある意味、恋愛の傷が音楽で癒やされていくというか。たとえ現実で悲しいことが起こっても、ファンのみなさんの前で唄うことでマイナスの感情が〈ろ過〉されていく――そういうところがあるんです》(『音楽と人』2021年4月号)

〈 “育ての親”プロデューサーの逮捕、「洗脳されていた」発言の真意は…aiko(49)がデビュー当時から“欠かさず続けていること” 〉へ続く

(近藤 正高)

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