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一橋卒の高学歴ドラァグクイーン・エスムラルダ(52)が明かす、同性愛者を自覚し悩んだ時代「豊富な性体験を赤裸々に話す人がいて…」

文春オンライン / 2024年12月21日 11時10分

一橋卒の高学歴ドラァグクイーン・エスムラルダ(52)が明かす、同性愛者を自覚し悩んだ時代「豊富な性体験を赤裸々に話す人がいて…」

エスムラルダさん 

 独自の路線で注目を集め、活動30年を超えたドラァグクイーンのエスムラルダさん(52)。一橋大学出身と高学歴で、多ジャンルにわたるライターという顔をもち、商業ミュージカルも手掛ける脚本家でもある。さらに2018年にはドラァグクイーン・ディーヴァ・ユニット「八方不美人」のメンバーとして歌手デビューを飾り、現在も華麗な活躍が続いている。

 そんな多才なエスムラルダさんに3回にわたってお話をうかがった。第1回は、同性愛者であることを自覚し悩んだ時代を越え、ゲイ文化に触れてドラァグクイーンデビューするまでのお話。(全3回の1回目/ 続きを読む )

よその家で、演歌を歌って聴かせていた子ども時代

――エスムラルダさんはどのような環境で育ったんでしょう?

エスムラルダ 家族は父、専業主婦の母、4つ上の姉が1人。父親が石油会社の社員で転勤族だったのでコンビナートのある土地に移り住んでました。

 生まれは大阪の泉大津、そのあと堺の南側にある高石っていうところに移り住んで、小学校4年から6年の間は広島へ。東京に来たのは中学校からです。

――関西弁のイメージが全くないので大阪出身とは意外です。

エスムラルダ 両親は山口出身なんですけど家では標準語。でも、子どもってやっぱり順応性が高くて、友だちとしゃべるときは大阪弁や広島弁でした。それから高校・大学進学とずっと東京で暮らしたので、標準語になりました。

――高校時代はすでにバンド活動で音楽をやっていらしたとか。

エスムラルダ 高校にロックバンドの同好会とアコースティックサウンドの同好会、2つの音楽サークルがあって、アコースティックの方に入ってました。当時は頑張って弾き語りとかやってね。子どもの頃エレクトーンやピアノを習っていたんですけど、引っ越しがあって辞めちゃって、今はもう全然。あのまま続けておけばよかった。

――歌も習っていたんですか?

エスムラルダ 中学で合唱部に入ってたぐらい。音楽の先生が合唱に熱心で、男子が足りなくて声をかけられたの。親に運動しろって言われて、仕方なく卓球部に入っていたので、兼部で合唱部にも入って。NHKの合唱コンクールにも出てましたね。

 あと、小学校に上がる前だったと思うけど、同じ社宅のよその家に上がって『北の宿から』や『津軽海峡・冬景色』を歌っては褒められて帰る、みたいな迷惑な子どもでした。子どもの頃から好きでしたね、歌うのは。

小学生で感じていた「男の子が好き」というトキメキ

――ご自身が同性愛者だと気づかれたのはいつ頃でしょうか。

エスムラルダ 物心ついたときから男子が気になっていて、小学校3年のとき社宅に引っ越してきた男の子が、すごく好きなタイプの顔立ちで。

 それまでは、好きな子を聞かれると、仲のいい女の子の友だちの名前を挙げていたんだけど、その男の子に出会って「これが恋なんだ」「自分は男の子が好きなんだ」ってハッキリ意識しました。でも一方で、誰に言われたわけでもないのに、「この思いは誰にも知られてはいけない」とも思ってました。

――昭和という時代にはまだ、同性愛者も多く存在する、ということが認識されていなかったですよね。

エスムラルダ 広島に越してからも「好きだな」って男の子はいたけど、もちろん誰にも言わず女子が好きなフリをしていました。中学校、高校もずっとそう。

 子どもの頃から女性的なものも好きでした。例えばアニメだったら、男子が好んでいた『ドカベン』より、断然『アタックNo.1』。野球やサッカーは、観るのもやるのもあまり好きじゃなかったですね。

――昭和の小学生って割と誰もが野球をやるじゃないですか。エスムさんは参加していなかったんですか?

エスムラルダ 一応、イヤイヤ参加してました(笑)。

 中学校に上がってからも、女の子の友だちから雑誌の『花とゆめ』を借りたりしてましたね。『うる星やつら』とか少年誌の漫画も読みつつ、『ガラスの仮面』とか『スケバン刑事』にハマってました。周りの人はたぶん「女の子っぽい男の子」って思っていたんじゃないかな。

――ゲイ文化というのは、いつ頃知ったんですか。

エスムラルダ 大学に入ってから。それまでは、目の前に常に受験勉強があったし、身の回りに男女のカップルもそんなにいなかったんだけど……大学に入るとみんな急に色気付くというか、急にカップルができ始めて。

 それまでは自分の中で「いずれ女子を好きになったりするのかな?」と考えていたんだけど、全然その気配がない。すごく孤独感を覚えて、ようやく自分の中の「男子を好きな気持ち」と向き合うことになったんです。

初めての新宿2丁目は苦い経験

――同性愛者であることを自覚したんですね。

エスムラルダ それが大学1年のとき。当時“新宿2丁目”の存在は橋本治の小説や雑誌の記事で知ってたんだけど、行く勇気がなくて……でも、周りに自分と同じような人がいるとも思えず、人生で一番、悶々とする日々を過ごしていました。

 それで大学2年の初夏、5月の終わりの土曜日に「このままじゃ埒が明かない!」と思って、ついに夜の新宿2丁目に向かったんです。20歳になっていました。

 その日、家の最寄駅から京王線で新宿に向かってると、だんだん行く手に雲が立ちこめてきて、新宿に着いたらもう土砂降りの雷雨。新宿御苑前駅の出口で雨宿りをして、雨が止むのを待ってから2丁目に向かったんです。雨上がりで気温が高くて街中にもやがかかって、幻想的で。

 そんな中、生まれて初めて、たくさんのゲイの人たちが歩いているのを見て、ワクワクしました。でも、どこのお店に入っていいのかわからなかったので様子を見ていたら、あるお店にたくさん若い人が入って行ったので、私も続いて入ってみたんです。

 店の中はMTVが流れてて、おしゃれなゲイの人たちがいっぱい。しばらくぼーっとMTV見てたんだけど「これじゃ何も変わらない!」と思い、1人でいるお兄さんに「今日初めて来たんですけど、話し相手になってもらえますか?」って話しかけたら「いいですよ」って言ってくれて。

 で、しばらく2人で話していたんだけど、そのうち仲間がドヤドヤって入ってきたら、そのお兄さんが「聞いて! この子、今日初めてなんだってェ~」って、急にオネエ言葉になってビックリ! そのうえ、そのグループに自分の豊富な性体験を赤裸々に話す人がいたものだから「こんな汚れた世界には馴染めない!」と大ショックを受けて……結局、終電で帰りながら、また孤独感にさいなまれることになっちゃった。

――初めての新宿2丁目はインパクトが強すぎたんですね。

書籍『ゲイ・リポート』との出会いで動き出した人生

エスムラルダ それから2か月ほど後、書店でたまたま『ゲイ・リポート』って本を見つけたの。「アカー」(旧・動くゲイとレズビアンの会)というグループが出した本で、会員の人のライフヒストリーが載っていたり、「同性愛は決して異常なことではない」ということが書かれていたりする、すごく真面目な本。それを読んで「自分と同じような人がこんなにいるんだ!」って元気付けられた。

 実はその1年前、大学1年のときに、「府中青年の家裁判(※)」がらみで、アカーの人たちが法律の授業のゲストスピーカーで来たことがあったんです。だからアカーというグループには馴染みがありました。もっともそのときは、「自分もゲイです」って言う勇気はなかったけれど。

1990年、アカーが東京都の公共施設「府中青年の家」を合宿で利用した際、同性愛者の団体であることを理由に他の団体から嫌がらせを受けたうえ、施設側から今後の使用を拒まれたため、1991年に東京都を提訴した事件。1994年に1審、1997年に2審でそれぞれアカーが勝訴した。

――社会的に戦っている最中の団体だったんですね。

エスムラルダ アカーでは電話相談もやっていたので、勇気を出して電話をかけ、事務所に行ってみました。そこでようやくゲイの友だちがたくさんできたんです。同じような経験をしてきているので分かり合えることも多かったし、何も隠さず、正直に恋バナができる解放感がありました。今まで、どれほど自分が気持ちをおさえつけていたのかがよくわかったんです。

 それで勢いづいて、身近な人にカミングアウトし始めました。母と、たまたまそれを聞いていた姉。あとは大学の友だちや、予備校時代の仲のよかった友だちにも話しました。

 それから半年くらい後、1993年の春に、ゲイ雑誌の文通欄に同じ大学の子が投稿しているのを見つけました。手紙を送ってみたら、大学内にその人を含め、同世代のゲイの子が4人ほどいるのがわかって。みんなブルボンヌさん(ドラァグクイーン、エッセイスト)がやっていたパソコン通信に参加していたので、その縁で私もブルボンヌさんと知り合い、仲良くなりました。

ドラァグデビューは大学時代、そして独自路線のクイーンへ

――大学2年の夏まで異性愛者の仮面をかぶっていたエスムさんが、パソコン通信を通じてブルボンヌさんと出会ったことで、ドラァグクイーンデビューに繋がっていくんですね。

エスムラルダ それまでも芝浦の「GOLD」とか西麻布の「YELLOW」とかのクラブで定期的にゲイナイトが行われていて、よく遊びに行っていたんだけど、1994年に、新宿2丁目に「Bar Delight」っていうクラブができたの。

 一方で、今も第一線で活躍しているル・ポールというアメリカのドラァグクイーンが出した『スーパーモデル(ユー・ベター・ワーク)』という曲が世界中のクラブシーンで流行してた。そこでブルボンヌさんに「パソコン通信の4周年イベントをDelightでやろう」「私たちもドラァグクイーンをやってみよう!」って言われて、1994年の9月に初めてショーをやりました。

――それがエスムさんのドラァグクイーン活動のスタートに。

エスムラルダ その頃、映画『プリシラ』(1995年日本公開、ドラァグクイーンたちのロードムービー)とかの影響もあって、ドラァグクイーンという存在が徐々に知られるようになっていって。当初は半年に1回くらいのペースだったけど、96~97年くらいからドラァグクイーンがショーをやるイベントが増えていき、私たちにも「お笑い系のクイーン」として、お呼びがかかるようになっていったの。

写真=鈴木七絵/文藝春秋

〈 一橋大学→脱サラし“女装”の道へ…高学歴ドラァグクイーン(52)が語る、会社員からフリーへの転身と父へのカミングアウト 〉へ続く

(市川 はるひ)

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