「主筆室でポックリ死んで、秘書に発見される…」読売新聞主筆・渡邉恒雄が生前に明かしていた“理想の死に方”とは《追悼》
文春オンライン / 2024年12月19日 12時0分
渡邉恒雄さん ©文藝春秋
2024年12月19日、読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄氏が98歳で死去した。理想の“死のかたち”を14名に語ってもらった『 私の大往生 』(文春新書)から、渡邉恒雄さんのインタビューを公開する(肩書き・年齢などは、いずれも当時のもの)。
(初出:週刊文春2012年5月31日号)
◆◆◆
主筆室でポックリ死んでいて、秘書に発見される
――93歳(2019年)にして読売新聞グループの代表取締役、そして主筆を務める渡邉恒雄氏。
政治記者として名を馳せ、巨人軍オーナーとなった1990年代以降は世間でも「ナベツネ」としてその存在を知られ、しばしば「独裁者」と称された。しかし今回(2012年)、自らの「死」を語る表情、口調は、そんなイメージからは程遠い、実に穏やかなものだった。
渡邉 理想の死に方、これは達者でポックリ、意識しないうちに死ぬというのが良いに決まってる。この部屋(主筆室)で死んでいて、秘書が発見する。これなんか、いいんじゃないか。
だけど現実的には、なかなかそうはいかない。病死だろうね。
僕が非常に尊敬している、戦後二代前の社長の務台光雄さん。この人の臨終に立ち会ったんだが、病室に駆けつけたのは僕が最初だった。
その時は既に脳死状態で、心臓だけを機械で動かしている状況だったんです。
それで3人の遺族が到着して、機械のボタン押したら、スッと心臓が止まった。
この時、非常に人間の尊厳が冒されてると思ったね。僕は機械的延命っていうのは絶対にお断りだな。
20年くらい前に、Mさんという有名な医師がいて、この人の母親が死んだ時、僕に手紙をくれた。母親が非常に苦しんでいるのを見かねて、ポララミン(アレルギー薬)を静脈注射したら、苦痛なしに直ちに逝けた、つまり人工的に死に至らしめたと。
考えようによっちゃ非道徳的なのかも知れないが、苦しみながら延命させるっていうのは善じゃないと思うね。
だから僕も命を縮めてもいいから、注射を打って苦しまず安らかに、眠るように死なせてもらいたい。
まさに死ぬという時に聞きたい曲
――もう1つ望みがあるんだ、と渡邉氏は席を立ち、ある箱を持ってきてくれた。その中には「渡邉恒雄葬送曲目集」と書かれた5つのテープが入っていた。
渡邉 音楽を聞きながら死にたいんだ。まさに死ぬ時に聞きたい曲が2通りある。
1つはチャイコフスキーの交響曲「悲愴」。
19歳の時、軍隊に徴兵されて、明日から入営という前の晩に、旧制高校の後輩が10人くらい僕の家に来た。お袋がかき集めてきた「武運長久」というお守りを11枚、みんなの前で火鉢にくべたんだ。こんなバカなものと、お袋には内緒でね。
それを焼いた後、俺の葬送行進曲を聞け、と聞かせたのがこの「悲愴」だった。当時のレコードはSP盤で、手巻きの蓄音機。しかも金属の針がないから、竹を削って尖らせた竹針で聴いた。死に向かう自分にふさわしいと思えるんだな。
もう1つは、(今回の)インタビューの前に考えた。「悲愴」というのは本当に陰々滅々とした、悲劇的な曲。だから、モーツァルトの「ディヴェルティメント第十七番」。これは明るく楽しいから聞きながら死ねば、気が楽だろう。死ぬ直前にどちらをかけるか決めたいね(笑)。
音楽葬テープには、葬式で流してほしい曲が入っている。グリーグのペール・ギュント組曲の「オーゼの死」とか、シベリウスの「悲しいワルツ」とか。そしたら後になって当時の専務が、「渡邉さん、一周忌用作ってきました」とテープ2つ持ってきたんだ(笑)。これがまた、僕のあまり好きじゃないバッハとか、古い曲が多い。「余計なもの作ってきたな」と思ったんだが、しょうがないから一緒にしてあるよ。
――渡邉氏は東大入学後の1945年に徴兵された。この時、初めて死を意識したという。
渡邉 僕は8歳の時に親父を亡くした。ある日、家に帰ったら親父が入院していて、1週間後に生まれて初めてタクシーに乗って、病院に行った。「おお、恒雄来たか」とだけ、言ってくれたが、それで意識を失って死んでしまった。でも、当時はまだ死というものがよくわからなくてね。何かまだ、どこかに親父がいるような気がしていた。
だから初めて死を感じたのは戦争。あれは全く、死を感じたね。誰だってそうだ、負けるに決まってるんだから。
捕虜収容所で読む予定だった3冊の本
中学時代から、友達の父親に高級官僚とか、政治家とか、財界人がいて、旧制高校でも仲間の父親に大臣クラスもいた。だから本当の情報が入ってくる。もうミッドウェー以降、どんどん負けている。そういう敗北が決まっている段階で徴兵されたわけだ。
99%、死ぬと思った。残る1%は脱走だ。生き残るには脱走しかないと思った。あの頃、逃亡兵は捕虜収容所に入れられると勝手に空想していて、戦犯ではないから、2、3年で釈放されると踏んでいた。
そのために僕は軍隊にいる時、3冊の本を隠し持っていた。まず、カントの『実践理性批判』とブレイクの詩集。2、3年繰り返し読んでも飽きない本だ。それとポケット英和辞典。逃亡に成功して降伏した時に、英会話が必要になると思ったんだな。見つかっていたら、確実に重営倉(懲罰)だね。
僕は将校になるのが嫌だったから、幹部候補生試験に願書を出さず、陸軍二等兵だった。当時は少尉が真っ先に前線に立たされ、先に死んじゃう。だから「俺は絶対二等兵がいい」と思った。
それで軍隊で特務曹長に「お前は東京大学の学生である、幹部候補生の受験資格がある。受けろ」とこう言われた。僕は「いや、軍隊の根幹は兵であります。私は将校にはなりたくありません」と言ったんだ。これは感心された。特務曹長というのは、要するに下級兵士からの生え抜きだから、元々将校じゃない。兵が良い、大事って言われたら悪い気はしないんだ。でも「しかしな、お前は資格があるんだから、受けろ」となった。僕も「いや、軍の根幹は……」と、このやり取りを2、3回繰り返したら、「バカヤロー!」と怒鳴られたね(笑)。
僕は十サンチ榴弾砲部隊だったんだが、8月15日の段階で鉄のタマが全然なくて、木のタマで練習した。実弾すらなかったんだから(笑)、本土決戦なんて言っていた奴は許せない。本当にバカげた戦争だった。
政治部長だった頃、食道がんと診断された
――1997年、前立腺がんと診断され、全摘出手術を行った渡邉氏。しかし、この時は死を意識しなかったという。
渡邉 僕はこの時、すでにがんについて散々勉強して、がんは治るものだという確信を持っていた。
実は、政治部長だった頃、読売診療所で食道がんと診断されたことがあるんだ。5、6軒の病院を回って、11人の医者に診てもらったが、口をそろえてがんだという。これはもうお終いだと思ったね。40年近く前だから、がんが治るなんて時代じゃない。がんイコール死だった。
それで遺書を書いて、女房に言い渡して、子供はこうやって育てろよ、と。親友に電話して「ウチの倅のこと、将来よろしく頼むぞ」と伝えて、身辺を全部整理した。それで全て終わって夜11時頃、寝室で女房と一緒に寝て、手を握ったわけだ。そしたら女房が、「あなた妙な緊張状態にあって、私の言う事全然聞いてくれなかった。もう一度言うわ。秋山洋先生という虎の門病院の消化器外科部長(後に院長)は食道がんの大家よ」とこう言うんだ。僕はこの人を知らなかった。
すると「知らないわけないじゃないの、同じマンションにいたのよ、ウチの息子と秋山先生の娘は砂場で泥んこになって遊んでた。私は奥さんをよく知ってる」って言うんで、女房が夜遅くに電話をかけてくれた。
それで秋山先生が出てくれて、僕が事情を説明したら、明日からドイツ出張だが、成田発午後4時だから、午前9時に虎の門病院の玄関に来てください、お迎えに出ます、と言ってくれた。あまりの親切にビックリしたね。それで翌日、造影剤飲んだり、3時間かけてありとあらゆる検査をしてくれた。すると先生は「あなたの身体のどこにもがんはありません。これは誤診です」と言ったんだ。もう天にも昇る気持ちだったな。それから僕はもう、がんを恐れなくなった。
20何年か後に僕に前立腺がんの全摘手術を施してくれたのは、垣添忠生先生という日本で前立腺がんの全摘手術をした最初の1人だった。
彼が何故その技術を持っていたかというと、中曾根康弘さんが首相の時に「対がん十か年総合戦略」というものを謳ったんです。その予算で、前立腺がんの名手が集まるミネソタ州のメイヨー・クリニックという所に留学したのが垣添先生だった。
だから中曾根さんには、「あなたの対がん十か年総合戦略のおかげで僕の命は助かった」と言っているんだ。
哲学青年にとっての死の恐怖とは
――渡邉氏は東大哲学科卒。哲学青年だった彼はカントとニーチェの思想で戦争の死の恐怖に耐えたという。
渡邉 死にゆく人は天国とか極楽とかがあって、信仰のある者は天国に行けるとか、宗教心で死に耐える。ところが僕は、無宗教、無神論。僕に宗教があるとすれば、カントの道徳哲学。
もう1つはニーチェだったんだが、最近ニーチェがやたらと売れている。改めて読んでみると、矛盾だらけで読めば読むほどつまらないんだな。もう1年くらい前から、否定している。あれは哲学ではない。
となると、僕にはカントしかない。これは要するに、「この世で最上の価値は何かと言うと、うちなる道徳律である」ということ。僕にとって宗教的なものはこれしかない。自分の人格、誰にも誇れるだけの完璧な道徳律というものを自分で持っている、そのことだけが価値がある、だからそのまま死ねばいいと。
それはもう、他人には一切わかりません。ただ死ぬ時に、自分だけが「俺は自分の道徳律を破った悪事は働いていない、綺麗に死ねたな」と思えれば、それで満足だね。
――「こんなものが来たんだ」と渡邉氏は記者に1通の手紙を差し出した。差出人は「小林克己」となっている。「諸先輩 友人 知己の皆様」から始まるその手紙には「私 小林克己 はこのほど死亡いたしました」とある。
渡邉 小林克己君というのは、中曾根さんの秘書で、僕の旧制高校の2年後輩だった。東大でも一緒。僕が最も信頼して1番親しい弟のような後輩だった。
参議院の参事をやっていたのを僕が中曾根さんの秘書にした。彼が選挙事務長をやると、中曾根さんはトップ当選だし、(中曾根)弘文君も彼が事務長やって、当選した。
本当に頭のいい奴でね。1度僕が、彼を別の仕事で欲しがった事があって、それを中曾根さんに言った。すると「小林君は私の掌中の金です、手放せません」と言われたんだ。
しばしば彼を呼んで、2人だけで飯を食べながら昔話をするのが楽しみだったから、そろそろ彼に電話をかけようと思っていたら、これ(手紙)が来た。今年(2012年)の1月です。
腰が抜けたね。ビックリした。70年近い付き合いだから、間違いなく宛名は彼の字。初めは自殺かと思ったんだけど、色々親族に聞くと、違った。
どうやら奥さんが死んでから、子供もいなかったから1人で住んでいて、いつ自分が死ぬかわからないと思ったんだろうな。それで「俺に万が一のことがあったら引き出しの中の箱を開けてくれ」と言い残してあったそうだ。開けたらこれが出てきた。100人くらいに出したらしくて、政界では有名になった。
手紙には「葬式その他これに類する行事は一切行なわないよう、周りの者に言い残してあります」とある。だが中曾根さんから電話が掛かってきて、いくらなんでも何もやらないのはおかしいから、と言って、ホテルで100人から200人くらい集まってお別れの会をやったんだ。中曾根派の与謝野(馨)君とか島村(宜伸)君とか、皆来てね。
これが死に方としては最も印象的だな。超理性的な死に方だ。実は、俺もこれやろうかな、と思っているんだ(笑)。「私 渡邉恒雄 はこのほど死にました」とね。
――自分の死亡記事を自ら書く、というテーマの『私の死亡記事』(文春文庫)。2000年に自らが書いた渡邉氏の「死亡記事」では、2021年に尊敬する務台光雄と同じ94歳で、カラス駆除中、転落死とある。巨人軍は2000年から2019年まで20連覇だ。
渡邉 野球は、白石(興二郎)社長をオーナーにしたし、僕はもう手を引いているんだよ。この記事を書いた頃は若かったからね。今は野球で時間潰していたら、政治経済を勉強している時間がなくなっちゃう。
――渡邉氏は「ナベツネ」と呼ばれるのを嫌う。しかし、死んだ翌日のスポーツ新聞の見出しにはおそらく「ナベツネ、死す」と掲載されるだろう。
この齢まで生きたのは、忙しかったから
渡邉 僕は、煙草もやるし、酒もやる。医者の言う事の真逆のことをやってきた。
煙草は、紙巻は舌が荒れちゃうから、葉巻かパイプ。1日中吸うから、紙巻だったら百本超える。中学の時からだから、70年吸い続けたが、肺がんにならなかった。僕は医者によると、ニコチンでがんにならない遺伝子を持っているらしいんだな。
酒は日本酒だったら3合、ウイスキーはダブルの水割り3杯まで。これ以上飲むと気持ち悪くなっちゃう。終戦直後は、焼酎1升一気飲みなんてこともやったね。新宿の道路で寝込んじゃって、起きたら身ぐるみ剥がされて裸だった(笑)。
要するに、この齢まで生きたのは、忙しかったからだろうな。年がら年中頭使って、身体使ってた。
ただ、僕が死んだ後に残すのは、墓石だけだね。実は墓碑はもうできている。中曾根さんに書いてもらったんだ。先祖の墓地に同居している。
1番の親友だったからね。僕も駆け出し、向こうも陣笠議員の頃から勉強し合っていた仲だ。両方とも生きているうちに頼みたいという話をしたら、3日で書いて送って来てくれた。
渡邉氏は、知る人ぞ知る愛妻家で、家族を大事にしている。最期もまた、家族と共にありたいという。
妻は先に死んだ。1人息子は非常に親孝行でね、毎晩僕の家に来て、肩や身体を揉んでくれる。孫は今(2019年)高校生でしばしば僕の家に来てくれている。
家族っていうのは良いもんですよ、本当に。最期の時も傍にいてもらいたい、そう思ってる。
大往生アンケート
■理想の最期とは?
達者でポックリ、意識しないうちに死ぬ。なかなか難しいと思うが。
■心に残っている死に方をした人は?
小林克己君。手紙で本人から死を報告される、というのは生まれて初めての経験だった。(前文参照)
■想定している自分のラストシーンは?
主筆室で突然死。部屋からなかなか出てこないことを心配して入ってきた秘書に発見される。
もしくは病院で、チャイコフスキーかモーツァルトを聴きながら、注射を打ってもらって苦しまずに死にたい。できれば家族は傍にいてほしいね。
■最後の晩餐で食べたいものは?
好物のソース焼きそば。あと、なるべく小粒のジャガイモを茹でたやつに塩をかけて食べたい。
戦争中、歩哨をやっている時に農家の庇を借りて、その下で銃を持ってしゃがんでいるわけだ。すると、農家のおばちゃんがジャガイモを茹でたやつに塩をかけて出してくれる。これが本当に美味かった。
未だに僕は家でも食べるし、日本料理屋に行ってもジャガイモを頼むんだ。
■最後の瞬間、何を思い浮かべる?
楽しかった女房との新婚時代、子供と孫、家族のことは思い出すだろうな。そしてお世話になった務台光雄さんと大野伴睦さんのこと。あとは、戦争だな。あんなバカなことやっちゃいけないな、と考えながら死んでいくだろうな。
■もし生まれ変われるとしたら?
それはもう、当然新聞記者ですよ。
もう一度駆け出しから、現場の記者をやりたいね。
佐藤愛子(作家)・渡邉恒雄(読売新聞主筆)・中村仁一(医師)・外山滋比古(英文学者)・酒井雄哉(天台宗大阿闍梨)・やなせたかし(漫画家)・小野田寛郎(小野田自然塾理事長)・内海桂子(芸人・漫才師)・金子兜太(俳人)・橋田寿賀子(脚本家)・出口治明(大学学長)・高田明(ジャパネットたかた創業者)・大林宣彦(映画監督)・柳田邦男(ノンフィクション作家)生を達観した14人へのインタビューは『 私の大往生 』(文春新書)に収録されています。
(「週刊文春」編集部/文春新書)
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