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父が突然倒れ「余命4日」と…32歳で町工場を継いだ“元主婦”2代目社長が語る、キツすぎる就任当時「従業員全員が『敵』になった」

文春オンライン / 2024年12月20日 7時0分

父が突然倒れ「余命4日」と…32歳で町工場を継いだ“元主婦”2代目社長が語る、キツすぎる就任当時「従業員全員が『敵』になった」

諏訪貴子さん ©山元茂樹/文藝春秋

 町工場を営む家の次女として生まれ、当時32歳の主婦だった諏訪貴子さん(53)は、先代である父が亡くなったことをきっかけに、突然2代目社長に就任することになった。

 まだ女性経営者の数が少ない時代、冷たい視線に晒されながらも経営難を乗り越えて、後に 『町工場の娘』 (日経BP)という本を書いた諏訪さんは一体どんな人物なのか。

 ここでは、父・保雄さんとの関係や幼くして亡くなった兄の存在、突然の社長就任にあたっての当時の心境などを詳しく伺った。(全2回の1回目/ 続きを読む )

◆◆◆

白血病を発症した兄のために町工場を創業した父

――諏訪さんが代表を務める町工場「ダイヤ精機」は、諏訪さんのお父さんが立ち上げた会社だそうですね。

諏訪貴子さん(以下、諏訪) はい。サラリーマンだった父はゲージ工場を営む義理の兄から機械2台と職人3人を譲り受け、高度経済成長期のまっただ中にダイヤ精機を創業しました。3歳で白血病を発症した兄の治療のために、お金が必要だったからです。父の努力のかいあってダイヤ精機は短期間で業績をあげて、兄も当時の最新の治療を受けることができました。しかし、1967年に6歳で亡くなりました。私が生まれたのはその後です。

――書籍では、お父さんは貴子さんが生まれたとき「女の子か」とショックを受け、病院に一度も顔を見せなかった、という衝撃的なエピソードが書かれていました。

諏訪 当時は、女性は結婚して子どもを産んだら家庭に入るのが当たり前とされた時代でした。だから、生まれたのが女の子だと知って、後継者を望んでいた父がひどく落胆したのは理解できます。

 でも生まれたときのエピソードが気にならないくらい、父からはたくさんの愛を受け取りました。仕事が忙しくて一緒にいる時間は多くはありませんでしたが、その分一緒にいる時間は全力で愛情を注いでくれたというか。私を車で送迎してくれるとき、信号が赤になった瞬間にすかさず「たかちゃんたかちゃん!」といってベタベタしてくるような人でしたね(笑)。また、私が友人関係のトラブルに巻き込まれたときは、何も聞かずに私の味方になってくれました。

 愛情表現が凄すぎて、「めんどくさい!」と思う時もありましたけど(笑)。いつも優しくて、面白くて、かっこよくて、自慢の父でした。

「兄の生まれ変わりだ」と言われて育ってきた

――お父さんから「ダイヤ精機の2代目になってほしい」と言われたことはありますか?

諏訪 一度もないですね。でも、電車、自動車、戦隊グッズ、プラモデルなど男の子が好むおもちゃでばかり遊ぶ私を見て、「貴子は兄の生まれ変わりだ」「女の子だけど、貴子なら会社を継げるかもしれない」と周囲には話していたそうです。

 たしかに今振り返ると、いつもは私に甘々な父が、大学の進路を決めるときは 「工学部以外は許さない!」と頑なだったり、結婚・出産後も働ける場所を探していた私をダイヤ精機に入社させたり。そして、役員でもない私を銀行との交渉の場に同席させたり、経営のことを考えさせたりと、父なりに、いつか私に引き継ぐ準備を進めていたんだな、と思います。

 また、私自身小さいころから両親に「あなたは兄の生まれ変わりだ」と言われて育ってきたから、自然と「兄ならどう考えるか」「どんな選択をするか」と考える癖がついていました。そのためか、父が倒れて突然事業承継の話が浮上したときも、「兄なら迷わず会社を継ぐはず」と腹をくくれましたね。

――「あなたは兄の生まれ変わりだ」という言葉は、捉え方次第ではネガティブに受け止める人もいそうですが……。

諏訪 私は、「兄の生まれ変わりなら、兄の分まで自分を大事にして生きなきゃな」とポジティブに捉えています。それは、私がそう思えるくらい両親が愛情たっぷりに育ててくれたから。

 また、兄の生まれ変わりということは、私の中で兄は生き続けているということだと思っていて。寂しいときも、辛いときも、私は一人じゃなくて兄と一緒なんです。そう考えると、「生まれ変わり」ってすごく素敵な表現だと思うんですよね。

結婚・退職後、子育ての中でダイヤ精機に入社

――会社を引き継ぐまでは、どんなお仕事をされていたのでしょうか。

諏訪 大学時代は、アナウンサーに憧れていたんですよ。ちょうどその頃、理系出身のアナウンサーとして楠田枝里子さんが活躍されていて。「私もああいうかっこよくて華やかな仕事がしてみたい!」と思っていました。でも、当時の就職活動は、今のように受けたいところを自由に受けられるスタイルではありませんでした。ダメ元でテレビ局に資料請求したら、送られてきたのは技術系の職種の募集要項ばかり。それを見て、「やっぱり私は技術職だな」と決心できましたね。

 その後、新卒で大手自動車部品メーカーにエンジニアとして就職しました。2年後、同僚だった夫と結婚。当時は寿退社が当たり前の時代だったので、結婚と同時に退職しました。「これからは専業主婦として家族のためにがんばるんだ!」と意気込んだものの、どうしても家でじっとしていられない性格で……。家事や子育てをしながらブライダルの司会をやったり、スイミングのコーチをしたりと動き回っていました。その頃、ダイヤ精機にも2度入社しています。

父から2回もリストラされた理由

――「2度」入社したとは?

諏訪 創業以降、ダイヤ精機は順調に売上を伸ばしていたのですが、バブル崩壊後は厳しい状況が続いていました。そんな時、経営難を乗り越えるために「大手メーカーでの勤務経験を活かした施策を考えてくれないか」と父から入社を打診されたんです。入社後は総務部に所属し、会社の各部門を回りながら経営状況を分析しました。

 その結果、バブル期から売上は半減しているにも関わらず、社員数は変わっていないこと、明らかな不採算部門があることが判明したため、リストラを提案したんです。そしたら、私がリストラされてしまって。

 さらに、一度リストラされたあとに同じ理由で会社に呼び戻され、同じ理由でリストラされたので、「2度」入社と退社を繰り返しているんです(笑)。

――リストラをきっかけに、お父さんと気まずくなることはなかったのでしょうか?

諏訪 それが、全くなかったんですよね。昔から父は、家で仕事の話を全くしない人でした。それは、私が社員として働いているときも同じです。仕事のことで意見が合わず、会社で激しい言い争いをしたときも、プライベートでは私が子どもの頃と変わらず甘やかしてくれる。そんな父だったから、私も仕事とプライベートを切り分けて考えられたのだと思います。

――お父さんは、仕事の顔とプライベートの顔が違ったのでしょうか?

諏訪 全然違いましたね。家ではとにかく子煩悩で、子どもを笑顔にするためにはどんなことでもするひょうきんな人でした。でも、仕事ではとにかく厳しかった。同時に、従業員をとても大事にする人でした。

 経営者って、時には辛い選択もしなきゃいけないじゃないですか。私と暮らしていたときだって、しんどい場面は何度もあったはずです。でも、家で父の厳しい顔や辛そうな顔は見た記憶がないんですよ。思い出すのは、笑顔の父ばかりです。

突然父が倒れ、医師の話では「余命4日」

――現在貴子さんは、そんなお父さんの後を継いでダイヤ精機の社長として活躍されています。会社を引き継ぐこととなった経緯を教えて下さい。

諏訪 本当に突然父が倒れて、病院に運ばれて……。医師に話を聞いたら、余命4日だっていうんですよ。何が何だか分からないけど、「私が会社をなんとかしなきゃ」という思いだけはあったんですよね。「こんなとき兄だったら、迷いなく『俺が会社を継ぐ』と言うんじゃないかな」って。

――とはいえ、一般的に町工場の従業員の平均年齢は高く、女性の割合も少ないですよね。そんな中、諏訪さんが経営を引き継ぐのは大変なことも多かったのではないでしょうか。

外からも中からも罵倒され、声を押し殺して泣いた夜

諏訪 私が社長に就任したのは、32歳のときです。何度もお話ししているように、当時は働いている女性がそもそも多くなかった時代です。ましてやベテラン職人で成り立っている男性社会の町工場の代表が、若い女性に務まるわけがない、と思われていました。

 周りの企業や銀行から「2代目が女性なんて、あの会社はもうだめだ」と言われることは日常茶飯事でしたね。父の代からお世話になっていた銀行からは、私に代が替わった瞬間「合併」を持ちかけられました。しかも、「社長には、お辞めいただきます。合併後の新会社社長には、先方の社長に就いてもらいます」という言葉つきで。

 また、外だけでなく従業員からも全然信用されなくて。私が2度のリストラにあった後も、ダイヤ精機は売上難が続いていました。そこで私が社長就任してから1週間で、以前から経営を立て直すためには避けて通れないと考えていたリストラを実行することにしたんです。リストラによって会社がなくなるリスクは避けられましたが、従業員全員が私の「敵」になったのを痛感しました。

 就任したばかりの頃は、外からも中からも罵倒されることが多かったですね。それでもしばらくは、とにかく経営を立て直すことに必死で、大変だと思う余裕すらありませんでした。ただ、息子に気付かれないように声を押し殺して泣いた夜は何度もありました。

踏ん張り続けられている理由は「兄と一緒」だから

――その時期を、どう乗り越えたのでしょうか。

諏訪 やっぱり、「兄と一緒」だから乗り越えられたと思っています。どんなに周りが敵だらけに見えても、心の中の兄だけは、絶対に味方でいてくれる。どうやって乗り越えようか、一緒に考えてくれるんです。

 生前、兄が母に「なんで僕は生まれてきてしまったんだろう」と問いかけたことがあるそうです。その意味を見つけるのは、兄の生まれ変わりである私の役目だと思っています。だから、「兄のためにも、こんなところでくじけていちゃいけない!」と踏ん張り続けられているのかもしれません。

〈 「私は心も身体も強い! と思っていたのに」パニック障害を発症してしまい…元主婦の町工場2代目社長が“日本の経営者に伝えたいこと” 〉へ続く

(仲 奈々)

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