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22歳の若者が1時間で30人を惨殺「殺したのは自分をいじめたり捨てた女性ばかり…」現地で関係者に聞いた《津山事件》犯人の人物像

文春オンライン / 2024年12月7日 17時0分

22歳の若者が1時間で30人を惨殺「殺したのは自分をいじめたり捨てた女性ばかり…」現地で関係者に聞いた《津山事件》犯人の人物像

津山事件が起こった集落・貝尾 ©石川清

 1938年(昭和13年)5月21日未明、岡山県の山間にある西加茂村(現在は津山市)の貝尾という集落で、30人もの老若男女がわずか1時間あまりの間に相次いで惨殺される事件が起きた。その事件こそが、世にいう「津山三十人殺し」である。

 事件の犯人である、当時22歳の都井睦雄は一体どんな青年だったのか。ここでは、津山事件研究の第一人者であり、2022年6月に57歳で急逝した石川清さんの記録をまとめた 『津山三十人殺し 最終報告書』 (二見書房)より一部を抜粋して紹介する。

 事件から70年近くが経った2006年、事件が起きた貝尾や睦雄が生まれた倉見のあった加茂谷周辺を石川さんが訪れた際、当時を知る証言者から訊くことができた睦雄の人格とは――。(全4回の1回目/ 続きを読む )

◆◆◆

墓を守る女性

 2006年(平成18)、都井睦雄が生まれた倉見で、睦雄やその家族(祖母、両親)の墓を守る女性。この女性は睦雄の従兄弟と結婚しており、従兄妹の姻族にあたるが、睦雄と親交のあった従兄弟たちを通じて、間接的に睦雄の人間性を知る人物でもあった。

 事件発生時、この女性は倉見の下流の集落に住む小学生だった。貝尾で大量殺人が発覚した直後の朝は、加茂谷とその周辺全体がパニックに陥っていた。睦雄が猟銃や日本刀を持ったまま、山中に逃亡していたと見られていたからだ。睦雄が再び、無差別殺人に走るのではないか――とまことしやかに囁かれ、実際に学校では生徒たちに注意を促し、睦雄の自殺が判明するまで休校の措置などもとられたという。

 倉見で墓を守るこの女性も、当時は睦雄の凶行に恐怖した子どものひとりだった。だが、倉見の都井家に嫁に来て、睦雄の性格や事件当時の睦雄を取り巻く深刻なイジメ、いわば村八分のような事情を知った。そして、睦雄に対するイメージが変わったことで、直接面識のなかった亡き従兄妹の睦雄を「むっちゃん」と親しみを込めて呼んでいる。

「ここが殺人犯の屋敷だったことは知っています」

 貝尾の集落に入ると、左側に古い土塀の廃屋が見えてきた。つい最近まで人が住んでいた気配がする家で、土壁がところどころひび割れていた。この家は事件当時にもあったが、睦雄の襲撃を受けなかった。

 少し歩くと、睦雄の家があった場所にたどりついた。

 事件後に担当検事が「構えだけは大きく立派であるが、古式蒼然かつ相当荒廃しているばかりでなく、屋内はなはだ暗く文字通り鬼気迫るの感ある家」と評した当時の家屋はもちろん今はなく、2階建ての立派な家があって人が暮らしている。

 事件後、相続人のなくなった睦雄の家は近親者によって50円で他村の者に売られ、その後はその子どもや孫たちが住んでいる。たまたま私が訪ねたとき、この家に住む女性と庭先で話すことができた。

「ここが昔の殺人犯の屋敷跡だったことは知っています。ですが、どういう経緯でわたしたちの祖父がここを買って移り住んだのかは知りません。貝尾では事件のことを話すのは憚かられますので、これ以上はお話できません。まだ当時の生き残りのお年寄りも近所にはいますが、やはり話しませんよ。前に記者やレポーターが話を聞きにきたときも、血相を変えて怒鳴って追い返していましたから」

石塔の代わりに置かれた川の石

 睦雄の墓は貝尾にはない。貝尾から20キロほど倉見川をさかのぼった山の奥地、倉見にある。

 倉見から鏡野町へ抜ける幹線道路のすぐ脇にある山の斜面に睦雄と祖母の墓はある。

 睦雄の墓に石塔はない。ただ握りこぶし3、4個分ほどの石がぽつんと置かれているだけの粗末な墓だ。その右隣には祖母いねの立派な石塔があつらえた墓がある。

 この墓を守っているのが、冒頭で触れた睦雄の従兄弟に嫁いだ女性・菊代さん(取材当時80歳)で、事件当時の記憶を残す数少ない生き証人のひとりである。睦雄の祖母いねは、この女性の夫の祖母にあたる。

 私が訪ねると、笑顔で家に迎え入れてくれた。菊代さんは睦雄のことを“むっちゃん”と親しみを込めて呼んでいた。

「むっちゃんは頭が良くて、よくできた子でしたよ。事件のあとはみんな驚きました。よほどほかの村人にいじめられていたんだろうなあ、って。うちのおじいさん(夫)は荒坂峠で自殺したむっちゃんの亡骸を5、6人で出かけて、ここ(倉見)まで運んできたんですよ。血染めの遺書には貝尾の人にいじめられた恨みの言葉がたくさんつづられていたそうです」

 荒坂峠で死んだ睦雄の遺体は倉見まで運ばれ、ささやかながら葬儀も執り行なわれたという。睦雄の姉みな子も臨月をおして、津山一宮の嫁ぎ先からかけつけてきた。

 倉見では事件当時は土葬が一般的であり、睦雄の遺体も一族の眠る墓地の下に土葬された。墓石を設けるかどうかというときに、ちょっとした口論が起きたという。

 睦雄の姉は「せめて立派な石塔を作ってやりたい」と願った。しかし、姉の夫は「石塔なんてもってのほか。睦雄の墓だということは絶対他人に知られてはいけない」と言って、結局倉見の家の近くを流れる倉見川から拾ってきた、なんの変哲もない川の石を石塔代わりに睦雄の遺体を埋めた上に置いた。

 祖母の遺体も倉見まで運ばれてきた。運搬に先立って、切断されていた首と胴体を糸と針で結びつけ、睦雄の右隣に埋葬した。

「むっちゃんは、それは小さいときから賢いいい子でしたよ」

「むっちゃんは、それは小さいときから賢いいい子でしたよ」

 睦雄の父親は、祖父が亡くなったあと、倉見の都井家の本家を継いだ。嫁(睦雄の母親)は山を越えた阿波の山村からもらった。

「昔は山の者は山の者と結婚することが多かったです。ですから、倉見の者はだいたい阿波や物見、越畑などと嫁のやりとりをしておりました。貝尾とはほとんど人の交流はありません。ただ、うちの人の祖母(睦雄の祖母でもある)だけは貝尾から嫁いできていました」

 山の民から見れば、貝尾はどちらかといえば里の平地民である。だから、睦雄の祖母は慣れない山奥の暮らしには相当難儀したはずだ。

 睦雄の父親が継いだ都井家は財産家だった。山と畑を所有していた。山は睦雄の墓のあるすぐ裏の大きな山である。睦雄の父親には兄弟が多くいたが、全員が家を出て、弟ふたりは隣に分家を作って暮らした。そのほかの兄弟はそもそも倉見自体を出て行ったという。

 睦雄が2歳のときに父親が肺病(結核)で死に、また3歳のときには母親も結核で失った。家に残ったのは祖母いねと姉みな子、そして睦雄の3人だけとなった。

 睦雄が4歳のときに祖母は突如睦雄姉弟を連れて、下流にある西加茂村の市街地の小中原に移住した(突然の移住の理由については後述する)。

 睦雄が6歳のとき、祖母は都井本家の山林を500円で処分し、そのお金で故郷貝尾に土地と家を買って移り住んだ。このとき山林を売った相手は、都井本家から別れて隣に移り住んだ分家(祖母にとっての息子、睦雄にとっての叔父)だった。500円の受け取りには睦雄がひとりで倉見を訪れた。

「むっちゃんはよく頭のまわる子でねえ。お金を落としちゃいけないと、わざわざ服の裾の裏にお金を縫いつけて持ち帰ったんですよ」

犯行に走らざるを得ないほど睦雄を追いつめた村人

 睦雄の犯した理不尽な凶行を容認するわけではもちろんないが、一方で睦雄が犯行に走らざるを得ないほどまでに追いつめられた哀しい事情も菊代さんは承知していた。

「お姉さんが嫁いだあとは、あまり話し相手もいなかったようですよ。しかも変な噂を流されて、かわいそうに相当傷ついていたようです。最初に村ぐるみでいじめたのはほかの村の人たちだったと聞いています。もちろん事件は悪いことなんですけれども」

 そして、津山事件が発生した。

「わたしはまだ小学生でしたが、先生があわてて授業を中止にして“家に帰りなさい”と言いました。そのころ、倉見のほうではむっちゃんが自殺したなんて知らないから、親戚筋の人は“猟銃で襲われたら大変だ”と言って、何日か蔵で寝泊りしたんです。

 ですが、実際にはむっちゃんが殺したのは、自分について悪い噂を流したり、自分をいじめたり、捨てた女性ばかりだったそうです。貝尾の近くに住むわたしらの親戚の家にもやってきたんですが、紙と鉛筆(最後の遺書を書くため)を借りていっただけで、危害はまったく加えませんでしたから」

 菊代さんは睦雄が最後に訪ねた武元市松一家とも親戚関係にあった。

〈 バクチに負けて“スケベ屋敷”のすぐ裏で妻を抱かせることも…「一種の文化だったわけよ」《津山三十人殺し》が起きた時代の“性に開放的すぎる風習” 〉へ続く

(石川 清/Webオリジナル(外部転載))

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