一橋大学→脱サラし“女装”の道へ…高学歴ドラァグクイーン(52)が語る、会社員からフリーへの転身と父へのカミングアウト
文春オンライン / 2024年12月21日 11時10分
エスムラルダさん
〈 一橋卒の高学歴ドラァグクイーン・エスムラルダ(52)が明かす、同性愛者を自覚し悩んだ時代「豊富な性体験を赤裸々に話す人がいて…」 〉から続く
独自の路線で注目を集め、活動30年を超えたドラァグクイーンのエスムラルダさん(52)。一橋大学出身と高学歴で、多ジャンルにわたるライターという顔をもち、商業ミュージカルも手掛ける脚本家でもある。さらに2018年にはドラァグクイーン・ディーヴァ・ユニット「八方不美人」のメンバーとして歌手デビューを飾り、現在も華麗な活躍が続いている。
そんな多才なエスムラルダさんに3回にわたってお話をうかがった。第2回は、驚きのカミングアウトエピソード、そしてドラァグクイーンとして活動しながら、会社員からフリーライターに転身し、さらにミュージカル界と密接に繋がって「八方不美人」結成へと展開したお話。(全3回の2回目/ 続きを読む )
平日は会社員として働きながら“週末ドラァグクイーン”
――大学は何学部でしたか。
エスムラルダ 社会学部です。最初は「学歴社会」をテーマに研究していたんだけど乗り切れなくて。当時、自分にとってやっぱり一番熱いテーマだったのがセクシャリティだったので、3年の終わりに先生に「実は自分もゲイで……」と話して、テーマを「『同性愛者』と社会」に変えました。
――大学を卒業後、就職はスムーズだったのでしょうか?
エスムラルダ 就職氷河期の第一期だったので、大変でした。いい機会だからいろんな業種を見ておこうとも思ったこともあって、OB訪問は50社くらいしたかな。マスコミ関係も受けたんだけど狭き門で。ちょうどその頃、ゲイのカラオケパーティーでたまたま印刷会社の人と知り合い、仕事の話を聞いたら、面白そうだった。そこで試験を受けてみたら順調に進んだので「これはご縁があるんだな」と、入社を決めました。
――ドラァグクイーンとして活躍し始めた頃、社会人に?
エスムラルダ 95年に入社して、会社員をやりながら、時々イベントでドラァグクイーンとしてショーをやってました。子どもの頃から、本を読んだりドラマを見たりするのも好きだったから「物を書く仕事がしたい」「物語を作りたい」という思いがあったんだけど、どう動けばいいのかわからなかったので、周りと同じように就職活動をし、印刷会社に入って、いろんな会社の社史を作る仕事をしていました。
――会社の同僚の方には、ゲイであることを伝えたのでしょうか?
エスムラルダ 配属されたのがたまたま、カラオケパーティーで知り合った人と同じ部署だったんです。その人が割とオープンにしてるタイプだったので、同僚のみなさんは、私がゲイであることも当たり前に受け入れてくれて、その点はノーストレスでした。
なかなか伝わらなかった、父へのカミングアウト
――家族ではお父様にだけ遅れてカミングアウトしたんですよね。
エスムラルダ 今から2年半前くらいかな。私が本名で書いた本を、父がたまたまネットで見つけたから、買って読んだと聞かされて。一応ビジネス書なんですけど、そこにゲイであることも、ドラァグクイーンであることも赤裸々に書いたので「あ、これでもうゲイだって知られちゃった」と思いました。少し焦ったけど「これで面と向かって言わずにすんだ」とホッとする気持ちもありました。
――2020年出版の著書『ロジカルメモ』ですか? お父様はそんなにも長い間知らずに……家族からも伝わらず?
エスムラルダ 母にカミングアウトしたとき、父は単身赴任で大阪にいたし、責任も重い立場だったので「仕事も大変そうだし、父には黙っておこう」みたいな感じになっていました。
――お父様はすぐに理解してくれましたか?
エスムラルダ その段階では理解されていませんでした。その後、お正月に実家に帰ったときも「結婚はしないのか?」とか言われたので「あれあれ?」と。ドラァグクイーンはあくまでも趣味的なものと思っていたのかもしれません。
それをファーストインパクトとすれば、セカンドインパクトが今から1年半前。父が、やはりネット検索でウィキペディアの「エスムラルダ」の項目にたどり着き、ようやく「自分の子どもがゲイだ」ってことがわかったらしくて。
――お父様は徐々に理解されたんですね。
エスムラルダ 最初のうちはショックだったと思うのですが、1年前の八方不美人のライブには母、姉と3人で来てくれたし、この間、家族で墓じまいもしてきました。親戚の方々まで「エスムラルダ」のことを知っていてびっくりしたけど「これで本当に誰にも隠す必要がなくなったんだな」とも思いました。
クルッと迎えた転換期 会社員からフリーランスへ
――ライターとしての活動はいつ頃から始められたのでしょうか。
エスムラルダ 1996年頃から、ゲイの間で個人のホームページっていうのが流行り出したんです。最初は友だちのページに寄稿してたんだけど、そのうち私も自分でサイトを開設して、オネエ言葉でエッセイを書くようになりました。
そうしたら、ゲイのライターで小説家の伏見憲明さんから「今度、『クィア・ジャパン』という雑誌を出すから、文章を書かない?」とお声がかかったり、『週刊女性』の編集者の方から「週刊女装ってコーナーでコラムを書きません?」って話がきたりするようになって。
それから『Badi(バディ)』っていうゲイ雑誌に人生相談のコラムを連載したのをきっかけに、全国のゲイの読者に名前を知られるようになりました。いまだに地方のイベントに行くと、お客さんに「読んでました」って声をかけられたりします。
――2002年にはヘブンアーティスト(東京都が実施する審査会に合格した大道芸人)のライセンスも取得されてますね。
エスムラルダ 古新聞を整理していて、たまたま「東京都が大道芸人を募集」っていう記事を見つけたの。そこで応募してみたところ、審査に受かり、2002年の10月に第1期生ヘブンアーティストに認定されて。
実は以前、ブルボンヌさんたちと『アタック・ナンバーハーフ』(ニューハーフのバレーボール選手たちが国体を目指す、実話を基にしたタイのコメディ映画)のプロモーションイベントで、渋谷のパルコ前に特設ステージを組んでショーをやったことがあるんだけど、それがすごく楽しくて「もう一度野外でショーをやりたい」ってずっと思ってたのね。
――当時の都知事は石原慎太郎氏。披露したのはどんなパフォーマンスだったんですか?
エスムラルダ 『天城越え』でホラーっぽいショーをしたり、ホイットニー・ヒューストンの曲でいい加減な手品を交えたショーをしたり、坂本冬美さんの曲でダンサーの子たちと踊ったり。
――ドラァグクイーンショーの定番、リップシンク(口パク)をひねった感じですね。それも会社員を続けながら?
エスムラルダ 会社は、ヘブンアーティストになって約1年後に辞めました。会社の仕事と、ライターの仕事と、週末のイベントの仕事、3つの仕事を並行するのがしんどくなって。ゲイ関係のイベントが地方でも活発になり始めたので、週末の遠出も多かったし。
――会社員からフリーランスに、スムーズに生活が切り替わったんですね。
エスムラルダ 辞めるまでは結構悩んだけどね。13人の占い師にみてもらったりして。退職後はフリーのライターとドラァグクイーンの二足のわらじになりました。
初めて書いた青春コメディがテレビ局のコンクールで受賞
――ライター業もすぐに食べていけるくらい仕事量があったんですか?
エスムラルダ そこは結構順調でした。退職した会社から外部スタッフとして手伝ってほしいと頼まれたり、会社で知り合ったデザイン事務所から出版社を紹介してもらったり、いろんなご縁がつながって。
2003年からは、以前から書きたかったシナリオのためのスクールにも通い始めました。でも、友だちから依頼された漫画原作の仕事も始めて、忙しくてなかなか映像作品を書くことに集中できなくて。10年近くたったとき、「さすがに1本くらい書かなくちゃ」と一念発起し、60分の作品をエイヤ! と仕上げて、テレビ局のシナリオコンクールに送ったの。そうしたらどんどん審査を通過して、賞を取ってしまって! 狐につままれたような気分で「え? 本当にいいの?」とかえって焦りました。
――どんなストーリーのシナリオだったんですか?
エスムラルダ 高校野球の“応援をしたくない”ブラスバンド部の話です。
――青春コメディ! 面白そうです。
エスムラルダ それとは別に、大学時代の友だちから「賞を取ったんだったら、脚本書いてみる?」って、ドラマのお仕事をいただきました。それが初めての脚本仕事。手探り状態でしたね。
ミュージカルとの不思議な縁が始まる…ディーヴァへの道のり
――現在では、脚本家としてかなり実績を重ねられてますよね。一方で、お芝居に出演もされています。
エスムラルダ 子どもの頃からミュージカルが好きだったので、いつかミュージカルの脚本を書いてみたいとずっと思っていたんです。そうしたら2016年の夏に「一人芝居ミュージカル短編集」という企画を立ち上げた伊藤靖浩さんという方が、SNSで脚本家を募集したの。そのときは脚本だけ担当したんだけど、半年後に第2弾が行われることになったら、伊藤さんから「エスムさんも出演しませんか?」って言っていただいて。
――それで往年の大女優マレーネ・ディートリッヒの話を書いて演じられた。
エスムラルダ ただ、それまではリップシンクのショーばかりで、人前で歌ったりお芝居をしたりするのは年に一度の年末イベントだけ。だけど、その一人芝居ミュージカル、ほかの出演者は劇団四季や宝塚のスターとか、そうそうたる顔ぶれだったの! 1人だけあまりにレベルが低かったら申し訳ないと、40代半ばで初めて歌を習い始めました。
――帝国劇場で歌われたこともあるそうですが、それはどんないきさつで?
エスムラルダ 2014年の暮れに、東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』のサイトで「レ・ミゼラブル のどじまん・思い出じまん大会」っていうイベントの開催を知ったんです。「ファイナリストは帝劇で歌える」って書いてあったので、これは応募するしかない、絶対にイロモノ枠があるはずだ、と思って応募したら、まんまとファイナリストに残って。大ホールで、大人数の前で歌うのは初めてだったんだけど、すごくいい経験でした。
――東宝ミュージカルといえば『プリシラ』の翻訳台本も手掛けられて。
エスムラルダ 2016年の夏、一人芝居ミュージカルに参加する直前に、東宝の方から「ドラァグクイーンで、脚本の仕事もしてるから」ということで、『プリシラ』の翻訳台本のお話をいただきました。その顔合わせで、日本語詞を担当された作詞家の及川眠子さんと知り合ったんです。
――「八方不美人(※)」のプロデューサーの及川眠子さんですね。どんどんご縁がつながっていくんですね。
※2018年12月、作詞家・及川眠子、作曲家・中崎英也のプロデュースにより、エスムラルダ、ドリアン・ロロブリジーダ、ちあきホイみで結成した、ドラァグクイーン・ディーヴァ・ユニット。
エスムラルダ そうなの。2015年から、歌やお芝居の方へと自然に流れて行った感じ。そうやって舞台関係の知り合いが増えて、お芝居への出演や脚本執筆を依頼されるようになっていったんです。
写真=鈴木七絵/文藝春秋
〈 一橋卒→“ドラァグクイーン界の仏”に…52歳になったエスムラルダが語る、嫉妬しなくなった理由「若い頃は、コンプレックスの塊だった」 〉へ続く
(市川 はるひ)
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