使い込みで会社を2ヵ月で解雇→“あばずれ”と呼ばれた恋人とも破局→強盗殺人犯にまで落ちぶれた「慶應卒のイケメン元証券マンの末路」(1953年の事件)
文春オンライン / 2024年12月23日 17時0分
慶應義塾大学出身のイケメン元証券マンが殺人犯に成り下がったワケとは? 写真はイメージ ©getty
〈 「お前の彼女は誰とでも夜を共にする“あばずれ”」恋人は浮気性→第一志望の会社は内定取り消し…慶應卒のイケメン元証券マンが「強盗殺人犯」に堕落した理由(1953年の事件) 〉から続く
慶應義塾大学の経済学部を卒業後、証券会社に入社した「バー・メッカ殺人事件」(1953年)犯人の正田昭。しかしせっかく入社した会社もわずか2ヵ月で解雇、さらに恋人とも別れることに。自堕落な暮らしで借金も積み重なる彼が考えたのは、なんと「ある男を殺して、金を奪い取る」ことだった…。同事件の顛末を、新刊『 戦後まもない日本で起きた30の怖い事件 』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 最初 から読む)
◆◆◆
入社2ヵ月で会社を解雇
大学卒業を目前に控えた1953年1月、正田は就職先の第一志望だった日産自動車から内定を勝ち取る。ただ、その後に受けた健康診断で肺浸潤(肺にわずかな陰影が認められる状態で、かつでは初期の肺結核と認識されていた)と診断され内定取り消しの憂き目に遭う。
正田の落ち込みようは激しく、結局、卒業後は腰掛けのつもりで受けた中堅の証券会社、三栄証券に入社。すでに真面目に働こうという気持ちは消え失せており、麻雀に没頭する日々を送る。さらに、遊ぶ金欲しさに入社2ヶ月で、まだ交際関係にあったA子の叔母から預かり運用していた株券と金を使い込み、会社を解雇されてしまう。同時にA子との関係も終わりを迎えた。同年6月末のことだ。
仕事も恋人も失った正田は、使い込んだ金の返済に追われるも、自堕落な暮らしで真っ当に返せるわけもない。叔母からの督促は止まず、いよいよ追い詰められた頭に浮かんだのは恐ろしい計画。三栄証券に勤務していたころに知り合った証券ブローカーの博多を手にかけ、金を奪い取ろうと企んだのだ。
さっそく麻雀仲間の相川に相談、懇意にしていたボーイの近藤も仲間に誘い込み悪事を実行に移す。前もって「株券を持っている外務省の役人がいるが、金を融通できるか」と嘘の商談を持ちかけたうえで、同年7月27日昼間に博多をメッカに呼び出し、何の疑いも持っていない相手の首に突然正田がロープを巻きつけ、さらに近藤が角材で滅多打ちにして殺害。この間、相川は入口で見張り役を務めていた。
その後、遺体を天井裏に隠し、現金41万円と腕時計を奪い逃走。分け前は近藤に3万、相川に口止め料として2万と腕時計、残りは正田が懐に入れる。
前記したとおり、警察は3人を容疑者として約7万5000枚もの手配書を用意して行方を追った。結果、事件から2日後の7月29日に正田の下宿先で相川を逮捕、本件に見張り役として関与したとの自供を得る。
また8月3日には近藤が静岡市の静岡中央署駒形派出所に自ら出頭する。取り調べで近藤は犯行を認める傍ら、「新聞を見ると正田はあんなにたくさん金を手に入れたのに、俺には3万しか寄こさなかった」と愚痴をこぼしたそうだ。
正田の逮捕も間近と思われたが、その行方はなかなか掴めない。これには理由があった。警察が作成し、新聞に掲載された正田の手配写真はみなメガネをかけている。が、このとき正田は当時では珍しいコンタクトレンズを着用しており、外見の印象がまるで違ったのだ。ちなみに、当時の新聞報道によれば、正田の手配写真を見た世の女性たちは、「あら、良い男」「こんな人、好きなのよ」「こんな男がいたら匿ってやるわ」などと口々に言い、写真自体を欲しがる者が続出したそうだ。
「卒業生名簿から名前を消してもらいたい」
このように女性がもてはやした凶悪犯の正田が逮捕されるのは、事件から77日後の10月12日。場所は京都・銀閣寺近くのアパートで、麻雀仲間からの通報がきっかけだった。正田の身柄は東海道線で東京へ移送される。このとき新聞社は列車に同乗して取材を敢行。読売新聞が正田との一問一答を掲載している。
問 まず言いたいことは?
答 ただ、ナット・ギルティ(無罪)を主張するだけです。
問 犯行の動機について
答 昨年の夏、就職試験でレントゲンを撮ったら、左の肺が浸潤されていることがわかり、大きなショックを受けた。それから幾分やけになっていたが、ボクは元来おっちょこちょいなので、あんな大それたことをしてしまった。誠に申し訳ない。
問 主犯は誰か?
答 後で調べればわかるが、ボクではない。コンちゃん(近藤)で、ボクは手引きと後始末をしただけだ。
問 今の心境は?
答 ただ申し訳ありません。母や兄たちにも随分迷惑をかけたり、特に母校慶應の名誉を傷つけたことに対して非常に責任を感じている。名簿から名前を消してもらいたい。
そして死刑に
愛宕署に連行された後、正田は供述を変え自分が主犯であることを自供。強盗殺人罪で起訴され、1956年12月15日、東京地裁で死刑を宣告される(近藤は懲役10年、相川は懲役5年で、両者とも控訴せず確定)。その後、控訴、上告が棄却され1963年1月21日に死刑が確定する。
前科がなく、殺害人数も1人で死刑とは重すぎる量刑に感じるが、犯行自体の悪質性に加え、正田が被害者及びその遺族に対して一切の謝罪を行わなかったことが、検察官や裁判官らの心象を悪くしたことが影響したものとみられている。
確定死刑囚となって東京拘置所に収監された正田は獄中で小説を書くようになり、1963年に執筆した「サハラの水」が文芸誌『群像』の新人賞候補になるなど文才を発揮する。
また、死刑確定前から『福音』(キリスト教の聖典)に接し、カトリックの洗礼を受けた後は、罪を悔い改め模範囚として過ごした。
死ぬ前に犯人が残した「最期の言葉」
刑確定から6年11ヶ月後の1969年12月8日、正田に翌日の死刑執行が告げられる。当時は前日言い渡しが慣例で、正田は残された時間で家族やフランス人神父と面会するとともに、知人や友人に手紙を書き残した。以下は、裁判で弁護を担当した正木亮(1892-1971)に送った手紙の一節である。
〈これから、最後の夜を母のために過ごすつもりです。では先生、もういちど、さようなら〉
12月9日、絞首刑執行(享年40)。最期の言葉は「アーメン」だったという。
(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))
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