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「暴力団の親分と直談判して」新宿の“劇場乗っ取り計画”を阻止…過激な団体を結成した「伝説のテキヤ」尾津喜之助が“鬼熊”と呼ばれたワケ

文春オンライン / 2024年12月29日 17時10分

「暴力団の親分と直談判して」新宿の“劇場乗っ取り計画”を阻止…過激な団体を結成した「伝説のテキヤ」尾津喜之助が“鬼熊”と呼ばれたワケ

写真はイメージ ©アフロ

〈 19歳で対立する組長の暗殺を計画、20歳で芸者と“駆け落ち”…「伝説のアウトロー」尾津喜之助が歩んだ波乱万丈すぎる道のり 〉から続く

 戦後新宿の闇市でいち早く頭角を現し、焦土の東京に君臨した“伝説のテキヤ”尾津喜之助。アウトローな人生を歩んでいた彼は、どのようにして「街の商工大臣」と称されるようになったのか?

 ここでは、ノンフィクション作家のフリート横田氏が、尾津喜之助の破天荒な生涯を綴った『 新宿をつくった男 戦後闇市の王・尾津喜之助と昭和裏面史 』(毎日新聞出版)より一部を抜粋・再構成して紹介する(全4回の3回目/ 4回目 に続く)

◆◆◆

新宿でうなぎ屋を開店するが、昔の悪い仲間が出入りするように

 大きな資金を得た尾津は、露店ではなく、ついに実店舗を新宿に買ってうなぎ屋を開店する。これを機に、露店商から足を洗おう。そう決めると、板前を3人も雇い入れ、自分でもうなぎをさばこうとねじり鉢巻きをしめた。

 震災余波の不景気で日々お茶をひいているばかりの中野新橋の元芸者も給仕係として入れてみた。するとまたも、面白いように、客がするすると入りはじめたのだった。

 震災前後に始めた商売は、こうして全てが成功。表情のゆらぎはおさまり、商売人の「いい顔」ができるようになった。その矢先……月に叢雲花に風(つきにむらくもはなにかぜ)。

 流行れば流行るほど、歓迎しない者がしだいに寄りついてくるようになってきた。昔の悪い仲間が評判を聞きつけ、「おう兄弟」などとヘラヘラ店へ顔を出しにくるようになってしまったのだ。

「こんな、犬みたいなやつらと付き合うのはもういやだ!」

 ただ飯を食らい、ただ酒を飲む。しばらくは昔のよしみで許していたが、そうなると余計に調子にのって、しだいに酔って客にちょっかいを出す者も出てきた。あるとき客になんくせをつけだした男を目にしたとき、持前の癇癪玉(かんしゃくだま)、久々の大爆発。

「こんな、犬みたいなやつらと付き合うのはもういやだ!」

 尾津は、新しい鉢巻きを放り投げ、襟首をひっつかんで男らもオモテへ放り出し、散々にたたきのめしてしまった。数日後、その子分らがお返しにやってきたが、鬱憤を晴らすように返り討ちにし、新宿の往来で、大立ち回りを見せつけてしまった。

 いつの時代も、いざこざの起こりそうな面倒な店に客は寄り付かないもの。あっという間に傾いていく店。これで尾津は商売がいやになり、結局、店をたたんだ。

 ゆらゆらゆれていた商人の顔が遠くへ去り、鬼が寄る。一転、荒んだ生活へと入っていこうとする尾津を、人はこう呼んだ。「新宿の鬼熊」。

 自分の商売へのセンス、機転には自信があったのに。料理の心得も知識も付けたのに。20代半ばを超え、時代は大正が終わろうとするころ。尾津はまた商人から離れた。気分は日々、荒んでいった。

やくざの顔で新宿の街をうろつき、紛争の仲裁にかかわるように…

 鬼熊の異名をとって、ふたたび舎弟分を引き連れて新宿の街をうろつくうち、紛争の調停が早くも持ち込まれてくる。言うまでもなく、尾津のその身から、また子分たちから、噴き上がっている示威力を期待されてのこと。

 たとえば、劇場乗っ取り計画の解決。震災の焼け跡に劇場の建設予定があり、賭場を開いていた右翼団体のリーダーが我が物にしようと企んでいた。子分も抱えており、完全なる暴力団の親分である。尾津は劇場側に依頼され、単身乗り込んで親分方と談判し、乗っ取りは無事に水に流れた。

 しかし、本当は単身、ではなかった。親分方の建物付近に若い衆を見えるように配置し、なにかあれば相手にも相当の被害が出ることを匂わせた。

 結局、示威力で事態を収拾して御礼をもらっているのだ。尾津はこのとき、完全なやくざの顔をしていた。

「皇国決心団」なる組織を結成

 自分を慕って付いてくる若い衆を食わせなければならない。そして示威力で商売するのならば、自分の名を出すだけで事態が収拾されるよう、名を上げないとならない。鬼熊の異名でなく、平井扇風(尾津の別名、雅号)の名を上げたかった。

 尾津は、池袋へ出る。鳥取県知事や貴族院議員を歴任した武井守正男爵の旧宅が借家に出されていたのか、借りられることがわかると、昔の仲間、子分を30名ほどあつめ、ここに「皇国決心団」なる組織を結成した。

 この名から、純粋な政治結社などと思ってはいけない。10代のころ作った「紫義団」と実質は大きくは変わらない。紫義団のころは子ども同士で小銭を集めていたのだろうが、今度は過激な政治活動によって名を上げ、各所よりカネを引き出そうと企図していた。

 警察的表現を借りるなら「政治ゴロ」、現在でいえば半グレ組織にきわめて近い。やったことは無茶苦茶、この男の生涯でも最も無茶苦茶な時期でもあった。

27歳くらいのときのケンカで、人を2人殺してしまって…

 大正の終わり、昭和天皇が摂政官だった時代に、その馬車の列にブラジル公使が礼を欠いた行動を取った小事件が起きた。「よし」、これを知るや突如として尾津は自動車に乗って、ブラジル公使館へ乗り付け、なんと敷地内まで侵入、抗議行動だ!と暴れたわけだがもちろん逮捕。

 かと思えば、アメリカに排日機運が盛り上がっていると知るや、今度はアメリカ大使館に忍び込んで、星条旗を竿からひきおろして、またも捕まっている。

 ほかの政治団体の壮士たちとも小競り合いを繰り返し、大きな「出入り」(やくざ者同士の衝突)があれば、自ら抜刀して相手を威圧した。この時期、尾津は「企業協調社」という不動産ブローカーの実態不明の会社も興す。尾津本人が後年語った一言が正確だろう。「インチキ会社」。

 大正の終わりごろ、27歳くらいのときのケンカでは、人を2人殺してしまっていると後年アメリカ人記者に話している。子分が出頭したのか尾津は逮捕されなかったから、虚勢を張ったのか事実なのかは不明。

 ちなみにこの時期、逮捕歴自体は実際に2回あり、刑務所にも入っている。一度は大正15年11月13日、東京刑事地裁にて恐喝で10か月、少しあとになるが昭和3年10月5日、同じく恐喝で10か月である。

手下たちは手が付けられなくなっていく

 こうして平井扇風の名はそれなりに「業界」に売れたようだが、このような仕業で売っていく名になんの意味があるのだろうとの思いが、彼を追いながらも筆者の心をよぎっていくが、売る先は一般社会でなくアウトローたちの世界。一定の意味はあるのか、とも思い直す……。

 確かにここへ売り出していかねば、各地に勢力を持つ親分衆に一目置かれることもなく、子分も集まらない。子分がいなければ、組織的な示威力を持ちえない。

 しかしここまでだった。

 乱暴狼藉を繰り返すうち、手下たちは増長、その横暴に手が付けられなくなってきて、尾津本人ももてあまし気味になってきた。ここで政治団体「赤化防止団」総帥の米村嘉一郎から、もう潮時では、と提案を受ける。

 赤化防止団はアナキストを襲撃したり、東京市長時代の後藤新平の邸宅を襲撃するなど、テロ行為をいとわない過激派組織。その総帥に諭されてしまうとは、このときの尾津グループがいかに哲学なき、無法者の集まりだったかの証左と言える。

 米村のすすめ通り、結局尾津は、この団体も解散した。

〈 「すべて俺のせいだ」子分の暗殺を指示→懲役13年→刑務所内で自殺未遂…「伝説のテキヤ」尾津喜之助が服役中に良心の呵責に負けた理由 〉へ続く

(フリート横田/Webオリジナル(外部転載))

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