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「この声でやらせろ」小倉智昭が亡くなる直前に明かした「HOWマッチ」ナレーション誕生秘話

文春オンライン / 2024年12月12日 6時0分

「この声でやらせろ」小倉智昭が亡くなる直前に明かした「HOWマッチ」ナレーション誕生秘話

文藝春秋の談話室で行われた小倉智昭氏のインタビュー(2024年10月24日) Ⓒ文藝春秋

アナウンサーの小倉智昭さんが12月9日、膀胱がんのため亡くなった。77歳だった。小倉さんは、亡くなる1カ月半前の10月24日、文藝春秋のインタビューに応じ、師と仰ぐ大橋巨泉さん(1934〜2016)について語っていた。

◆◆◆

「小倉君が食べてるその弁当、何?」

 僕が巨泉さんと知り合ったのは、20代の頃。当時僕は東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のアナウンサーで、競馬中継を担当していました。巨泉さんはニッポン放送で競馬の番組を持っていたので中継室で見かけていましたが、オーラを放っていて、声をかけられる雰囲気ではなかった。ある時、巨泉さんのほうから「小倉君が食べてるその弁当、何?」と話しかけられ、一介のアナウンサーにすぎなかった僕を知っていたことに驚いたんです。その後、「ニッポン放送で番組をやる気はないか」と誘われた。退社し、巨泉さんの事務所でお世話になったのですが、仕事に厳しい人だから、自分の事務所のタレントをバーターで使ったりしない。仕事をもらえるものだと甘く考えていたので、しばらくは生活が苦しかったですね。

 でも、結果的には巨泉さんが助けてくれた。昭和58(1983)年に始まった巨泉さんの番組「世界まるごとHOWマッチ」のナレーターに起用され、甲高い声で面白おかしく話したら、スタジオは大ウケ。「この声でやらせろ」という巨泉さんの指示で、録りためてあったものを録音し直した。そして、僕のナレーションが流れると、巨泉さんは何度も「また小倉のバカが」とボヤく。その後、僕の仕事が増えたのは、巨泉さんが名前を連呼して知名度を上げてくれたおかげなんです。

 巨泉さんは何事も掘り下げて勉強する貪欲な人。メジャーリーグやアメフトなどのスポーツから政治まで何でも詳しかった。ジャズ評論家から放送作家に転身し、作家として携わっていた深夜番組「11PM」に出演することになったのも、情報への感度が高く、先を読む能力に長けていたから。まだ海外の番組の放送などなかった時代に、巨泉さんは自宅に大きなパラボラアンテナをつけて衛星放送で世界の番組をチェックしていたんですよ。だからこそ、日本のテレビの枠にとらわれない発想が生まれたのでしょう。

「絶対に兵ちゃんとたけしを」

 巨泉さんは、企画の段階から番組に関わっていました。「HOWマッチ」の立ち上げ時は「解答者に兵ちゃん(石坂浩二)と(ビート)たけしを絶対に入れてくれ。この二人が出ないなら、俺はやらない」と言っていた。「クイズダービー」でも、数多の候補者の中から篠沢秀夫さんやはらたいらさんなど異色の出演者を選んだのは巨泉さんです。頭の中には「こうすれば視聴率が取れる」というイメージがあり、その基準を満たしていなければ駄目。番組で流すVTRを前日にチェックし、「こんなものは放送できない」と作り直しを命じたり、「話が違う」と激怒して帰ってしまい、収録が中止になったこともありました。

 昭和62(1987)年に始まった日本テレビの「巨泉のこんなモノいらない!?」にも、巨泉さんのこだわりが詰まっていた。世の中の「いらないもの」を斬るバラエティ番組で、「NHK」や「オリンピック」を取り上げるなど、今では放送できない内容ばかり。僕は巨泉さんの質問に答える役割でした。

 特にスタッフが肝を冷やしたのは「高校野球」の回。読売新聞との関係性で日本テレビとしても「高校野球は不要」とは言いづらい。VTRは放送前に局の上層部がチェックしますが、見せれば放送するなと言われる。しかし巨泉さんは妥協を許さない。困ったチーフディレクターは別のVTRを上層部に見せ、オンエアでは“本物”を流して強行突破した。そのディレクターは「俺はクビかもしれない」と怯えていましたよ。彼がクビにならず、むしろ出世したのは不幸中の幸いでしたが。

僕は「“ミニ巨泉”にすらなれていない」

 業界の人間は誰も逆らえないほどの力を持っていた巨泉さんですが、優しさもあった。僕がハワイで挙式した際、仕事の都合で遅れて渡航した僕の代わりに、巨泉さんはうちの母親や妻を連れて観光地を案内してくれていた。妻は早くに父親を亡くしているので、巨泉さんがバージンロードを一緒に歩いてくれたんです。晩年は病との闘いが続きましたが、「小倉の番組だったら出てやるよ」といつもの上から目線で「とくダネ!」に出演してくれた(笑)。

 僕は“ミニ巨泉”なんて言われていたけれど、ミニにすらなれていない。あれほど情熱を持って仕事に取組み、自分を貫ける人はもうテレビ界に現れないでしょう。令和のテレビの現状を見るにつけ、巨泉さんの偉大さを実感する日々です。(構成・音部美穂)

※本記事は、「文藝春秋」2025年1月号、および「 文藝春秋 電子版 」に掲載された、大特集「 昭和100年の100人 高度成長とバブル編 」から全文転載したものです。

 

この特集では、昭和の忘れがたい人物100人の姿を、意外な著名人、親族が紹介しています。

・「 逸見政孝 これが夢だったらな 」逸見愛

・「 篠沢秀夫 ニコニコ珍解答 」篠沢礼子

・「 大屋政子 うちのおとうちゃん 」大屋登史子

・「 団鬼六 なんて酷いことを…… 」杉本彩

・「 阿久悠 僕には絶対書けない 」秋元康

・「 パンチョ伊東 キザなセリフ 」松井みどり

・「 立川談志 立川流はやめていい 」立川志の輔

・「 忌野清志郎 お邪魔しまーす 」仲井戸麗市

・「 森光子 東山さんには甘かった 」井上順

・「 明石家さんま 『Hした?』 」三宅恵介

(小倉 智昭/文藝春秋 2025年1月号)

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