「私は1945年12月、代々木の共産党本部の門を叩き…」読売主筆・渡邉恒雄氏が生前書き残していた強烈な“共産党批判”【追悼】
文春オンライン / 2024年12月19日 18時30分
渡邉恒雄氏 ©文藝春秋
2024年12月19日、98歳で死去した読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄氏。「文藝春秋」では渡邉氏の寄稿をたびたび掲載してきた。中でも、2013年3月号に掲載された、日本共産党に入党した過去がある渡邉氏による“共産主義批判”は読み応えのある記事だ。
◆◆◆
共産党に入党、そして除名
私は終戦直後の1945年12月に代々木の共産党本部の門を叩き、入党申込みをした。それから1947年の二・一スト後、マルクシズムに対する理論的懐疑、特に唯物論哲学では、人間の道徳、人格の価値がまったく位置づけられていないことを知り、「主体性論争」を当時東大細胞の指導部員(キャップと呼ばれることもあった)として提起した。多くの学生党員に支持され、それを警戒した党本部は、私を除名、東大細胞全体を「解散」処分にした。
終戦直後の学生たちは、マルクスの「共産党宣言」とエンゲルスの「空想から科学へ」くらい読めばマルクス主義を会得したと思い、続々と共産党に入党したものだ。敗戦直後の瓦礫の原野と化し、私財をほとんど失った人間から見れば、共産党宣言は国と社会を改革する最良の指針となっても不思議はなかった。
ちなみに、マルクス主義が理論体系として完成されるのは、「共産党宣言」より約20年後の1867年から94年にかけて刊行された「資本論」による。1883年にマルクスが死去した後、親友のエンゲルスによって完成された。「資本論」は商品と貨幣の関係、剰余価値の発生、労働賃金と資本の蓄積過程など資本主義的生産のすべての過程を分析した経済学上の古典的名著であって、戦後一時東大の経済学者は、「マル経学者」に占拠されたほどである。
「共産党宣言」は無効化した
しかし、この理論は1848年前後の欧州諸国での革命連発時代で、諸国民の置かれた産業社会の階級対立の中で構想されたものだ。確かに、当時の産業社会は矛盾に満ちていたが、後述するように21世紀の世界とは政治、経済を含む産業社会構造は、まったく異質なものとなっている。
20世紀の初期、1929年10月24日の「暗黒の木曜日」のウォール街大暴落に端を発した世界大恐慌に始まるデフレは十年余も続き、マルクスの言う資本主義の大矛盾としての社会混乱が起きていた。4人に1人の失業者、食糧過剰の中で貧困と飢餓が生じた。農産物をはじめとする物価大暴落による農民の窮乏、中産階級の所得の低下等、プロレタリアートの蜂起の条件は完璧に備わっていた。
もちろん、共産党、社会党は革命の好機としてデモや暴動を煽動したが、社会党は修正資本主義に傾いて共産党は孤立し、貧民たちを含め没落した中産階級も共産党支持に走ることはなかった。またニューディール期に共産党が連邦議会に議員を出すこともなく、大統領選挙でも得票数は泡沫の如きものだった。
1848年2月、マルクス29歳のときに刊行された「共産党宣言」は、米国の大恐慌時に全く影響力を発揮しなかった。そのことは欧州諸国についてもほとんど当てはまる。
革命の最適条件を満たしていた当時の大恐慌下の米国で、共産党がなぜ泡沫政党以下の存在であり、大衆の支持を得られなかったのか、その理由は簡単である。
そもそも「共産党宣言」は、岩波文庫版(1980年、第43刷)で、全文50ページに過ぎぬ宣伝煽動文書であり、政策らしいものは第2章末尾のたった12ページで、10項目の政策が挙げられているが、内容はきわめて単純なものだ。しかも、それらの政策の大半は、当時の米国や欧州、日本等で、次々に資本主義や修正資本主義、穏健な社会民主主義体制下の政権によって実現されてしまった。
例えば、「すべての児童の公共的無償教育。今日の形態における児童の工場労働の撤廃」(第10項)などは、今日の先進工業国で、はるか昔に実現した。「土地所有の収奪」(第1項)の典型は、占領下日本で地主から所有権を収奪し、小作農に分配した「農地改革」だろう。これは資本主義国の米占領軍の指導によるものだ。「強度の累進税」(第2項)も占領下日本で強制されたが、今や中間層にも嫌われている。
「暴力革命」理論の終末
マルクスは「共産党宣言」を「プロレタリアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。――万国のプロレタリア団結せよ!」という文章で結んだ。
ところが、マルクス思想の正統的後継者で、実践的革命家であったレーニンは、マルクスの歴史的必然として発生するべき共産主義革命を、武力を使った完全な「暴力革命」として実現した。そのとき彼は「万国のプロレタリア」の団結と逆に、「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」と宣言し、1917年の「二月革命」「十月革命」を経て、世界最初の社会主義国家を作ったのだ。これは“一国革命”であって国際性はなかった。
レーニンはその後も流血革命を続け、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世をシベリアに流刑した。さらに家族もろとも惨殺した。さらにレーニンの後継者スターリンは「粛清」で2000万人を殺した。「中国のレーニン」たる毛沢東もまた、文化大革命で2000万人殺したと言われる。暴力革命は大量殺人を伴ってきた。
これが「暴力革命」の典型であり、戦後の日本共産党も「暴力革命」の必然性を公言していた。しかし、当時の国民に反発され、一時「平和革命」の語が使われた。野坂参三による「平和革命」の語は、「革命の平和的発展の可能性がある」と定義替えされ、後に党本部は「暴力革命」を「威力革命」と改訳した。
しかし、その後の共産党の衰退は周知のとおりだ。万国のプロレタリアが団結することはなかったし、暴力革命によって社会が改善したわけでもなかった。EUや日本など多くの先進国においては、資本主義や穏健な社会民主主義が実現した労働者のための政策によって、かつてのような階級対立はなくなった。マルクス理論は必要とされなくなったのだ。
※本記事の全文(約8800字)は「文藝春秋 電子版」でご覧ください(渡邉恒雄「 マルクス主義の復活? バカいうな」 )。全文では下記の内容をお読みいただけます。
・架空エッセイの誤謬
・NICレポートに反論する
・中国の成長は止まる
・米国の軍事力は圧倒的
・階級闘争が復活する中国
(渡邉 恒雄/文藝春秋 2013年3月号)
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