半径80kmが無人の“冬のアラスカ”で突然の失神…現地民から「日本のトナカイ」と畏敬される登山家を襲った“唯一の想定外”「あの時は1つだけいつもと違うことを…」
文春オンライン / 2025年1月5日 11時10分
雪洞内では1人、意識を失えば見つけてくれる人はいない(栗秋正寿撮影)
〈 世界中の登山家が避ける“冬のアラスカ”で突然意識を失った日本人登山家(41)の運命は…6歳の娘は「お父さん、死んだ」とつぶやいた 〉から続く
福岡から6000km離れたハンターの山中で、栗秋は目を覚ました。
温かかったパスタは凍っており、沸かしていたはずのお湯はなぜか鍋に一滴も残っていなかった。その鍋をかけていたコンロの火は消えている。左手がコンロにふれて火傷をしたのか、指先に小さな水疱ができていた。
頭がボーッとしており、状況がつかめない。自分は寝落ちしてしまったのだろうか。いや、今日は雪洞にこもっていただけで、疲れてはいない。特に眠気を感じていたわけでもない。ある時間だけが自分からすっぽり抜け落ちてしまったようで、こんなことは初めて経験する感覚である。失った時間は1時間半ほどのようだった。
酸欠か――。
次第にはっきりしてくる頭で栗秋はそう考えた。閉鎖空間である雪洞は酸欠になりやすい。コンロなどで火をたくとなおのことである。だから換気にはいつもかなり気を使っている。入口は閉め切らずに隙間を空けておき、天井には煙突のような穴を空けて空気が循環するようにもしている。
雪洞での生活に長けている自分が何度も酸欠に陥るのは腑に落ちない
あらためて雪洞の通気口をチェックした。いつもどおりだったが、もっと広く開けたほうがいいのかもしれない。だが何かがおかしい気もする。考えてみれば、登山序盤にも酸欠になりかかったことがあった。
そしてつい前日にも同じようなことを経験している。そのときは気を失いはしなかったものの、酔ったような状態になった。雪洞での生活には長けているはずの自分が何度も酸欠に陥るのは腑に落ちなかった。
やや不安を抱えたまま眠りにつく。酸欠による体調不良がもっとも進みやすいのは睡眠中だ。大丈夫なのだろうか。
少し息苦しく感じたが睡眠は十分にとれ、翌朝を迎えた。天気は相変わらず吹雪。通気口が埋まってまた酸欠になってはまずいと思い、外に出て除雪をする。立ち上がると、左脚に妙なコリを感じる。いまひとつ力が入らないような感覚があり、よろめいたりもした。やはり何かがおかしい。
その後は3月18日まで天気が回復することはなく、雪洞内に閉じ込められた。幸い、酸欠が再び起こることはなく、体調不良が再発することもなかった。
登山開始から52日目となる3月19日には天気がいくらかよくなってきたので、雪洞を出て行動を起こす。そして標高3660m地点まで進んだが、その後の行程と天候を考えると登頂は諦めざるを得ないと判断。24日に下山を始め、4月2日、麓のベースキャンプに下り着いた。
この登山でひとつだけ、栗秋はいつもと違うことをしていた
それにしても不可解な失神と不調はなんだったんだろうか。
下山して帰国した後、この経験したことのない不調が何に起因していたのか、いろいろ調べるにつれて栗秋は徐々に理解していった。
この登山でひとつだけ、栗秋はいつもと違うことをしていた。それは「高効率クッカー」の使用である。高効率クッカーとは、底面にヒダを設けることで熱の拡散を抑え、コンロの熱をロスなく伝える構造をした登山用鍋のこと。一般的な鍋よりも少ない燃料で早く湯を沸かすことができるため、登山の現場で人気を集めるようになっていた。
長期間山に入る栗秋にとって、携行する荷物は1グラムでも少なくしたい。燃料消費の少ないこの鍋ならば、これまでより少ない燃料で登山を完遂できるのではないか。そう考えて新たに導入したのだった。
ところが落とし穴があった。
高効率クッカーは、正しい使い方をしないと一酸化炭素が発生するというのだ。火元を覆うことで熱効率をよくしている構造上、適切に空気が送られないと不完全燃焼を起こしやすい。そのため、メーカーはコンロと鍋をセットで設計して不完全燃焼が起こらない工夫をしているのだが、高効率クッカーの使用を想定していないコンロと組み合わせて使うと、一酸化炭素中毒のおそれが高まってしまう。
栗秋はまさにこの組み合わせで使っていた。別の登山家がまったく同じコンロと鍋の組み合わせで、一酸化炭素中毒を起こしていたことも登山後に知った。
高効率クッカーは登山だけで使われているわけではない。構造こそさまざまであるものの、同じ狙いをもって作られた家庭用の鍋やフライパンもあり、2015年には行政法人の製品評価技術基盤機構(NITE)が警告を発している。それによると、一般的な鍋と比べて数十倍の一酸化炭素が発生し、死亡事故も起こっているという。
今でこそ理解が進んでいる部分もあるが、2014年の時点ではこのことはあまり知られていなかった。栗秋は反省した。自分の体に何が起こったのか、正確に証明することはできないが、さまざまな症状と状況からして、一酸化炭素中毒だった可能性が高いのだろう。
娘の蒼子が「お父さん、死んだ」と言ったということにも不思議な運命を感じた。2年前の2012年にも、同じハンターに登っていたとき、蒼子が「やまのぼり終わったよ」と突然言い出したことがあったという。栗秋は帰国後に話を聞き、日誌を見返したところ、まさにその日が下山を決意した日だったのだ。
アラスカの万年雪に埋もれて永遠に発見されず、すべてが謎に
「目を覚ますことができて本当によかった」と栗秋は振り返る。なぜ意識を取り戻すことができたのかはわからない。燃料切れでコンロの火が消えたのが幸いしたのか、あるいはすきま風が吹き込んでいたのか。いずれにしろたまたまの幸運でしかないと思う。
もし、あのとき目を覚ますことがなかったら。
雪面にテントを張っていたのであれば、捜索の飛行機に発見される可能性もあるが、栗秋がいたのは雪の下に掘った空間。上空からは発見できない。通りかかった登山者に発見される可能性も限りなくゼロに近い。なにしろ誰もが避ける冬のアラスカ。次に登山者がハンターに来る可能性があるのは早くても数カ月後だ。
そのときまでには新しく降った雪に覆われて、栗秋がいた痕跡はきれいになくなっているだろう。栗秋の体はアラスカの万年雪に埋もれて永遠に発見されることはなく、何が起こったのかも謎のままだったはずである。
そしてこれは冬のアラスカという特殊空間特有の現象ではなく、高効率クッカーだけで起こることでもない。日本国内でも、登山やキャンプでの一酸化炭素中毒死は数年に一度は起こっている。
冬のアラスカに20年通い続けて生還し続けてきた栗秋でも、わずか1回のミスで命を落としかけた。自分の体験が少しでも教訓になってくれれば。栗秋はそう願っている。
(森山 憲一)
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