レース中に突如ガックリと失速して足がぶらぶらに…「安楽死だけは絶対に避けたい」負傷した愛馬のために馬主がとった“必死の行動”
文春オンライン / 2024年12月23日 6時10分
写真はイメージ ©Paylessimagesイメージマート
〈 「自分のオシッコの臭いを嗅いで驚いて…」スタッフもみんなメロメロになった“かわいすぎる競走馬”の驚きのエピソード 〉から続く
競馬業界では毎年約7千頭のサラブレッドが生産され、一方で約6千頭が引退するが、その多くは行方不明になっている。
犬や猫の殺処分問題などについて執筆を続けてきたノンフィクション作家の片野ゆかさんは、引退競走馬のそんな実情を知って大きなショックを受け、引退競走馬支援についての取材を始めた。その内容をまとめたのが、2023年12月に上梓された『 セカンドキャリア 引退競走馬をめぐる旅 』(集英社)である。ここでは同書より一部を抜粋して紹介する。
レースの最中に負傷してしまい、安楽死は避けられないと判断されてしまった競走馬・フロリダパンサー。どうしても諦められない馬主の林由真さんが必死にとった行動とその結果とは——。(全3回の2回目/ 続きを読む )
◆◆◆
競走馬としてのキャリアが閉ざされた瞬間
2019年2月7日15時50分、岐阜県・笠松競馬場。かつてオグリキャップなど数々の名馬を輩出したことで知られる地方競馬場では、ダート1800メートル・第9レースのゲートインが完了したところだった。
少しばらついた飛び出しのスタートから、馬番二番のサムライドライブに並ぶように、3番ヴェリテ、5番メモリージルバ、8番ハタノリヴィールの4頭が広がって先行した。その直後、内側から接近したのは、一番人気の9番フロリダパンサーだ。笠松競馬場のコースは、一周が1100メートル。サムライドライブが一馬身リードを取った中盤で、全体のペースは一瞬落ち着いたが、2周目に入るとメモリージルバが追い上げ、先頭争いは激しさを増していった。最終コーナーから、残るは直線のみ。そのとき、トップ集団にくらいつき続けていたフロリダパンサーが、突如ガックリと失速して後方へ消えていった。
大変なことになった! 馬主の林由真さんは、コース上で肢がぶらぶらになった愛馬の姿を見て血の気が引いた。なにをどうしたらいいかもわからないまま、とにかく馬運車に積み込まれるフロリダパンサーを必死に追いかけた。
獣医師の診察の結果は、右前肢の繫靭帯の断裂による予後不良――これは競馬業界で安楽死を意味する。調教師からそう告げられ、さらに獣医師から詳しい説明が続いたが、突然のことに林さんはとても受け止められなかった。しかし、調教師や獣医師、競馬場関係者などその場に集まる10名程のあいだには、「仕方がない」「そういうもの」というムードが色濃く漂っていた。
馬運車のなかでフロリダパンサーは、痛みに耐えながら三本肢で必死に立ち、瞳からは生命を諦めない凄まじいエネルギーを発していた。林さんはそれを見た瞬間、馬主として諦めることはできないと思った。だが目の前では、競走馬としてのキャリアが閉ざされた馬を送り出す作業が、今まさにはじまろうとしていた。
安楽死だけは絶対に避けたい…必死でとった行動は
「待ってください! 治療できるところを探すので、もう少しだけ待ってください」
林さんは、知りうる限りの競馬関係者に電話をかけはじめた。しかし、複数の知り合いに怪我の状態を伝えるほどに、自分がやろうとしていることがいかに難しいかがわかってきた。時間は10分、20分と刻々と過ぎていき、待たされたままの関係者の苛立ちは頂点に達しようとしていた。
あの人なら、相談できるかもしれない――。ある競馬関係者を介して、馬事学院の野口さんの情報にたどりついたのは30分後のことだった。
レース中に靭帯を断裂して安楽死させられそうな馬がいて、その馬主が治療できる場所を探している。連絡を受けた野口さんが真っ先に思い浮かべたのは、かつて同様の状態の馬を治療したときのことだった。どれだけ手を尽くしても、靭帯断裂という重傷を負った競走馬が完全に復活することは難しい。オーナーが何をどこまで望んでいるのか、まずはそれを確認する必要があった。
「もう人を乗せられなくてもいいんです。せめて自分の意思で歩けるようにしてあげたい。もう時間がないんです。なんとかご協力いただけないでしょうか」
電話口の林さんの悲痛な声を聞けば、決断のときがすぐそこに迫っていることが伝わってきた。馬の状況を確認すると、痛みに耐えながらも3本の肢で立っているという。これなら救えるかもしれない! そう感じた野口さんは、学院から馬運車を出す決断をした。
とはいえ懸念は尽きなかった。笠松競馬場から馬事学院がある千葉の八街市まで、約450キロもの距離がある。ノンストップでも6時間近くもかかる馬運車での移動は、健康な馬でさえかなりの体力を消耗する。激痛を抱えて3本の肢で立つフロリダパンサーが、果たしてそれだけの長距離移動に耐えられるのか。馬のためを考えると、散々苦しい思いをさせたあげく安楽死になることだけは絶対に避けたい。
それでも応急処置でギプスと包帯で肢を固定されたフロリダパンサーは、辛い移動を耐えぬき、馬事学院に到着することができた。馬運車から降ろされたとき、その目からはハラハラと涙が流れていた。痛みによるものなのか、生命の危機を感じた不安や強いストレスによるものなのか、涙の理由はフロリダパンサーにしかわからないが、野口さんは「ここまで無事に連れてくることができて、本当によかった」と少しだけ胸を撫で下ろした。
予後不良からの生還
だが状況は、依然として厳しかった。駆けつけた林さんに、診察した獣医師がまず伝えたのは「治る可能性は低いので、覚悟だけはしておいてください」だった。そもそも安楽死が選択されるほどの大怪我なのだから、その苦しみは尋常ではない。痛みに耐えきれず暴れたり、身体を横たえたまま起き上がれなくなったりする馬はめずらしくない。
しかし、フロリダパンサーは治療を受け入れ、まるで苦痛を乗り越えた先にまた元気に歩ける日がくると理解しているかのように、黙々と自身の身体と向き合う日々を送った。最初の数日は、3本の肢で立ったり座ったりを繰り返していた。しばらくすると時おり、負傷した肢を地面につけるようになり、やがて4本の肢で立っていられる時間が少しずつ増えていった。そこから右前肢を庇うようにしながら、一歩、また一歩と歩くようになり、ゆっくりとだが確実に回復への階段を上っていったのだ。
1年を経て歩くことはできるようになったものの、四肢のバランスはまだ完全ではなく、寒さが厳しい日は明らかに辛そうにしていることもあった。しかし、若くて小柄な牝馬が近くにいると興奮するなど生命力は旺盛で、林さんや野口さん、毎日のケアにあたっている馬事学院のスタッフや学院生たちのあいだで「これだけ元気なら、もう大丈夫だね」と笑い合えるまでになった。現在のフロリダパンサーは、痛みからすっかり解放されて、飛び跳ねて走りまわれるほど目覚ましい回復を遂げている。
〈 「引退した競走馬の多くは行方不明になっている」問題を知った『ウマ娘』ファンにより“一匹の高齢馬”に集まった大きな支援「ゲームが社会を変えた」 〉へ続く
(片野 ゆか/Webオリジナル(外部転載))
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