「自分のオシッコの臭いを嗅いで驚いて…」スタッフもみんなメロメロになった“かわいすぎる競走馬”の驚きのエピソード
文春オンライン / 2024年12月23日 6時10分
写真はイメージ ©AFLO
競馬業界では毎年約7千頭のサラブレッドが生産され、一方で約6千頭が引退するが、その多くは行方不明になっているという。
犬や猫の殺処分問題などについて執筆を続けてきたノンフィクション作家の片野ゆかさんは、引退競走馬のそんな実情を知って大きなショックを受け、引退競走馬支援についての取材を始めた。その内容をまとめたのが、2023年12月に上梓された『 セカンドキャリア 引退競走馬をめぐる旅 』(集英社)である。ここでは同書より一部を抜粋して紹介する。
取材を続ける中で片野さんは1頭の「めっちゃかわいい」引退競走馬と出会う。それが、ハンディキャップのある子どもたちの支援プログラムで活躍するセラピーホースとしてセカンドキャリアを歩んでいる「ラッキーハンター」だった。
「ラッキーハンター」の共同馬主になり、そのことをSNSで公表した片野さんのもとに、滋賀県の栗東トレーニングセンターに勤務する林達郎さんから1通のメッセージが届く。林さんは競走馬時代のラッキーハンターを調教した人物で、どうやらラッキーハンターのことを深く愛しているようだ。
片野さんは栗東へ足を運び、林さんに話を聞いたーー。(全3回の1回目/ 続きを読む )
◆◆◆
林さんとの待ち合わせ
栗東を訪れたのはコロナ禍がはじまって以降、数か月ぶりだった。林さんとの待ち合わせ場所は、もちろんラッキーハンターが暮らすTCCセラピーパークだ。
軽快な歩調でロビーにあらわれたのは、大柄ではないけれど背筋のスッキリした印象の男性だった。肩書きは、音無秀孝調教師の厩舎所属の調教助手。主な仕事は、調教師の指示のもとで、競走馬の日々のトレーニングからアフターケア、心身の健康管理までトータルでおこなうことだという。
林さんをはじめトレセンで働く人々の多くはJRA所属だが、採用は調教師が運営する厩舎単位におこなわれている。各厩舎は完全独立採算制で、どうやら競馬業界というのは、トレセンという国のなかで複数のライバル企業が切磋琢磨しているようなものらしい。日々の勤務時間について訊くと、担当馬がレースに出ない日は午前2時から9時過ぎまで、午後は3時前から夕方までだという。馬の朝は早いと聞くが、この世界の1日は、ほぼ日付変更とともに始まっているのだ。この日、林さんは午前中の仕事を終えたところだった。
一番人気のおやつ
「ラッキーに会うのは久しぶりなので、楽しみにしていました」
林さんは、見るからに新鮮そうな袋入りのニンジンを手にしていた。鼻先にぶら下げるという表現など、馬とニンジンの組み合わせはステレオタイプなものだと思っていたが、あながちそうでもないらしい。
「馬って、本当にニンジンが好きなんですね」
「ニンジンが嫌いな子はいません」
林さんは、一番人気のおやつだという。早速、ラッキーハンターに食べさせてあげたいところだけれど、午前中はハンディキャップのある子どもたちのための支援プログラムで、セラピーホースとして働いている。セカンドキャリアでも大活躍しているのだ。競走馬とセラピーホース、ふたつの時代を知る林さんの目に、ラッキーハンターはどのように映っていたのだろう。ニンジンタイムは後のお楽しみにとっておいて、ファーストキャリアについて訊いてみることにした。
めっちゃ可愛い新馬
林さんがラッキーハンターと出会ったのは2013年の夏、就職して3年目のことだ。函館競馬場で開催されるレースに備えて、前乗りして出走馬を調教する役目を初めて任された。
「担当する馬は通常2頭ですが、1頭を栗東から連れて行き、もう1頭が新馬として入厩したばかりのラッキーハンターでした。最初からノホホンとしていて、ちょっと有り得ないくらい大らかで、とにかくかわいい馬でした」
現在とほぼ変わらない印象だが、ラッキーハンターは競走馬としてかなり珍しいタイプだったようだ。なぜなら競馬界で、新馬はもっとも危険な存在だからだ。生産牧場で生まれたサラブレッドの子馬が、競走馬への道を歩むために母親から引き離されるのは生後半年くらいだという。同じくらいの月齢の子馬が集まる育成牧場は、競走馬候補たちの英才教育学校のようなもので、そこで体力をつけながら基礎トレーニングを重ね、2歳になる頃にデビュー目指してトレセンの厩舎に入る――というのが競走馬たちの歩む基本的なルートだ。
林さんによると、それまで育成牧場で暮らしていた新馬にとって、トレセンはとても怖いところだ。
「勝負の世界に直結しているし、きついトレーニングを重ねるため人も馬もピリピリしています。新馬にとっては、ただでさえ初めての場所なので不安感も恐怖心も大きくなっているはずです」
馬は、怖ければ暴れる。そして新馬は、たいてい大暴れする。体重400キロを超えている大動物が相手なので、少しでも対応を間違えたら大怪我は免れない。また馬たちはまぎれもなくオーナーからの預かりもので、生命と財産の両方を守るためにも、厩舎の仕事は細心の注意が必要なのだ。
馬たちにとって最初の難関は、鞍を付けて人を乗せることだ。
我々が目にする馬というのは当然のように鞍を付けて走っているので、つい「馬とはそういうもの」と考えてしまいそうになるが、そもそも動物にとって背中に何かを付けたり、まして人を乗せるなど恐怖でしかない。それでも最終的には受け入れてくれるのだから、馬というのはなんと稀有な動物なのだろう。鞍を付けたり、人が乗るトレーニングは、育成牧場時代からやってはいる。だが仲間と離れて新しい環境に来たばかりの馬は、緊張感や警戒心が頂点に達しているといっても大袈裟ではない。
厩舎のスタッフもメロメロに
「通常は、ひとりで新馬をトレーニングするのは難しいといわれています。就職してまだ3年目で、単独で函館に来ていたのでまわりに頼る人もいませんでした」
さて、どうしたものか。林さんはやや戸惑ったが、それでもラッキーハンターにはどこか安心感を抱かせるものがあった。初めてのトレーニングで馬房から出すときは念の為、隣の厩舎のスタッフに声をかけた。
「この馬はじめてなので、少しだけ前を歩いてもらってもいいですか」
「ひとりでやるの、大丈夫?」
心配されたが、手綱を手に並んで歩きはじめたら、みるみる不安は薄れていった。
「大人しいので、たぶん大丈夫です」
それは思い違いではなかった。ラッキーハンターは、馬場に出しても終始穏やかだった。鞍に慣らすために、ポンと勢いをつけて腹這いで背中に乗っても平然としていた。なんてかわいいのだろう……! 出会って早々、林さんはすっかり心奪われてしまった。ラッキーハンターは、とにかく“いつも楽しげな馬”だった。馬房の前を通るたびに、嬉しそうに通路に顔を出しながら「僕ここにいるよ」「遊ぼうよ」「その人は誰~?」「ねえ、ねえ、何してるの?」といった言葉が聞こえてきそうだった。
社交的や人懐っこいという言葉だけでは表現しきれない愛嬌があり、そう感じたのは林さんだけではなかった。函館競馬場では、レースの日程に合わせて全国から集まった厩舎スタッフと馬が同じ施設を使用して、調整やトレーニングをおこなっている。通路を行き来する他の厩舎スタッフにも頻繁にアピールするラッキーハンターに、注目が集まるまで時間はかからなかった。
「おまえのとこの新馬、めっちゃ可愛いな!」
馬を見慣れた競馬関係者でさえ驚くほどの、愛されオーラだった。特に並びの馬房を使用するほかの厩舎のスタッフは「かわいい」「癒される」とメロメロになった。
競走馬デビューを目指すためのトレーニングは、牧場時代にくらべると格段に厳しい。まだ体力がなかったラッキーハンターは、一日が終わるとクタクタで、馬房に戻ると完全に横倒しになって熟睡していたという。新馬は緊張のあまり、疲れていても休息や睡眠がしっかり取れないことがある。しかしラッキーハンターは最初からオン・オフの切り替えがしっかりしていて、担当としても安心できた。たいていの馬は、人の気配があれば気づいてすぐに身を起こす。だが清潔な敷き藁をたっぷりと敷き詰めたフカフカのベッドで、寝息を立てるラッキーハンターからは、完全にリラックスした空気しか感じられなかった。
その様子を見て、林さんはある挑戦を思いついた。
「僕、ラッキーの隣で寝られるような気がするんです」
「そんなことして、大丈夫か?」
親しくなった先輩は心配したが、ゆっくりと馬房に入るとラッキーハンターは少し頭を上げただけだった。投げ出された四肢に力が入る気配はなく、どこを撫でてもされるがままだ。林さんがその横に静かに腰をおろして少しずつ馬体に体重を預けてみると、ラッキーハンターもそれを自然に受け入れた。
「すげーな!」
先輩は写真を撮りながら心底驚いていたが、それは林さんにとっても初めてのことだった。
ラッキーハンターは“犬っぽい馬”
私は、なぜラッキーハンターに惹きつけられたのか。林さんから現役時代のエピソードを聞きながら、ひとつの疑問がスルスルと解けていくのを感じていた。ラッキーハンターの行動や人に対する反応は、はっきりいってかなり犬っぽいのだ。
あらゆる動物のなかで、犬ほど積極的に人間とコミュニケーションを取ろうとする生き物はおそらくいないだろう。生まれながらにして、人が指さすものに注目する能力を持つのは、人間と犬だけといわれている。また最近の研究結果では、信頼関係が築けている人と犬は、見つめあうだけで脳内でオキシトシンというホルモンが分泌され、お互いの絆が深まることもわかっている。
人間への好奇心が旺盛で「遊ぼうよ」「それ、なーに?」と常に楽しそうにアピールし続けることは、もっとも犬らしい犬の基本行動だが、これは新馬時代のラッキーハンターのエピソードとピッタリ重なっている。犬っぽい猫や、猫っぽい犬がいるように、おそらくラッキーハンターは犬っぽい気質が強い馬で、そんなところが馬の知識ゼロの私にも親しみやすかったのかもしれない。林さんによるラッキーハンターの逸話は、聞けば聞くほど犬を連想させるものだった。しかも並の犬ではなく、突出して大らかなタイプだ。
ラッキーハンターの“人を笑わせる”意外な才能
初めて見るものに動じないラッキーハンターは、ゲート試験もスムーズに合格した。これは競走馬デビューのためには必須の試験だが、警戒心が強すぎるなどの理由で何度トライしてもゲートインできない馬もいるというから、担当者の喜びと安堵感はひときわ大きい。肝が据わっているというか、何やら大物感さえ漂っているような気がするが、「どちらかというと、天然のマイペースタイプです」と分析する林さんは、ラッキーハンターは人を笑わせる才能にも長けていると言う。
レースの出場が決まった競走馬は、前の週から“追い切り”と呼ばれる本番さながらのタイムを目指したトレーニングをする。普段よりも格段にハードな調教なので、汗や土をきれいに洗い流してあげた後は、特に負担がかかる膝から蹄の上にかけてアイシング用の白い粘土を塗る。これは筋肉の疲労回復に効果があるもので、競馬界では定番のアフターケアだ。
林さんがラッキーハンターの異変に気づいたのは、ほかの用事をすませて再び様子を見に行ったときだった。厩舎の通路の先に、馬房から顔を半分覗かせてこちらに視線を送ってくる栗毛の若馬が見えた。しかし、その姿はいつもとまったく違っていた。
ラッキーの馬房に、ピエロがいる……!
粘土を塗った前肢で顔を搔いたのだろうか、まるでピエロのメイクを施したように、ラッキーハンターの左目のまわりが白くペイントされていた。笑いを堪えきれないまま林さんがスマートフォンを構えると、ラッキーハンターは嬉しそうにカメラ目線になったそうだ。
「偶然とは思えないキレイな仕上がりで、大笑いしました。ラッキーには生まれながらにして、人を笑わせる才能があるんです」
ラッキーがなぜか驚いて飛び上がってしまった
人間の世界には、意図せず面白いことができる人がいるが、どうやらそれは馬の世界にもあり得ることらしい。さらに林さんが教えてくれたのは、砂浴びタイムのエピソードだった。
「ラッキーは砂のうえでゴロゴロするのが大好きで、馬にとってはストレス発散効果があります。トレーニングを頑張っていたので、少しでも気分転換ができればと砂場に連れていってあげたら、そこで驚いて飛び上がってしまったことがあるんです」
「いつも大らかで何にも動じないラッキーがそこまで驚くなんて、何があったんですか?」
私が信じられない思いで訊くと、答えは予想もしないものだった。
「自分のオシッコを嗅いだんです」
「自分のオシッコの臭いに驚くって、どういうことですか?」
「馬はフレーメンといって、尿の臭いを確認して歯を剝くような表情を見せることがありますが……ラッキーのあれはおそらく違うと思います。動画があります」
林さんのスマートフォンに、砂場で仰向けになって四肢を振り回すようにして砂浴びを楽しむラッキーハンターの姿が映し出された。
砂浴び最高~♪ 最高だ~♪ 今日も一日頑張った~♪
ラッキーハンターの様子から、即興の鼻歌が聞こえてきそうだった。馬は骨格上、自分の体の多くの部分を自分で触ることができない。特に背中や腰は、虫に刺されたり汗をかいたりしても気軽に搔くことができない。馬にとってのゴロンゴロンは、おそらく犬や猫よりも遥かに至福のときなのだろう。
動画のラッキーハンターは、やがてスックと立ち上がると放尿をはじめた。体重400キロ以上の大動物の尿はまるで滝のような迫力だが、足元のサラサラの砂がすみやかに吸収していった。
事が終了するとラッキーハンターは、確認するように濡れた砂に静かに鼻を近づけた。その瞬間、馬体が弾かれたように上下した。パニックでも起こしたのかと思ったが、2、3回ジャンプして走りまわると冷静になった。そして自分の尿を大量に吸い込んだポイントに戻り、先程と同じように鼻先をピタリと砂につけると、再びロデオのようにさらに激しくジャンプした。すぐに冷静になったので事故の心配はなかったものの、林さんが「一瞬、焦りました」と言うのも無理はない。
「ラッキーは、どうしちゃったんですか!?」
私が訊くと、林さんは「あくまで推測ですが」と前置きしたうえで、ラッキーハンターの気持ちを代弁してくれた。それによるとシーン1は「くっさー!」で、シーン2は「やっぱり、くっさー!」だ。セリフを当てて再度動画を見たら、笑いが止まらなくなった。自分のオシッコにそこまで驚くなんて、ラッキーハンターの嗅覚はいったいどうなっているのか。だって、すごーく臭かったんだもん! そんなセリフが聞こえてきそうな気がした。
新馬時代のエピソードを知ることで、私はラッキーハンターの魅力に益々惹きつけられた。人間が大好きで穏やかな性格で、かといって優等生的というわけではなく、むしろ人に笑いを届ける才能をたっぷりと兼ね備えている。ラッキーハンターは、人間社会に幸せをもたらしてくれる存在だと思った。
目の輝きがみるみる増し…
ラッキーハンターが午前中のホースセラピーの仕事を終えたと聞いて、私と林さんは厩舎へ移動することにした。通路を進んでいくと、はるか前方で栗毛の馬が「あ!」という感じでこちらに注目した。「あの人は、もしかして、もしかするとぉ……」と、目の輝きがみるみる増しているのが遠目にもわかった。
「ラッキー、元気そうだな!」
林さんが呼びかけると、ラッキーハンターは「やっぱり、そうだー!」と言わんばかりに馬房からグイと顔を突き出し、さらに確認するように林さんの手や体に柔らかな鼻先をピタピタとくっつけた。元競走馬は、現役時代の調教担当者との久しぶりの再会をあきらかに喜んでいた。
「ラッキー、嬉しそう。林さんが本当に好きなんですね」
「そうだったらいいですけど、目当てはコレじゃないかな」
林さんが笑いながらお土産のニンジンを取り出すと、ラッキーハンターは前肢で地面をカシカシと搔く仕草をした。これは“前搔き”といって、要求をあらわすボディランゲージのひとつだ。さすが人気ナンバーワンのおやつだけのことはある。口にするときは3分の1くらいずつ、パリポリと丹念に嚙み砕いていて、大好物の味を丁寧に楽しんでいた。
おやつタイムが終わると、林さんは馬房ギリギリに背を向けて立ち、ラッキーハンターの頭部を自分の右肩に乗せるようにして両腕で優しく抱きしめた。おそらくこの体勢は馬にとって“抱っこ”のようなものなのだろう、ラッキーハンターも至福のときを味わうように静かに力を抜いている。競馬業界では人馬一体という言葉がよく使われるが、それは騎手と競走馬に限定したものではないのかもしれない――美しい光景に、私は静かな感動を覚えた。
〈 レース中に突如ガックリと失速して足がぶらぶらに…「安楽死だけは絶対に避けたい」負傷した愛馬のために馬主がとった“必死の行動” 〉へ続く
(片野 ゆか/Webオリジナル(外部転載))
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